最初の森へ
三日が経った。
リラは書いていた。朝起きて書庫に来てペンを取る。それだけを続けていた。書いたことは消えない、と自分に言い聞かせながら。カイが「書け」と言った、と思い出しながら。
でも四日目の朝、リラはペンを置いて本棚を見た。背表紙に指を当てると、いつもの温度が来た。古い本の、時間の堆積した重さだった。
(足りない)
書くだけでは足りなかった。自分の中から言葉を出すだけでは。消えないとしても、届くかもしれないとしても。
リラはカバンを手に取った。
* * *
最初に行ったのは王都の図書館だった。
司書の老人に「世界の融合に関する文献はありますか」と聞いた。
老人は眼鏡を押し上げてリラを見た。
「ないね」
「では、異世界との接続に関するものは」
「ないね」
「境界の薄い場所についての記録は」
「……お嬢さん」老人は少し間を置いた。「何を探してるか、正直に言ってみなさい」
リラは少し考えた。
「消えてしまった人に、会いたいんです」
老人は眼鏡を外して丁寧に拭き、また掛けた。
「それは、図書館では無理だね」
「分かっています」
「でも来たんだね」
「他に思いつかなかったので」
老人はため息をつき、それでも立ち上がって奥の棚に向かった。めったに人が来ない、埃をかぶった区画だった。
「これだけある」と老人は言った。「役に立つかどうかは知らない。でも、持っていきなさい」
薄い本が三冊だった。リラは受け取った。
「ありがとうございます」
「礼はいい」老人は椅子に戻った。「見つかるといいね、その人が」
リラは何も言わずに頷いて、図書館を出た。
* * *
三冊を二日で読んだ。
一冊目は世界の層についての古い考察だった。難しかったが、分かる部分だけ書き写した。二冊目は百年前の、境界の現象についての記録集だった。古すぎて使えるかどうか分からなかったが、それでも全部読んだ。
三冊目で、手が止まった。
題名のない薄い冊子だった。誰かが手書きで書き留めたものが、そのまま製本されていた。その中に一行だけあった。
『融合した世界が分かれる時、境界の名残は必ず場所に残る。それは山であることが多く、水であることもある。そこへ行けば、層が薄い』
リラはその一行を三回読んだ。四回目を読もうとして、止まった。
(山)
頭の中に景色が浮かんだ。融合していた時にあった山。今はもうない山。地図に記録されていた、あの山の場所。
* * *
翌朝、リラはその場所へ向かった。
エルマには「少し遠出をしてきます」と言った。エルマは「お弁当持って行きなさい」と言った。
「いいです」
「持って行きなさい」
結局、持って行った。
半日歩くと道が途中でなくなった。それでも地図と書き写したメモを見ながら、草を踏み分けて歩いた。靴が泥で汚れ、スカートの裾が草で濡れた。それでも歩いて、丘を越えた。
そこには、何もなかった。
ただの草原だった。風が吹いて草が揺れる、どこにでもある普通の草原。山は融合が解けた時に消えていて、今はただの平地だった。
リラはその草原の真ん中に立ってカバンを下ろし、文献をもう一度読んだ。『境界の名残は必ず場所に残る』——残っているはずだった。でも何も感じなかった。本の温度も来なければ、層が薄い感覚もない。
ただの草原だった。
(だめだった)
膝から力が抜けそうになったが、我慢した。
エルマが持たせてくれた弁当を開くと根菜のパイで、いつもの味がした。食べながら草原を見ていた。風が吹いていた。
(ここじゃないのかもしれない)
あるいは、もう残っていないのかもしれない。三冊目の冊子がいつ書かれたのかは分からない。百年前かもしれないし、千年前かもしれない。
リラはパイを食べ終えて立ち上がり、カバンを背負った。帰ろうとして、止まった。
もう一度草原を見た。風が来て草が揺れた。何もなかった。
でも——来た。ここまで来た。無駄だったかもしれないが、来た。それは消えない。ここまで歩いてきた足の記憶は消えない。
リラは来た道を戻り始めた。靴の泥が歩くたびに光った。
