世界の、息の音
誰が言い出したわけでもなかった。
その夜、城の食堂に、自然に全員が集まっていた。
シオンが来た。エリオが来た。アルヴィが来た。ブラートが来た。ルテが来て、グランが来た。カイが転移の術式で来た。ティアがカイの肩に乗っていた。サーシャが来た。
最後にナイラが来た。
食堂の扉を開けた瞬間、ナイラは一度だけ部屋の中を見渡した。全員がいた。意図して集めたわけでもないのに、全員が、今夜ここにいた。
ナイラは何も言わなかった。ただ、空いている椅子に座った。
料理が並んでいた。誰かが用意していた。後から聞いたら、エリオとルテが手分けして作っていた。理由は二人とも「なんとなく」と言った。
食事が始まった。
最初は、普通の食卓だった。
グランが「この肉の焼き方、誰がやったんだ」と聞いた。ルテが「私です」と言った。グランが「うまい」と言った。ルテが「当然です」と言った。ブラートが笑った。理由のない笑い方だった。
ティアがカイの皿から勝手に野菜を取った。カイが「返せ」と言った。ティアが「カイは野菜嫌いでしょ」と言った。カイが「そういう問題じゃない」と言った。リラが小さく笑った。
シオンがエリオに何かを耳打ちした。エリオが手帳を出した。シオンが「今じゃなくていい」と言った。エリオが手帳をしまった。
普通の、食卓だった。
でも全員が、知っていた。
* * *
ナイラが口を開いたのは、食事が半分ほど進んだ頃だった。
静かな声だった。でも、部屋の空気が変わった。ナイラが話す時は、いつもそうだった。
「皆さん」
全員が、ナイラを見た。
「アルヴィさんから、聞いている方もいると思います」
誰も頷かなかった。でも誰も、首を横にも振らなかった。
「この世界は、明後日の朝に分かれます。それぞれの世界が、元の場所に、戻っていく」
グランが椅子を引いた。立ち上がろうとして——ルテが、テーブルの下でグランの手を掴んだ。グランは立たなかった。座ったまま、拳を握った。
「防ぐ方法は」とグランが言った。
「ありません」とアルヴィが答えた。
「なぜ」
「世界の理だからです」
「そんなのおかしいだろ」
「おかしくても、そうです」
「……私たちが、勝ったからです」
グランは何も言わなかった。拳を握ったまま、テーブルを見ていた。
ルテの目が、静かに濡れていた。声は出なかった。出さなかった。ただ、グランの手を握ったまま、俯いていた。
ブラートはアルヴィを見た。アルヴィはブラートを見た。二人の間で、何かが通った。言葉ではなかった。百年分の、言葉にならない何かだった。
「記録は残ります」とシオンが言った。静かな声だった。「何が起きたか。誰がここにいたか。それは、消えません」
エリオが手帳を出した。今度はシオンも止めなかった。
ティアがカイの肩の上で、耳を伏せた。小さな羽が、少しだけ震えていた。
「カイ」とティアが小さく言った。
「ああ」
「寂しい?」
カイは少し間を置いた。
「……そうかもしれない」
ティアは何も言わなかった。ただ、カイの肩に額をつけた。
* * *
リラは、ずっと黙っていた。
全員の顔を見ていた。グランの拳を見ていた。ルテの俯いた首筋を見ていた。ブラートとアルヴィの間を通った、言葉にならない何かを見ていた。シオンが手帳に何かを書くエリオを止めなかったことを見ていた。ティアがカイの肩に額をつけたことを見ていた。
全部、見ていた。
カバンの中に、あの本があった。触れていなかった。触れなくても、温度が来た。
やはり、終わりを告げていた。
でも——
(消えない)
グランの怒りは、消えない。ルテの涙は、消えない。ブラートとアルヴィの百年分は、消えない。シオンの記録は、消えない。ティアの小さな羽の震えは、消えない。
全部、自分の中にある。本の中にはない。自分の中に。
リラはペンを取った。
食卓の端に、紙を広げた。
書き始めた。
誰も何も言わなかった。止めなかった。ただ——カイだけが、横目でその手元を一瞬見た。見て、前を向いた。
* * *
食事が終わった。
人々が、少しずつ散っていった。
グランとルテが先に出た。廊下に出た瞬間、グランがルテの肩を引き寄せた。ルテが声を出した。小さな声だった。
シオンとエリオが出た。廊下で、エリオが「提督」と言いかけて——シオンが「今夜はいい」と言った。エリオは黙って頷いた。
アルヴィとブラートが出た。廊下を並んで歩きながら、ブラートが何かを言った。アルヴィが少しだけ笑った。何を言ったのか、聞こえなかった。
サーシャが出た。扉の前で一度だけ振り返って——それから行った。
ティアが「私も」と言って、カイの肩から飛び立った。羽音が遠くなった。
ナイラが最後に立ち上がった。
扉に向かいながら——リラの前で足を止めた。
リラが顔を上げた。
ナイラは外套の内側から、一冊の薄い本を出した。詩集だった。いつか書庫から持ち出していった、あの薄い詩集。それをリラの書きかけの紙の横に、静かに置いた。
「返します」
「……読み終わったのですか」
「いいえ」ナイラは紙の上の文字を一瞬だけ見た。「途中で分かったのです。私に必要だったのは、借りてくる言葉ではなかった。——あなたのように、自分の中から出す言葉でもなかった」
女王は少しだけ口元を緩めた。リラが初めて見る種類の緩め方だった。
「私の言葉は、決裁欄に書く言葉です。それでこの国は回る。それが私の書き方で——あなたの書き方は、それとは違う」
ナイラは扉の方を見た。それから食卓の端の、カイのいる方を——見なかった。見ないまま言った。
「あの人は、地図がないと迷う人です。……どの世界にいても」
リラは何も言えなかった。
ナイラは小さく頷いた。リラにか自分にか、分からない頷き方だった。
扉が閉まった。
詩集が紙の横に残った。触れると温度が来た。決裁欄の文字ばかり書いてきた指が、それでも夜ごと頁をめくった、その温度だった。
* * *
食堂に、カイとリラだけが残った。
リラはまだ書いていた。
カイは椅子に座ったまま、窓の外を見ていた。星が出ていた。この世界の星と、別の世界の星が、同じ夜空に混じっていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
カイが立ち上がりかけた。
止まった。
「リラ」
「うん」
「……飯、うまかったな」
リラはペンを止めた。
少しだけ、笑った。泣きそうな顔で、笑った。
「……そうね」
カイはそれ以上何も言わなかった。
立ち上がって、扉に向かった。
三歩歩いて——止まった。振り返らなかった。
「書いたもの、明日持ってこい」
「……うん」
「読む」
それだけだった。
扉が閉まった。
食堂に、リラだけが残った。
窓から星が見えた。どれがどちらの世界の星なのか、分からなかった。
でも気にしなかった。
全部、同じ夜空の星だから。
リラはペンを取り直した。
紙の上に、言葉が落ちた。止まらなかった。
窓の外で、星が動いていた。




