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最後の夜に

翌朝、カイが来た。

転移の術式が切れる前の、最後の接続だった。ライラから「今日中に戻れ」と言われていた。それは分かっていた。

それでも朝に来た。

王都の門をくぐる。衛兵が頷く。頷き返す。

街の中を歩く。朝市が始まっていた。野菜を並べている農夫がいる。パンの匂いがする。子供が走っている。

いつもと同じ光景だった。

(明日には、ない)

カイはその考えを、頭の端に追いやった。追いやってから、また戻ってきた。今日だけは、追いやりきれなかった。

書庫の前まで来た。

扉を開けた。

リラは本棚の前にいた。背表紙に指を当てたまま、動いていなかった。何かを感じ取っている時の、あの立ち方だった。

カイは声をかけなかった。

入口の近くに立って、待った。

三十秒ほどで、リラが振り返った。

カイを見た瞬間、何かが顔を横切った。一瞬だけ。それからいつもの顔に戻った。

「カイ」

「ああ」

「……来てくれたんだ」

「用があった」

用が何なのかは言わなかった。リラも聞かなかった。


二人は書庫を出て、城壁の外まで歩いた。

特に決めたわけではなかった。足がそちらへ向いた。草の上に並んで座った。空が晴れていた。遠くにシオン艦隊の灯りが見えた。

しばらく、何も言わなかった。

風が来た。草が揺れた。

「聞いた」とカイが言った。

「うん」

「……そうか」

それだけだった。

リラは草の先を見ていた。指先で草を一本抜いた。アルヴィがよくやる仕草だ、と思った。うつっていた。

「怖い?」とリラが聞いた。

カイは少し間を置いた。

「怖いとは違う」

「じゃあ、なに」

また間を置いた。カイが言葉を探している時の沈黙だ、とリラは知っていた。急かさなかった。

「……納得がいかない」

「うん」

「俺が決めたわけじゃない。お前が決めたわけでもない。世界が勝手に決めた。それが——」

カイは草を見た。

「気に食わない」

リラは少し笑った。泣きそうになりながら、笑った。

「カイらしい」

「うるさい」

風がまた来た。艦隊の灯りが、ゆっくりと弧を描いた。

「ねえカイ」

「なんだ」

「私ね、昨日泣いたの」

カイは何も言わなかった。

「一人で書庫でしゃがんで。みっともなかった。アルヴィさんに『ちゃんと見ておいて』って言われたのに」

「……そうか」

「怒る?」

「なんで俺が怒る」

「だって、覚悟が足りないみたいじゃない」

カイは草の上に片手をついた。少しだけリラの方を向いた。

「泣いて、それでも来た」

「え?」

「今ここにいるだろ。それでいい」

リラは草の先を見た。

目の奥が、また熱くなった。今度は我慢した。我慢できた。

「……カイは、泣かなかったの」

「寝た」

「え」

「考えても変わらないから、寝た。朝起きたら来ることにした」

リラはしばらく黙った。

「……それもカイらしい」

「そうか」


しばらく、二人とも黙って空を見ていた。

遠くで鳥が鳴いた。この世界の鳥だった。明日も鳴いているだろう。ただ——リラには聞こえなくなる。

「カイ」

「なんだ」

「また、会える?」

カイは答えなかった。

すぐには答えなかった。それが誠実さだと、リラは知っていた。根拠のない「大丈夫」は言わない人だから。

「……分からない」

「うん」

「分からないが」

カイは草の上の手を、少しだけ動かした。リラの手に、触れた。触れただけだった。握らなかった。ただ、そこに置いた。

「諦めてるわけじゃない」

リラは手を動かさなかった。

動かせなかった。動かしたら、何かが崩れる気がした。

「……うん」

「俺が諦めないから、お前も諦めるな」

リラは草を見た。

さっき抜いた草が、手の中にあった。いつの間にか、ずっと持っていた。

「……命令?」

「頼みだ」

リラは少し間を置いた。

「……分かった」

草を放した。

風が来て、草が遠くへ飛んでいった。


日が傾き始めた頃、カイが立ち上がった。

「行く」

「うん」

「ライラに怒られる」

「そうね」

カイはリラを見た。一秒だけ見た。

リラも見た。

何も言わなかった。言わなくてよかった。言葉にしたら、この空気が変わる気がした。今ここにある、不器用で温かいこの距離が崩れる気がした。

カイが歩き始めた。

三歩歩いて——止まった。

振り返らなかった。

「リラ」

「うん」

「書け」

「……うん」

「お前が書いたもの、どこかで読む。根拠はないけど」

リラは答えなかった。

答えられなかった。

カイが歩き始めた。

その背中が、城壁の角を曲がって、見えなくなった。

リラはしばらく、草の上に座ったままでいた。

空が橙になっていた。この世界の夕暮れの色だった。明日の夕暮れを、リラは別の場所で見る。

(書く)

ペンを取った。紙を出した。

最初の一行が来た。

どこから来たのか分からなかった。カイの背中から来たのか、草の匂いから来たのか、さっき触れた手の温度から来たのか。

全部からだと思った。

ペンが、紙の上を走り始めた。

夕暮れの中で、リラはずっと書いていた。


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