もう一人の私へ
柱の向こうは道だった。
草が両側から迫る細い道で、踏み固められた跡はあったが、最近誰かが歩いた様子はなかった。
リラはカバンを持って、草を踏み分けて歩いた。どこへ続くかは分からない。コウが「あっちに行った」と言った、それだけで根拠はなかった。でも足が向いた。
五分ほど歩くと、道が終わった。
崖だった。切り立った崖の眼下に谷が見え、川が光っていた。さっき丘の上から見た川だった。遠くからは細い光だったのに、ここから見ると幅があって、水の音が聞こえた。
強い風が来た。
リラは崖の端に立って下を見た。遠かった。
(カイはいない)
当然だった。ここは現実で、幻影は消えた。コウが見た「おにいちゃん」が何だったのかは分からない。でも、ここまで来た。来てしまった。
風がまた来た。
その時だった。
本が——光った。カバンの中で。
リラは手を入れた。あの本だった。古書店で見つけた、開かない本。深い緑色の装丁に読めない文字。それが光っていた。眩しくはない、ただ明るい、静かな光だった。
「え——」
竜巻が来た。
風ではなかった。谷の底から渦を巻いて上がってきて、低い音を立てた。本の光と渦が混ざった。
リラは崖の端で足を踏ん張り、カバンを抱えた。
意識が——
* * *
暗かった。
暗いというより、どこでもなかった。上も下も右も左もなかった。
「リラ」
声がした。自分の声だった。
振り返ると、いた。自分がいた。
同じ赤茶の髪、同じカバン、同じ服。でも表情が違った。もう少し疲れて、もう少し何かを諦めた顔をしていた。
「久しぶり」ともう一人のリラが言った。
「……会ったことある?」
「ないけど、久しぶりな気がする」
リラは自分の顔をした存在を見た。
「あなたは誰?」
「あなた」
「私は私よ」
「そうね」ともう一人のリラは言った。「でも私も、あなた。本の中のあなた。燃えた言葉たちが、最後に作ったあなた」
リラは黙った。戦いの中で燃やした本たちが、ここにいる。消えたはずの言葉たちが、この形になっている。
「何しに来たの」とリラは聞いた。
「戻してあげようと思って」
「戻す?」
「あの世界に」ともう一人のリラは静かな声で言った。「できるよ。私なら。本の力が残ってるから。融合していた時間の記憶が、まだここにある。戻せる。カイのいる世界に、戻してあげられる」
リラはその言葉を聞きながら、何かを感じた。
甘かった。砂糖のように、蜂蜜のように甘くて、欲しかったものをそのまま差し出してくる声だった。
そして、どこか歪んでいた。おとぎ話で何度も読んできた、強引に書き換えられた結末の、あの歪みと同じ匂いがした。
カイに会える。またあの世界に戻れる。食堂の夜に、城壁の外の草の上に戻れて、「飯、うまかったな」という声が聞ける。手が触れるだけで握らない、あの距離に戻れる。
欲しかった。全部、欲しかった。
「……どうして」とリラは言った。
「え?」
「どうして、戻してあげようと思ったの」
もう一人のリラは少し間を置いた。
「あなたが苦しそうだから」
「苦しくない」
「嘘」
「苦しくない」とリラはもう一度言った。「苦しいのと、会いたいのは、別の話」
もう一人のリラは少しだけ表情を変えた。
「……会いたいでしょ」
「会いたい」
「じゃあ——」
「でも」
リラはもう一人の自分を正面から見た。
「もう分かったから」
「何が」
「その先の世界で、会えるから」
もう一人のリラは黙った。リラは続けた。
「カイが言ったの。最初の森を想えって。あの人が言うなら、そうなんだと思う。根拠なんてない。でも——あの人が諦めてないから、私も諦めない。それだけで十分なの」
「でも確かじゃない」
「確かじゃなくていい」
「会えないかもしれない」
「会えなくても」
リラはカバンを持ち直した。
「書いたことは、消えない。届くかどうか分からなくても、書き続ける。カイがどこかで読む、って言った。根拠はないけど、そう言った。それで十分」
もう一人のリラはしばらくリラを見ていた。疲れて、諦めた顔だった。でもその奥に何かがあった。
リラには分かった。自分の顔だから。その奥にまだ諦めていない何かがあることが。諦めたふりをしているだけで、本当はまだここにいることが。
「……バカだね」ともう一人のリラは言った。
「そうかもしれない」
「確かじゃないのに」
「うん」
「会えないかもしれないのに」
「うん」
もう一人のリラは少し間を置いて、それから少しだけ笑った。疲れた笑い方だったけれど、笑った。
「……分かった」
「うん」
「でも一つだけ、言っていい?」
「どうぞ」
もう一人のリラは、リラを見た。
「最初の森——本当に行ってみなさい。あそこは、薄い。あなたが思っている以上に、薄い」
リラは頷いた。
「分かった」
「あと」
「うん」
「書き続けて。あなたが書いたもの——私のところにも来てる。消えてないから。ちゃんと届いてるから」
リラはその言葉を聞いた。目の奥が熱くなり、今度は我慢しなかった。少しだけ泣いた。
もう一人のリラはそれを見て、また少し笑った。
「行きなさい」
* * *
気づいた時、崖の上にいた。
風が吹き、谷が見え、川が光っていた。
本はカバンの中で、もう光っていなかった。深い緑色の装丁に読めない文字の、開かない、ただの本だった。
でも温かかった。いつもとは違う温度だった。
終わった、という温度ではなく——始まる、という温度だった。
リラは崖の端から離れて来た道を戻り、柱の横を通り過ぎた。石の柱はただそこにあって、苔が生え、風が通り抜けた。
丘にはコウがいて、まだ絵を描いていた。リラを見て「おかえり」と言った。
「ただいま」とリラは言って、コウの隣に座った。
コウの絵には、山と木と川と、柱と崖が描いてあった。そして崖の上に小さな女の子が立っていた。
「これ、私?」
「うん」
「いつ描いたの」
「さっき」
「私がいない間に?」
「うん。おねえちゃん、あそこにいたから」
リラは絵を見た。崖の上の小さな女の子は、谷の向こうを見ていた。
「……うまいね」
「うん」とコウは言った。自信満々だった。
リラは少し笑って、カバンからペンと紙を出した。
書いた。
最初の一行が来た。どこから来たかは分からない。崖の上の風からか、もう一人の自分の言葉からか、コウの「おかえり」からか。全部からだと思った。
ペンが止まらなかった。
夕方の光の中でコウは絵を描き、リラは書いていた。
虫の声が始まっていた。




