おとぎ話の先は
翠野農場の外れ、川のそばに小さな緑の場所があった。木が数本寄り添うように立っていて、その葉の間から光がこぼれていた。木漏れ日だった。
リラはその下で眠っていた。
草の上だった。傍らにはノートが一冊開いたまま置かれ、ペンがその上に転がっていた。書いている途中でうとうとした。よくあることで、最近のリラの、いつもの昼だった。
風がノートのページを撫でた。
書きかけの文字が並んでいた。翠野農場の朝のこと。ルドの鼻先の温度のこと。エルマのスープの味のこと。星が少し減った夜空のこと。——全部書いてあった。届くかどうかは分からないまま、それでも書き続けていた。あの夜にそう決めたから。
ページのいちばん新しいところに、途中で止まった文が一行だけあった。
「おとぎ話の先は、」
そこでペンが止まっていた。眠ってしまったから。続きをまだ知らなかったから。
* * *
リラが目を覚ました。
ゆっくりと、穏やかに。何かに起こされたわけではなく、ただ目が覚めた。
身を起こすと髪に草の葉がついていて、指で払った。
周りを見た。緑があって川の音がして、木漏れ日が揺れていた。いつもの場所の、いつもの昼だった。何も変わっていない。空は青く、誰もいなかった。
リラはしばらくその景色を、ただ見ていた。
* * *
——その時。
木漏れ日の向こうで、音がした。
何かが緑の上に落ちた音だった。重く、でも柔らかい。草がわずかに鳴り、空気が一度揺れた。
リラの肩が跳ねた。
空から何かが落ちてくるのは、この場所では二度目だった。
一度目は詩集を放り投げて悲鳴を上げた。
今度は悲鳴は出なかった。
リラは音のした方を見た。
木の間、木漏れ日のちょうど真ん中。さっきまで誰もいなかった場所に光があった。
光の中に大きな輪郭があった。翼のかたちをして低く唸る——見覚えのある、相棒のかたちだった。
輪郭は地面のすぐ上でほどけていった。争うようにではなく、役目を終えるように。抱えていたものをそっと草の上に降ろして、それから光の粒に還り、木漏れ日に混ざって消えた。
いつかリラが想像で空へ返した機体だった。最後の仕事を今、終えたのだった。
光が引いた場所に、足音がひとつ。
草を、踏んだ。
* * *
リラは立ち上がらなかった。走り出しもしなかった。ただ息を止めて見ていた。
煤けた匂いがした。金属の匂いがした。それから、その奥に川の水の匂いがした。
膝からノートが滑り落ちた。書きかけの一行が草の上で空を向いた。
「おとぎ話の先は、」
その続きが今、緑の上に立っていた。
男は歩いてきた。急がなかった。三歩手前で止まった。いつもの距離だった。草の上に並んで座ったあの距離。触れるだけで握らなかった、あの距離。
リラはその顔を見た。
少し齢を重ねていた。目の下の線が深くなっていた。でも目は同じだった。視線を逃がす癖のある、あの目。
その目が、今日は逃げなかった。
「……おかえり」
リラは言った。声が少しだけ震えた。
男は少し間を置いた。言葉を探している時の、あの間だった。
「……ただいま」
それだけだった。
それで、全部だった。
* * *
カイが隣に座った。
草が鳴った。いつもの距離より少しだけ近かった。
「……遅かったのね」
「悪い」カイは前を向いたまま言った。「道が、なかった」
「作ったの?」
「お前がだろ」
リラは少し笑った。泣きながら笑った。今度は我慢しなかった。
「ねえ。何年ぶりか、分かる?」
「来る前に、アルヴィに聞いた。層ごとに、時の流れが違うらしい。——俺の側で、七年だ」
「私の側では、三年」
「……理ってやつは、大雑把だな」
「でも、間に合ったわ」
会えなかった時間は、同じ長さではなかった。カイの目の下の線は七年分で、リラの三年は、探すことと書くことに全部使われた。それでも二つの時間は、同じ一点で終わった。それなら、同じだった。
風が来て草が揺れ、川の音がしていた。
カイの手が草の上で動いた。
リラの手に、触れた。
いつもならそこまでだった。触れて、置くだけ。それが二人の距離だった。二つの世界の距離だった。
今日は——
握った。
強くはなかった。でも、離れなかった。
リラはその手を握り返した。
温かかった。魚を渡してくれた手だった。薪を割る手だった。雨から引き込んでくれた手だった。二つの世界ぶんの年月の向こうから届いた手だった。
* * *
風が草の上のノートをめくった。
「おとぎ話の先は、」
書きかけの一行は書きかけのままだった。
リラは拾わなかった。
続きならもう知っていた。紙の上ではなく、手の中にあった。
木漏れ日が二人の上で揺れ、川の音がしていた。ペンは草の上に転がったままだった。
急ぐ必要は、もうどこにもなかった。