* * *
それから、リラは探し続けた。
古書店を回り、市場の古道具屋で地図を買い、城の古い記録庫に許可をもらって入った。ルミナリアの老王に願い出て、王室の蔵書も見せてもらった。
老王は何も聞かず、ただ「どうぞ」と言った。あの戦のあいだ、口を挟まないことを役目とした王は、今も何も挟まなかった。リラが帰り際に「ありがとうございます」と言うと、皺の奥の目を少しだけ細めた。
「見つかるといいね。あなたの探しものが」
* * *
二週間が経って、分かったことがあった。
融合していた世界の名残が残りやすい場所には、いくつかの条件があった。水が湧いている場所。古い木が残っている場所。そして、人が「境界」として認識してきた場所。
鳥居のようなもの、とある文献には書いてあった。門でもなく壁でもなく、ただ「こちら」と「あちら」を分ける印として、人々が代々守ってきた場所。
そういう場所が一つだけ、地図にあった。王都から三日かかる、小さな集落の記録だった。名前はなく、ただ「古い門のある里」と書いてあった。
リラはその地図を書庫の机の上に広げた。
三日。遠い。
でも——
ペンを取って、地図に小さく丸をつけた。
* * *
出発の朝、エルマはまた弁当を持たせた。
「三日かかるんでしょ」
「どうして知ってるんですか」
「顔に書いてある」
リラは何も言わなかった。エルマは弁当をリラのカバンに入れた。
「気をつけて行きなさい」
それだけ言って、エルマは厨房に戻った。根菜を切る音がした。
リラはカバンを背負って、書庫をもう一度見た。本棚と窓があって、光が入っていた。
(全部、覚えている)
玄関を出て、翠野農場の朝の光の中を歩き始めた。
* * *
三日かかった。
里はあった。地図通りの場所に小さな集落があって、十数軒の家が山の麓に寄り添うように建っていた。畑と井戸があり、鶏が歩いていた。
そして集落の外れに、それはあった。
鳥居ではなかったが、鳥居に似た何かだった。石でできた二本の柱が空に向かって立ち、柱と柱の間に横木が渡してある。装飾はなく、ただそこにあった。どのくらい古いか分からないくらい古く、石の表面には苔が生えていた。
風が来て、柱の間を通り抜けた。それだけだった。
リラは柱の前に立ち、手を伸ばして触れた。
温度が来た。
本の温度ではなかった。もっと根っこみたいな温度で、言葉にしようとすると逃げ、形にしようとすると消える。でも確かにそこにある何かだった。
(ここだ)
思った瞬間、目の奥が熱くなった。我慢したが、我慢できなかった。少しだけ泣いた。
誰も見ていなかった。鶏が一羽、遠くを歩いていた。
リラは涙を拭って柱と横木を見た。その向こうに山が見えた。おそらくずっとここにあった、普通の山だった。
(でも——ここは、薄い)
確かに層が薄かった。アルヴィが言っていたことが今なら分かる気がした。計器でも魔力測定でもなく、ただ肌で分かる。
リラはカバンを下ろしてその場に座り、しばらく柱を見ていた。
何も起きなかったし、何も来なかった。それでも、ここにいた。
* * *
夕方、里の人々に声をかけると、老人が一人、快く泊めてくれると言った。
「こんな場所に、珍しいね。あの柱を見に来たのかい」
「はい」
「昔からある。誰が作ったか、誰も知らない。でも、壊したら駄目だって、代々言い伝えがあってね」
「なぜ駄目なんですか」
「さあ」老人は首を傾げた。「壊したら、どこかの誰かが困るから——だったかな。昔の人がそう言ってたとしか、覚えてないよ」
リラはその言葉を胸の奥にしまった。
(どこかの誰かが困る)
夜、老人の家に泊まって、布団の中で天井を見ていた。
(明日も、ここにいよう)
目を閉じると虫の声がした。翠野農場の夜と少し似ていた。
* * *
翌朝、里に小さな男の子がいた。
五歳か六歳くらいで、リラを見つけると物珍しそうに近づいてきた。
「おねえちゃん、何してるの」
「柱を見ていたの」
「なんで」
「好きだから」
男の子は柱を見て、それからリラを見た。
