行き来の季節
収束から、季節がひとつ動いた。
転移の術式は、安定していた。使えるのは決まった場所と、決まった時間帯だけ。渡るたびに、体へ少しだけ負荷がかかる。それでもカイは来た。十日に一度が七日に一度になり、いつからか、五日と空けなくなった。
「また来てる」
市場でクロエが言った。リラにではなく、荷を担いだカイに向かってだった。
「荷運びの手が要ると聞いた」
「誰から」
「ティアだ」
クロエは吹き出して、いちばん重い籠をカイに押しつけた。カイは黙って担いだ。頭上でティアが「感謝してよね」と旋回した。リラは横で、笑いをこらえるのに失敗した。
夕方、カイは布の包みをひとつ、リラの机に置いた。開けると、金属のペン先だった。エルド・ラインの職人のものだと、ひと目で分かった。無骨で、飾りがなく、先端だけが針のように正確に研いであった。
「向こうの整備班の親父が作った。……書くなら、道具が要るだろ」
「くれるの?」
「魚の代わりだ」
物乞いはしない。受け取ったら、返す。川辺の頃から、何ひとつ変わっていなかった。リラはペン先を灯りにかざした。書く道具を、この人が選んで、運んできた。そのことのほうが、金属より重かった。
「大事にする」
「道具は使え。飾るな」
「……はいはい」
夕食は、リラの根菜スープだった。カイは黙って二杯食べた。二杯目の時、ティアが「おかわりって言えばいいのに」と言い、カイが「うるさい」と言った。いつもの夜だった。
* * *
夜、二人は城壁の外の草の上にいた。いつもの場所だった。
リラはカバンから、緑の本を出した。このところ、毎晩そうしていた。開かない本。読めない文字。それでも触れると、温度が来る。収束のあとは、ずっと静かな温度のままだった。役目を終えた者の温度。
その夜だけ、違った。
指を置いた瞬間——来た。
温度ではなかった。記憶だった。
夜の部屋。虫の声のしない夜。棚に並んだ、ただの紙でしかない本たち。ページをめくっても、何も来ない。誰の温度もしない。それが当たり前の世界。幼い自分は、その中の一冊にだけ、なぜか手を伸ばして——
「リラ?」
カイの声で、戻ってきた。指先が震えていた。緑の本は、もういつもの温度に戻っていた。渡すものを渡し終えた、というように。
「……思い出した」
自分の声が、遠かった。
「私、この世界の子じゃなかった」
カイは何も言わなかった。ただ聞く姿勢になった。リラは、来たばかりの記憶を、順番に言葉にしていった。魔法のない世界。本がただの紙でしかない世界。虫の声の代わりに、名前を思い出せない別の音がしていた夜。幼い日に、一冊の本に触れて——気づいたら、翠野の近くの野原に立っていたこと。泣いているところを、エルマが拾ってくれたこと。
「孤児だって、ずっと思ってた。親の顔を覚えていないだけだって。……違ったの。覚えていないんじゃなくて、こちら側に、最初からいなかった」
言葉にしながら、いくつものことが、順番に繋がっていった。本に触れると温度が来る力。ティアの言った「はじめて見る色」。繭の中で途切れた、あの七日間——力は自分の中から湧くものではなく、いつか越えた境界の向こうから、細い糸で引いているものだった。糸の通り道を塞がれれば、届かなくなる。壊れたのでは、なかった。
「来る時が来たら来る、って言ったでしょう。あなた」
「言った」
「来たわ。今」
カイはしばらく黙っていた。それから、短く言った。
「……そうか。お前も、落ちてきた側か」
「あなたより、ずっと先にね」
「道理でな」
「なにが」
「初対面で、俺の話が、やたら通じた」
リラは、あの夕暮れを思い出した。空から落ちてきた少年の故郷を、境遇を、なぜか言い当てられたこと。妄想だと、ずっと思っていた。妄想では、なかったのかもしれない。一度境界を越えた者には、越えてきた者の匂いが分かる——そういうことだったのかもしれない。
「怖くないのか」とカイが聞いた。
「なにが」
「自分が、どこの誰か分からなくなるのは」
リラは少し考えた。草の匂いがした。遠くで、要塞都市の灯りが揺れていた。
「分かってるもの。翠野農場のリラ。エルマさんのスープで育って、クロエと絵本を読んで、川辺で変な男の子を拾った。——生まれた場所より、育った場所のほうが、ずっと多く私を作ってる」
カイは前を向いたまま、ふ、と息だけで笑った。
「拾われたのは俺じゃない。順番からいえば、お前が先だ」
「先に拾われた者が、次を拾うのよ。おとぎ話では、だいたいそう」
* * *
帰り際、カイが空を見上げた。
足を止めた、というほどではなかった。ただ、視線が一箇所で止まった。北の空。斥候の目は、星の数を数えられる。
「……また、減ったな」
「え?」
「星だ。先月より、まばらになってる」
リラも見上げた。リラには数えられなかった。ただ、言われてみれば、夜空がどこか薄くなった気はした。混ざっていた星が、それぞれの空へ帰り始めている——そんな想像が浮かんで、リラはそれを、口にしなかった。
「じゃあな。五日後に来る」
「うん。気をつけて」
カイの背中が、術式の光の中に消えた。
リラはカバンの中の緑の本に、もう一度だけ触れた。
温度が、また少しだけ、違っていた。




