表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
52/52

おとぎ話の先は

翠野農場の外れ、川のそばに小さな緑の場所があった。木が数本寄り添うように立っていて、その葉の間から光がこぼれていた。木漏れ日だった。

リラはその下で眠っていた。

草の上だった。傍らにはノートが一冊開いたまま置かれ、ペンがその上に転がっていた。書いている途中でうとうとした。よくあることで、最近のリラの、いつもの昼だった。

風がノートのページを撫でた。

書きかけの文字が並んでいた。翠野農場の朝のこと。ルドの鼻先の温度のこと。エルマのスープの味のこと。星が少し減った夜空のこと。——全部書いてあった。届くかどうかは分からないまま、それでも書き続けていた。あの夜にそう決めたから。

ページのいちばん新しいところに、途中で止まった文が一行だけあった。

「おとぎ話の先は、」

そこでペンが止まっていた。眠ってしまったから。続きをまだ知らなかったから。

* * *

リラが目を覚ました。

ゆっくりと、穏やかに。何かに起こされたわけではなく、ただ目が覚めた。

身を起こすと髪に草の葉がついていて、指で払った。

周りを見た。緑があって川の音がして、木漏れ日が揺れていた。いつもの場所の、いつもの昼だった。何も変わっていない。空は青く、誰もいなかった。

リラはしばらくその景色を、ただ見ていた。

* * *

——その時。

木漏れ日の向こうで、音がした。

何かが緑の上に落ちた音だった。重く、でも柔らかい。草がわずかに鳴り、空気が一度揺れた。

リラの肩が跳ねた。

空から何かが落ちてくるのは、この場所では二度目だった。

一度目は詩集を放り投げて悲鳴を上げた。

今度は悲鳴は出なかった。

リラは音のした方を見た。

木の間、木漏れ日のちょうど真ん中。さっきまで誰もいなかった場所に光があった。

光の中に大きな輪郭があった。翼のかたちをして低く唸る——見覚えのある、相棒のかたちだった。

輪郭は地面のすぐ上でほどけていった。争うようにではなく、役目を終えるように。抱えていたものをそっと草の上に降ろして、それから光の粒に還り、木漏れ日に混ざって消えた。

いつかリラが想像で空へ返した機体だった。最後の仕事を今、終えたのだった。

光が引いた場所に、足音がひとつ。

草を、踏んだ。

* * *

リラは立ち上がらなかった。走り出しもしなかった。ただ息を止めて見ていた。

煤けた匂いがした。金属の匂いがした。それから、その奥に川の水の匂いがした。

膝からノートが滑り落ちた。書きかけの一行が草の上で空を向いた。

「おとぎ話の先は、」

その続きが今、緑の上に立っていた。

男は歩いてきた。急がなかった。三歩手前で止まった。いつもの距離だった。草の上に並んで座ったあの距離。触れるだけで握らなかった、あの距離。

リラはその顔を見た。

少し齢を重ねていた。目の下の線が深くなっていた。でも目は同じだった。視線を逃がす癖のある、あの目。

その目が、今日は逃げなかった。

「……おかえり」

リラは言った。声が少しだけ震えた。

男は少し間を置いた。言葉を探している時の、あの間だった。

「……ただいま」

それだけだった。

それで、全部だった。

* * *

カイが隣に座った。

草が鳴った。いつもの距離より少しだけ近かった。

「……遅かったのね」

「悪い」カイは前を向いたまま言った。「道が、なかった」

「作ったの?」

「お前がだろ」

リラは少し笑った。泣きながら笑った。今度は我慢しなかった。

「ねえ。何年ぶりか、分かる?」

「来る前に、アルヴィに聞いた。層ごとに、時の流れが違うらしい。——俺の側で、七年だ」

「私の側では、三年」

「……理ってやつは、大雑把だな」

「でも、間に合ったわ」

会えなかった時間は、同じ長さではなかった。カイの目の下の線は七年分で、リラの三年は、探すことと書くことに全部使われた。それでも二つの時間は、同じ一点で終わった。それなら、同じだった。

風が来て草が揺れ、川の音がしていた。

カイの手が草の上で動いた。

リラの手に、触れた。

いつもならそこまでだった。触れて、置くだけ。それが二人の距離だった。二つの世界の距離だった。

今日は——

握った。

強くはなかった。でも、離れなかった。

リラはその手を握り返した。

温かかった。魚を渡してくれた手だった。薪を割る手だった。雨から引き込んでくれた手だった。二つの世界ぶんの年月の向こうから届いた手だった。

* * *

風が草の上のノートをめくった。

「おとぎ話の先は、」

書きかけの一行は書きかけのままだった。

リラは拾わなかった。

続きならもう知っていた。紙の上ではなく、手の中にあった。

木漏れ日が二人の上で揺れ、川の音がしていた。ペンは草の上に転がったままだった。

急ぐ必要は、もうどこにもなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