「ぼく、絵かくの好き」
「そうなの」
「おねえちゃんも、絵かく?」
「私は、字を書くの」
男の子は少し考えた。
「いっしょだね」
リラは少し笑った。
「そうね。いっしょかもしれない」
男の子はリラの隣に座り、ポケットから折りたたんだ紙を出して広げた。山と木と空と、柱が描いてあった。
「じょうず」とリラは言った。
「うん」と男の子は言った。自信満々だった。
リラは少し笑った。
「ねえ、一緒に景色のいい場所、行かない? 絵を描きに」
男の子は目を輝かせた。
「いく!」
* * *
男の子の名前はコウだった。
コウはリラの手を引いて「景色のいい場所」へ向かった。里の裏手を少し登った先に開けた丘があって、確かに景色がよかった。山と谷が見え、遠くに川が光っていた。
コウはさっそく紙を広げて絵を描き始めた。リラはその隣に座り、カバンから紙を出してペンを取った。
書こうとしたが、今日は言葉が来なかった。ペンを持ったまま、山と谷と川の光を見ていた。
風が来た。
コウが「ここ、いい匂いがする」と言った。
「そうね」
「いつもと違う匂い」
「どんな匂い?」
コウは少し考えた。
「遠くの匂い」
リラはその言葉を聞いた。
(遠くの匂い)
風がまた来た。
その瞬間——
(あ)
何かが来た。言葉にも形にもならなかったが、確かに来た。この丘の上で、この風の中で、層が一瞬だけ薄くなった。
リラはペンを持ったまま目を閉じた。コウが何かを言っていた。聞こえていたが、遠かった。
意識が——
* * *
カイは訓練場にいた。
朝の点呼が終わった後の、少し自由な時間だった。ナイフを磨いていると、誰かが来た気配がした。
振り返っても、誰もいなかった。
でも——いた。いた、気がした。
訓練場の隅に、光が——いや、光ではなかった。人の形をした何かが一瞬だけあった。
赤茶の髪だった。
「……リラ?」
気づいたら声が出ていた。
何かが笑った。音のない笑い方だったが、笑っていた。それだけは分かった。
カイはナイフを置いて立ち上がり、近づこうとした。
「会えない?」
声が来た。小さかったが届いた。リラの声だった。
「会えていたさ」
カイは言った。
「だからこうなってる」
しばらく沈黙があった。
「また、こうやって会えるか分からない」
「最初の森を想え」
「え?」
「お前が最初に俺を見つけた場所。あの森を想いうかべろ。多分会える」
「多分って……」
「大丈夫だ」
カイは光の形をしたリラを見た。
「それまでは、ここで話せるだけ話せばいい」
* * *
リラとカイは、たくさんの話をした。どのくらいの時間だったかは分からなかった。
農場のことを話し、川辺のことを話し、食堂の夜のことを話した。カイがエルド・ラインでヴェルナに怒られた話をして、リラが図書館で老人に「それは図書館では無理だ」と言われた話をした。
二人で笑った。
カイが「ヴェルナが地図を三回書き直した」と言い、リラが「そうなの」と言った。「うるさいって言われた」「ヴェルナさんらしい」。
カイが少し笑った気がした。
「カイ」
「なんだ」
「また会えるかな」
「会えていたさ」
「……また言う」
「本当のことだから」
* * *
気が付いた時、目の前にコウがいた。不思議そうな顔でリラを見ていた。
「おねえちゃん、ねてたの?」
「……寝てた、かもしれない」
「へんな顔してた」
「そう?」
「うん。でも、笑ってた」
リラは丘の景色を見た。山も谷も川の光も、何も変わっていなかった。
ただ、風が来た。その風に何かが混じっていた気がした。遠くの匂いが、した気がした。
コウが「おにいちゃんなら、あっちに行ったよ?」と言った。
「え?」
コウが指を差した。柱の方向だった。石の柱の、その向こう。
「さっき、おにいちゃんいたじゃん。あっちに行った」
リラは立ち上がって柱の方を見た。風が吹いていた。
「……ありがとう、コウ」
「どういたしまして」
コウはもう絵の続きを描き始めていた。
リラはカバンを持って、柱の方へ歩き始めた。




