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書庫の窓から

翠野農場に戻ったのは、里を出て三日後の夕方だった。

門をくぐると、エルマが夕暮れの光の中で畑の土をいじっていた。リラを見て立ち上がり、何も言わずに、ただリラの頭を一度だけぽんと叩いた。

手のひらの重みがぜんぶだった。

エルマは厨房に戻った。根菜を切る音がして、スープの匂いが来た。

リラは農場の庭に立っていた。夕暮れの光が真っ直ぐに降りていた。

厩舎の前にいたルドがリラを見て耳を動かし、近づくと鼻先をぐいと肩に押しつけてきた。

「ただいま」とリラは言った。

ルドは何も言わなかった。当然だった。

* * *

夜、書庫にいた。

机の上には、里から戻る道で書いた紙が何枚もあった。崖の上のこと、コウの絵のこと、もう一人の自分の声、「書いたもの、ちゃんと届いてるから」という言葉。全部ここにあった。

消えなかった。

リラは引き出しを開けた。丁寧に折りたたんでしまっていた紙があった。

開いた。

『お前が感じるなら』

カイの字だった。その先はまだ空白で、余白があった。

リラはその余白をしばらく見ていた。カイが書く余白だとずっと思っていた。自分が埋めるものではない、と。

でも——

(違うかもしれない)

この余白は、二人で埋めるものかもしれない。カイが書けない分をリラが書き、リラが届けられない分をカイが待つ。そういう余白かもしれない。

リラはペンを取り、『お前が感じるなら』の下に一行だけ、小さな字で丁寧に書いた。

『——私も、感じているから』

それだけだった。

紙を折りたたんで、元の場所にしまった。

* * *

窓から星の光が入っていた。

以前より少し少ない気がする。融合が解けてから空の密度が変わり、混じっていた星たちはそれぞれの夜空に戻っていった。

でも、まだある。全部が消えたわけではなかった。どれがどちらの世界の星なのか、もう分からない。でも気にしなかった。

全部、同じ夜空の星だから。

リラは新しい紙を広げてペンを取り、書いた。

最初の一行が来た。翠野農場の夜から来たのか、崖の上の風から来たのか、カイの「書け」という声から来たのか、もう一人の自分の「届いてるから」という言葉から来たのか。全部からだと思った。区別がつかなかったし、それでよかった。

ペンが止まらなかった。

虫の声がして、ルドの寝息が厩舎から聞こえた。エルマが厨房の灯りを消して、農場が静かになった。

リラだけが、まだ書いていた。

* * *

翌朝、リラは書庫の窓から農場を見ていた。

朝の光が来て、ルドが厩舎の前に出て、エルマが洗濯物を干し、鳥が鳴いていた。いつも通りの朝だった。

カイはエルド・ラインにいる。アルヴィとブラートは草原のどこかに、シオンは星海に、ナイラは王都にいる。誰もここにはいない。

でも——

リラは本棚に手を伸ばして一冊抜いた。

触れた瞬間、温度が来た。

翠野農場の夜の温度ではなかった。城壁の外の温度だった。草の上に並んで座った夜の温度、「飯、うまかったな」という声の温度、手が触れるだけで握らない、あの距離の温度。

消えていなかった。ちゃんとここにあった。

リラは本を胸に抱えて窓の外を見た。空が晴れていた。

(最初の森)

いつか行く、とリラは思った。

もう一人の自分は「あそこは薄い」と言った。カイは「あの森を想えば会える」と言った。

いつか行く。今日ではないかもしれないし、明日でもないかもしれない。でも、いつか。

それまでは書く。全部、書いておく。

翠野農場の朝のことを。ルドの鼻先の温度を。エルマのスープの味を。星が少し減った夜空を。コウが描いた崖の上の女の子を。もう一人の自分の、疲れた笑い方を。

届くかどうかは分からない。

でも——

「書いたもの、ちゃんと届いてるから」

あの声がまだここにある。

リラはペンを取って机に向かった。

紙の上に新しい言葉が一つ落ちて、止まらなかった。

窓の外で朝の光が動き、農場の虫の声が遠くでしていた。

リラのペンが、紙の上を走り続けた。

おとぎ話の先は、まだ誰も書いていない。

だから、私が書く。

ずっと、書き続ける。


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