四日前
本の温度が、変わっていた。
数日前からだった。カバンの中の緑の本に触れるたび、いつもの落ち着いた温かさの底に、別の何かが混じる。終わる、という温度——に、似ていた。何が終わるのかは、分からなかった。分かりたくなかったのかも、しれない。
リラ・マーレンは川辺の石に腰を下ろしたまま、ペンを持っていた。紙には何も書けていなかった。言葉が、来なかった。正確には——来ているのに、降ろせなかった。
思い出したのは、つい先日のことだった。
自分が、幼い日にこの層へ渡ってきたこと。魔法のない、本がただの紙でしかない世界から。境界を一度越えた指だから、本の温度が読めるのだということ。
カイは空から落ちてきた。自分は、本の中へ落ちた。会うはずのない二人だった。重ならないはずの世界が、ありえない形で重なって、だから会えた。——重なったものは、いつか、ほどける。思い出した記憶の底に、その予感だけが、小さな石のように沈んでいた。
今はもう、この世界が当たり前だった。
シオン艦隊の灯りが夜空に浮かんでいることも、アルヴィが時々城壁の外の草原に一人で座っていることも、市場にエルド・ラインの金属細工が並んでいることも。最初は腰を抜かしていた老人たちが「今日も浮いとるな」と言いながら畑を耕すように、リラにとってもこの世界はとっくに、自分の一部になっていた。
仲間。友情。自信。矜持。
そして——恋。
その全てに——あの温度が、静かに差していた。
「リラ」
声がした。
振り返ると、アルヴィが川辺に立っていた。
らしくなかった。
アルヴィが声をかけてくる時は、たいてい用件が先に来る。「リラさん、あの本を」とか「少し聞いてもいいですか」とか。今日は名前だけだった。それだけで、リラの胸の奥の何かが、静かに身構えた。
「隣、いいですか」
「どうぞ」
アルヴィが石の端に腰を下ろした。杖を膝の上に置く。川を見る。しばらく何も言わなかった。
川は何も知らないように流れていた。
「リラ」とアルヴィがもう一度言った。「この世界って、あなたの育った側からは、おとぎ話って言われてたんだよね」
「ええ」
「元に戻れるとしたら——嬉しい?」
リラはペンを止めた。
止めてから、アルヴィの横顔を見た。川を見たまま、表情が読めなかった。百年を生きた人間の横顔は、時々こういう顔をする。深すぎて、どこを見ているのか分からない顔。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ」
アルヴィは川を見たまま続けた。声は静かだった。静かすぎて、川の音に混じりそうだった。
「この世界は、四日後に分かれる。元の形に戻っていく。リラの世界も、カイの世界も、私の世界も、シオンの世界も——それぞれの場所に戻る」
リラは何も言えなかった。
言葉が、来なかった。さっきとは違う理由で。
「どうして、四日だと」
ようやく出たのは、それだった。
「星だよ」とアルヴィは言った。「混じっていた星が、それぞれの空へ帰り始めている。減り方が、日ごとに速くなっていた。私の感触が指した日を、星の数が裏づけた。……昨日、確定した。確かになるまでは、あなたに言いたくなかった」
川の音だけが、続いていた。
「分かれ方は、こうなる」アルヴィは川面を見たまま、続けた。「エルド・ラインは、戦いの層へ。星海は、星の層へ。私たちは、おとぎの側へ。——翠野も、王都ルミナリアも、あなたの育ったこの層に残る。あなたは、ここに残る。物語の守り手は、育った場所に根を張るものだから」
「……ナイラ様や、カイの世界とは、もう」
「カイの世界も、シオンの世界も、私の世界も、完全に離れるわけじゃないかもしれない。戦いの層も、星の層も、根をたどれば、おとぎの延長にある層どうしだからね。糸口くらいは残るだろうと思ってる」
「じゃあ——」
「この層は」
アルヴィがそこで初めてリラを見た。
その目に、言い訳がなかった。ごまかしがなかった。百年分の、ただの誠実さだけがあった。
「現実の側に、いちばん近い層だから。おとぎの雲から見れば、いちばん遠い対岸だ。糸口が、あるかどうか分からない」
川が流れていた。
リラは膝の上の紙を見た。何も書けていない紙。白いままの紙。
「カイだよね。気になるのは」
否定しなかった。できなかった。
「糸口が残るかどうかは……私にも、全部分かってるわけじゃない。ただ——分からない、ということは、ない、ということとは違う」
リラは立ち上がった。紙をカバンにしまった。ペンをしまった。それから——本だけは、胸に抱えた。
「今からシオンさんに会ってくる」
アルヴィは止めなかった。
リラが歩き始めた時、後ろから声が来た。
「リラ」
振り返らなかった。でも足を止めた。
「あと四日、ちゃんと見ておいて。全部」
リラは少しだけ間を置いた。
「……分かってます」
歩き出した。
本が胸の中で、いつもと違う温度を持っていた。
終わる、という温度だった。




