最後の昼に
翌日の昼前、カイは書庫に来た。
昨夜「持ってこい」と言った。だから来た。それだけだった。
扉を開けると、今日は、リラは本棚の前にいなかった。
机に突っ伏して眠っていた。紙の束を腕で抱え込むようにして。夜通し書いたのだと、ひと目で分かった。ペンが床に落ちている。
カイは声をかけなかった。ペンを拾って机の端に置き、眠っている顔を一秒だけ見て——見なかったことにして、窓を少し開けた。
風が入った。
「……ん」
リラが顔を上げた。頬に紙の跡がついていた。カイを見た瞬間、寝ぼけた目が一度だけ大きくなり、それから慌てて紙の束をかき集めた。
「ね、寝てないわ」
「頬に証拠がついてるぞ」
「……寝てた」
素直に白状して、リラは頬を押さえた。カイの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「来てくれた」
「言っただろ」
リラは紙の束をそろえて、カバンを手に取った。
「外、行きましょう」
「ああ」
* * *
城壁の外の草の上に、二人は並んで座った。
空が晴れていた。風があった。遠くにシオン艦隊の灯りが見えた。いつも通りの景色だった。明日には——半分が、消える。
リラがカバンから紙の束を取り出した。昨夜書いたものだった。端が少しだけ折れていた。急いで書いたから、と分かった。
カイは受け取った。
読み始めた。
リラは横を向いて、草の先を見ていた。カイが読んでいる間、何も言わなかった。言えなかった。あれを書いた時の自分の顔を、自分では見ていないけれど、きっとひどい顔をしていた。泣きながら書いた部分が、三箇所ある。どこか、カイには分かるだろうか。
カイは黙って読んでいた。
途中で一度だけ手が止まった。
どこで止まったか、リラには分かった。
川辺のことを書いた部分だった。カイが銛を削っていた夜のことを。魚を渡してくれた手の温度のことを。「降参だ」と言った時の横顔のことを。
カイはすぐに読み続けた。
最後まで読んだ。
紙をそろえて、リラに返した。
何も言わなかった。
しばらく、二人とも草を見ていた。
「どうだった」とリラが聞いた。
「……うまいな」とカイが言った。
「そういうことじゃなくて」
「俺には、こういうのは書けない」
「書けなくていいわよ」
「でも」
カイは草の上に片手をついた。
「お前が書いたから、俺は覚えていられる気がする」
リラはその言葉を、胸の奥にしまった。
「消えないから」と言った。「書いたことは、消えない」
「ああ」
風が来た。草が揺れた。
* * *
しばらく、二人とも黙っていた。
「ねえカイ」
「なんだ」
「聞いていい?」
「何を」
リラは草の先を見たまま、少し間を置いた。
「エルド・ラインに戻って——どうする」
カイは少し考えた。
「仕事がある。ヴェルナが積み上げてる」
「そうじゃなくて」
「……そうじゃなくて」
カイは空を見た。晴れていた。エルド・ラインの空は、いつも少し煤けている。ここの空の青さに、最初は慣れなかった。今は慣れた。明日からは——また慣れ直す。
「普通に生きる」とカイが言った。「仕事して、飯食って、寝る」
「私のことは」
カイは答えなかった。
すぐには答えなかった。急かさなかった。この沈黙の待ち方なら、もう誰より知っていた。
「忘れない」
短かった。でも十分だった。
リラは草を一本抜いた。手の中で転がした。
「私も」と言った。「忘れない。全部」
「全部か」
「全部。農場のことも、川辺のことも、城壁の上のことも、昨夜のことも。全部」
カイは少し間を置いた。
「……重いな」
「重くていいの。重い方が、長く続くから」
カイはその言葉を聞いて、何も言わなかった。
言わなかったが——草の上の手が、少しだけ動いた。リラの手に、触れた。触れただけだった。握らなかった。ただ、そこに置いた。
リラは動かなかった。
動けなかった。動かしたら、何かが崩れる気がした。
「……うん」
風がまた来た。草が揺れた。艦隊の灯りが、ゆっくりと弧を描いた。
* * *
日が少し傾いた頃、カイが口を開いた。
「リラ」
「うん」
「また会える?」
リラは少し驚いた。
カイが、そういうことを聞く人だとは思っていなかった。いつも答えを持っている側の人だと、思っていた。
でも——聞いてくれた。
「会える」とリラは言った。
迷わなかった。
「根拠は」
「ない」
「……そうか」
「でも」
リラはカイを見た。正面から見た。
「あなたが諦めないから。私も諦めない。それだけで十分じゃない」
カイはリラを見た。一秒だけ見た。
それから、前を向いた。
「……そうだな」
草の上の手が、少しだけ力を込めた。握るわけではなかった。ただ、少しだけ。
リラはその力を感じた。胸の奥にしまった。ここに、しまった。本の中ではなく、自分の中に。
しばらくして、カイが言った。
「リラ」
「うん」
「地図ってのは、なくすと困るものだ」
リラは草の先を見たまま、待った。カイの言葉には、続きがある時の間があった。
「……だが、俺が困ってるのは、そういうことじゃない」
風が来た。カイは前を向いたままだった。
「なくして困るんじゃない。——ないと、帰る場所の方が分からなくなる。そういう地図は、初めてだ」
リラは、何も言わなかった。
言えなかった。言葉にしたら、涙の方が先に出ると分かっていた。
だから、手だけを少しだけ動かした。触れている手に触れ返した。握らなかった。ただ触れ返した。
それが、返事だった。
届いた、ということは、カイの横顔の線が少しだけ緩んだことで、分かった。
* * *
日が傾いていた。
カイが立ち上がった。
「行く」
「うん」
「明日——」
カイは少し間を置いた。
「明日のことは、明日でいい」
「……うん」
「今日は」
カイはリラを見た。
「今日のことだけ、考えろ」
リラは頷いた。
カイが歩き始めた。
三歩。——数えてしまう癖がついていた。昨日の昼も、昨夜も、この人は三歩で止まった。
今日は止まらなかった。止まらないことが返事なのだと分かった。
振り返らなかった。でも、歩き方が、いつもより少しだけゆっくりだった。
リラはその背中を見ていた。
城壁の角を曲がるまで、ずっと見ていた。
消えた。
リラは草の上に、もう少しだけ座っていた。
手の中に、さっき抜いた草があった。いつの間にか、ずっと持っていた。
風が来た。
放さなかった。
リラは紙の束を開いて、いちばん新しい頁のあいだにその草を挟んだ。昨日は放した。今日は残すことにした。消えるものと残るもの。その違いなら、もう書ける気がした。
空が橙になり始めていた。
この世界の、最後の夕暮れの色だった。




