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地図のない年月

エルド・ラインの空は相変わらず煤けていた。

カイは訓練場の隅で、若い兵の投げたナイフの軌道を見ていた。悪くない。だが速いだけだ。速さは迷いを隠すのに使える。昔の自分がそうだった。

「腕が流れてる。もう一回」

「はいっ」

若い兵が走っていく。カイはその背中を見送った。教える側に回って、もうずいぶんになる。

普通に生きる。仕事して、飯食って、寝る。——いつか草の上でそう言った。言った通りにやってきた。約束というほどのものではない。ただ、言ったことはやる。それで通してきた。

* * *

ポケットの中に紙がある。折り目がもう布のように柔らかい。開かなくても書いてあることは分かっている。

『お前が感じるなら』

一行だけ、自分の字で。リラに渡した一枚ではない。あの収束の夜、草の上で書き直した方の一枚だ。

その先は書かないままにしてある。書けないのではなかった。何度かペンを持ち、持ってはやめた。やめるたびに少しずつ分かってきた。

あの余白は、俺の字だけで埋めていいものじゃない。

理屈はなかった。ただそう感じた。感じるなら、そうなんだろう。——そう言った相手がいたから、そのままにしてある。

何年経ったのかは数えるのをやめた。数えると計算になる。計算に入れたくないものが一つだけあった。

* * *

「まだ持ってるのか、それ」

執務室で、ヴェルナが書類から目を上げずに言った。カイの手が無意識にポケットに触れていたらしい。

「ああ」

「そうか」

ヴェルナは聞かない。何が書いてあるのかも、誰に宛てたものなのかも。聞かないことがこの人の誠実さだった。

書類が一枚こちらへ滑ってきた。

「東方の巡回計画だ。目を通しておけ。それと——」

ヴェルナはそこで初めて顔を上げた。

「飯、食ったか」

「まだだ」

「食え。話は長い」

* * *

最初の森を想った。

何度も。訓練場の隅で、夜の兵舎で。層の薄くなる時期を体で覚えた。届く夜と届かない夜があり、届いた夜も声だけ、輪郭だけだった。それでも——

会えていたさ。

いつか自分で言った言葉を、自分で使う夜が何度もあった。

ティアは風の便りのように現れた。層の隙間を、あの小さな体だけがすり抜けてくる。来るたびにカイの髪をぐしゃぐしゃにして、あることないこと喋って、また消えた。

「カイ、まだひとりの時、笑わないの」

「うるさい」

「リラに言いつけるからね」

「……言えるなら、言ってみろ」

ティアはその時だけ少し黙った。それから「言うもん」と言って飛んでいった。

* * *

ナイラは女王の仕事を続けていた。

分かれた世界の間に、アルヴィと組んで糸口を渡る術を編み上げた。水晶の道。おとぎの延長にある層の間なら渡れる道だ。瑠の国の艦はそれでいくつもの空を行き来するようになった。

ただ一箇所だけ、道の繋がらない場所があった。

リラの世界だ。

「あの層には、糸口が細すぎる」と、アルヴィは言った。「今は、まだ」

今は、まだ。カイはその言い方を覚えておいた。

* * *

白い光をまた見たのは、そんな頃だった。

煤けた空のずっと高いところ。星ではない。星なら動き方を知っている。あれは何かを探すように揺れていた。

数年に一度それは現れ、現れては消えた。ヴェルナにも若い兵たちにも見えないらしく、カイにだけ見えた。

理由は聞かれても言えなかった。ただ分かった。

(探してるのは、俺の方だと思ってた)

違った。向こうも探していた。ずっと。

* * *

ある夜、光が動いた。

揺れるのではなく流れた。層の外へ。おとぎの延長のさらに向こう——別の宇宙の方へ。

カイは兵舎の窓辺でそれを最後まで見ていた。見て、決めた。決めるまでに一秒もかからなかった。

翌朝、願い出るより先にナイラの方から言った。

「艦隊を出します。層の向こうに、古い縁が浮かんでいる。——あなたも、来るのでしょう」

「行きます」

ヴェルナには廊下で会った。書類の束を抱えたまま、カイを一度だけ上から下まで見た。装備の確認をするような目だった。

「行け。仕事は積んでおく」

「悪い」

「謝るな」ヴェルナは歩き出しながら言った。「……見つけたら、そう言え。積んでおいた、と」

* * *

格納庫の奥でヴァルトは待っていた。

久しく空けていた席に身体が収まる。指先が機体の鼓動を思い出し、念炉が応えるように低く唸った。

ポケットの紙に一度だけ触れた。

迷ってから捜すんじゃない。

(今度は——こっちから行く)

水晶の道が、何もない空の一点で光を編み始めていた。


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