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還流

朝、リラは書庫にいた。いつもと同じ朝だった。窓から光が入り、紙の匂いのする本棚が並んでいる。リラはペンを手に、昨夜の続きを書こうとしていた。

指先が本の背表紙に触れると、いつもの温度が来た。古い本の、時間の堆積した重さ。誰かが何度も開いたページの跡や、子供の頃に読んで泣いた誰かの記憶。

それから——

(あ)

気づいた時には、もう遅かった。

景色が変わっていた。本棚が違う。並び方も窓の位置も、光の入り方も違う。紙の匂いは同じだったが、そこに麦と土の匂いが混じり、遠くから虫の声がしていた。

リラは立っていた。手の中にはペンと、書きかけの紙があった。

窓の外を見ると、翠野農場があった。裏庭には、エルマが「雑草だけど可愛いから抜かない」と言っていたあの花が咲いている。厩舎の前ではルドが、朝の光の中で耳を動かしていた。

厨房から根菜を切る音がした。

「リラ、朝ごはんできるよ」

エルマの声だった。

リラは動けなかった。声も出なかった。ペンを持ったまま窓の外を見ていた。翠野農場があって、ルドがいて、花が咲いていて、エルマの声がする。全部あった。全部、元通りにあった。

(ああ)

叫びもせず泣きもせず、ただ立っていた。

手の中の紙には、昨夜食堂で書き始めた続きがあった。文字は消えていない。自分の字で、ちゃんとそこにあった。

書いたことは、消えなかった。

「リラ? どうしたの、返事しないで」

「……今行きます」

自分の声を一拍だけ聞いた。いつもと同じ声だった。

リラは紙を丁寧に折りたたんでカバンにしまい、ペンをしまった。それから本棚を見た。ここにある本は全部知っている。何度も読んだ本たちで、背表紙の色も厚さも全部覚えている。

でも、今は触れなかった。

窓の外をもう一度見た。翠野農場の朝に、光が真っ直ぐ降りていた。

リラは書庫——納屋の隅を改装した、本のための小さな一間——を出て、母屋の厨房に向かった。根菜を切る音が近くなり、スープの匂いが来た。

角を曲がったら、エルマがいた。いつも通りのエルマがエプロンをして鍋の前に立っていて、振り返って——

「何ぼーっとしてんの。顔、洗ってきた?」

「……洗ってきました」

「嘘。目が腫れてるよ」

リラは何も言わなかった。エルマは鍋に視線を戻した。

「昨夜、また遅くまで本読んでたでしょ。いい加減にしなさいよ、もう」

「……すみません」

「謝らなくていい。ほら、座って」

リラが椅子に座ると、テーブルにスープが置かれた。湯気が立って、麦の匂いがした。エルマが向かいに座る。

「クロエが今日来るって言ってたよ。昼ごろ」

「そうですか」

「なんか、元気ないね」

「……そんなことないです」

エルマはリラを見て何か言いかけ、やめた。代わりにスープを一口飲んで、「うまくできた」と独り言のように言った。「今日は根菜の切り方、変えてみたから」

リラはスープを見た。湯気が立っていた。

(エルマさん)

言葉が来たのに、出せなかった。「ありがとう」でも「ただいま」でも何か違う気がして、何を言えばいいのか分からなかった。

スープを一口飲んだ。温かくて、根菜の味がした。翠野農場のいつもの味だった。

目の奥が熱くなったが、我慢した。我慢できた。

「……おいしいです」

エルマは何も言わずに、ただリラの椀にスープをもう少しだけよそった。

* * *

同じ朝、カイはエルド・ラインにいた。

朝の点呼の前の、まだ誰もいない訓練場だった。地面は鉄板で空気は煤け、金属の匂いがした。

カイは立っていた。手の中には何もない。さっきまで紙か何かを持っていた気がするのに、今は何もなかった。

(ここは)

エルド・ラインだった。いつもの訓練場で、点呼まであと十分だった。

カイは空を見た。エルド・ラインの少し煤けた空——その端に一点だけ、白い光があった。朝だから星は見えないはずなのに、白い光が一瞬だけあって、瞬きをしたら消えていた。

「カイ」

振り返ると、制服姿のヴェルナが書類を手に立っていた。

「早いな。何かあったか」

「いや」

「そうか」

ヴェルナは書類に目を落とした。

「今日の午後、会議がある。出ろ」

「分かった」

「それと」

ヴェルナは少し間を置いた。

「飯、食ったか」

「まだだ」

「食え。会議は長い」

ヴェルナが歩き始めた。カイはその背中を見ていた。

(普通だな)

いつも通りの朝だった。金属の匂いも煤けた空もヴェルナの声も、全部いつも通りだった。

ポケットに手を入れると、何かに触れた。紙だった。取り出す。

『お前が感じるなら』

自分の字だった。その先はまだ書かれていない。

カイはその紙をしばらく見てから、丁寧に折りたたんでポケットに戻した。

空を見上げても、白い光はもうなかった。でも、あったということは覚えていた。

カイは訓練場を歩き始めた。飯を食いに行く。会議がある。仕事がある。それだけの朝だった。

* * *

同じ朝、アルヴィは草原にいた。

草の上に座って空を見ていた。靴は夜露で濡れていた。見慣れた、百年前から知っている空だった。この草原も土の色も風の匂いも、全部知っていた。

隣ではブラートが、荷物を枕に剣を脇に置いて、草の上に大の字で堂々と寝ていた。その寝顔は百年前と変わっていなかった。

アルヴィは草を一本抜いて、手の中で転がした。

(戻った)

それだけを思った。感慨はなかった。感慨を持つには百年は長すぎる。ただ戻った。

ただ——

草を放すと、風が来てどこかへ飛んでいった。

(リラさん)

一度だけ思った。あの子は今頃、翠野農場の書庫で本棚の前に立って、背表紙に指を当てているだろうか。泣いているだろうか。

泣いていたとしても前を向くだろう、とアルヴィは思った。泣いた後にペンを取る。それがリラ・マーレンという人間だった。

「アルヴィ」

ブラートの声がした。目を開けないまま、寝たまま言った。

「戻ったか」

「うん」

「そうか」

それだけ言って、ブラートはまた黙って寝た。

アルヴィは空を見ていた。朝の光が来て草原が明るくなり、遠くで鳥が鳴いた。百年前に聞いた声とよく似ていた。

* * *

同じ朝、シオンは星海のブリッジにいた。

ハーブの茶が冷めていた。自分で淹れた茶はいつも少し苦い。砂糖の量は同じはずなのに。

窓の外には見慣れた星海が広がっていた。漆黒の中に無数の光が散っている。地平線から橙が滲み出してくる夜明けは、ここにはない。ただ星だけがある。

シオンは記録帳を開いて、最後のページを見た。あの世界の最後の夜明けの色を書いたページ。橙が深かった日の色だ。

それを閉じて新しいページを開き、ペンを取って今日の日付を書いた。それから少し間を置いて、書いた。

『星海に戻った。記録を続ける』

二行で足りた。

「提督」

エリオだった。制服のボタンをまだ留め終えておらず、少し急いで来た様子だった。

「戻りましたね」とエリオが言った。

「ええ」

「……お帰りなさい」

珍しい言い方だった。エリオがそういうことを言う人間ではないことを、シオンはよく知っていた。

「ただいま」とシオンは言った。これも珍しい言い方だった。

エリオはいつも通りの動きで記録板を出した。

「航路の確認をお願いします」

「座って読め」

「立ったままで」

シオンは少し笑って記録帳を閉じ、記録板を受け取った。

窓の外に星海が、どこまでも続いていた。


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