層の息
道を抜けると、空があった。
淡い色の空の下に、白い石と水晶の都。ナイラが分かれた世界の間に築いた、おとぎの延長の層だった。カイがヴァルトを降りると、発着場に、焦げ跡だらけの黒い外套の男が立っていた。
長く会っていなかった。数えるのも馬鹿らしいほどの時間だった。男が——シオンが、カイを見て少しだけ笑った。
「また面倒なことになってるな」とカイが言った。
「毎回そうだよ」
星海を追われた元提督は、自由市民の船団を率いていくつもの宇宙を渡るうち、同じ光に導かれて、ナイラの水晶の道に拾われたのだという。詳しくは語らなかった。ただ、旗艦の防壁陣形の名を聞いて、カイは一度だけ目を細めた。
「『紙の鏡』——」
「古い縁の、借り物でね」
シオンはそれだけ言った。一人の少女が本のページを編んで作った戦術を、この男は何十年もの宇宙で使い続けてきた。少女の名は、どちらも口にしなかった。言えば何かが溢れる気がした。ただ並んで、同じ空の同じ一点を見た。
都の塔よりも高い、淡い空のさらに上。
光が、揺れていた。
エルド・ラインの煤けた空でカイが見続けてきた、あの白い光だった。シオンもまた、星海の展望室から毎晩それを見てきたのだと、聞かなくても分かった。読書眼鏡の縁に触れる指の、その一度きりの仕草で分かった。
「形を、とり始めています」
露台で、ナイラが言った。アルヴィが隣で空を見上げていた。
光はもう、ただの光ではなかった。淡い空の高みに輪郭ができ始めていた。長い金色の、髪のような何か。白い衣のようなものをまとって、少女の形に近づいていた。
「層が息をついている」とアルヴィは言った。「百年に一度の、薄くなる時だ。世界が融け合い、分かれ、その合間に——ほんの一瞬だけ隙間が開く。逆らえはしないが、通ることは、できる」
シオンの口が動いた。数十年、誰にも言わず、記録帳にも書かなかった名前が、喉の奥で形になりかけて——今度は、呑み込まなかった。
「リラ……なのか?」
掠れて震えて、でも確かに声になった。
少女の形をした光は答えなかった。誰の方も見なかった。ただ不安げに揺れながら、何かを探していた。ずっと、探し続けてきた。層の向こうで白い一点を見上げ続けた誰かと、同じように。
「時の流れは、層ごとに違う」アルヴィが静かに言った。「シオンさんの海は、速く流れた。あなたの空は、それほどでもない。あの子の世界は——もっと、ゆっくりだ。理は、几帳面なようで、案外、大雑把だよ。……行きなさい、カイ。あの子の思念は、道を知っている。知らないのは、入り口だけだ」
言われるより先に、カイは駆け出していた。
ヴァルトが飛び立つ。許可も命令もなかった。まっすぐに、空の少女の方へ。
「カイ……行ったのですね」と、ナイラが言った。
機影が近づいた時、揺れ続けていた光が——初めて、静かになった。
——お前が、感じるなら。
少女の光が、形を結んだ。金色の髪と白い衣。そして結んだそばから、ゆっくりとほどけて、消え始めた。届いて、満たされて、役目を終えた思念が還っていく。
だが、消えていく光のいちばん奥に、道があった。
まっすぐな一本の光の道が、ずっと深く、ずっと遠くへ続いていた。どこか、別の場所へ。
カイには、最初から見えていた。だから迷わなかった。
ヴァルトがその道へ入っていった。消えていく光に続いて、まっすぐに。
止める者はいなかった。
露台で、シオンは読書眼鏡を外した。手の中に持ったまま、光の最後の一筋を見ていた。
「……らしいな」
それだけ言った。その一言に数十年が入っていた。二つの世界が入っていた。言わなかった名前と、言えなかった全部が入っていた。
アルヴィだけが、まだ空を見上げていた。百年のどんな瞬間にも見せたことのないような、穏やかな顔だった。
「百年生きると——こういう瞬間だけが、本当だと、分かる」
淡い空に、光はもうなかった。ただ、静かな空があった。




