表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
40/52

行き来の季節

収束から、季節がひとつ動いた。

転移の術式は、安定していた。使えるのは決まった場所と、決まった時間帯だけ。渡るたびに、体へ少しだけ負荷がかかる。それでもカイは来た。十日に一度が七日に一度になり、いつからか、五日と空けなくなった。

「また来てる」

市場でクロエが言った。リラにではなく、荷を担いだカイに向かってだった。

「荷運びの手が要ると聞いた」

「誰から」

「ティアだ」

クロエは吹き出して、いちばん重い籠をカイに押しつけた。カイは黙って担いだ。頭上でティアが「感謝してよね」と旋回した。リラは横で、笑いをこらえるのに失敗した。

夕方、カイは布の包みをひとつ、リラの机に置いた。開けると、金属のペン先だった。エルド・ラインの職人のものだと、ひと目で分かった。無骨で、飾りがなく、先端だけが針のように正確に研いであった。

「向こうの整備班の親父が作った。……書くなら、道具が要るだろ」

「くれるの?」

「魚の代わりだ」

物乞いはしない。受け取ったら、返す。川辺の頃から、何ひとつ変わっていなかった。リラはペン先を灯りにかざした。書く道具を、この人が選んで、運んできた。そのことのほうが、金属より重かった。

「大事にする」

「道具は使え。飾るな」

「……はいはい」

夕食は、リラの根菜スープだった。カイは黙って二杯食べた。二杯目の時、ティアが「おかわりって言えばいいのに」と言い、カイが「うるさい」と言った。いつもの夜だった。

* * *

夜、二人は城壁の外の草の上にいた。いつもの場所だった。

リラはカバンから、緑の本を出した。このところ、毎晩そうしていた。開かない本。読めない文字。それでも触れると、温度が来る。収束のあとは、ずっと静かな温度のままだった。役目を終えた者の温度。

その夜だけ、違った。

指を置いた瞬間——来た。

温度ではなかった。記憶だった。

夜の部屋。虫の声のしない夜。棚に並んだ、ただの紙でしかない本たち。ページをめくっても、何も来ない。誰の温度もしない。それが当たり前の世界。幼い自分は、その中の一冊にだけ、なぜか手を伸ばして——

「リラ?」

カイの声で、戻ってきた。指先が震えていた。緑の本は、もういつもの温度に戻っていた。渡すものを渡し終えた、というように。

「……思い出した」

自分の声が、遠かった。

「私、この世界の子じゃなかった」

カイは何も言わなかった。ただ聞く姿勢になった。リラは、来たばかりの記憶を、順番に言葉にしていった。魔法のない世界。本がただの紙でしかない世界。虫の声の代わりに、名前を思い出せない別の音がしていた夜。幼い日に、一冊の本に触れて——気づいたら、翠野の近くの野原に立っていたこと。泣いているところを、エルマが拾ってくれたこと。

「孤児だって、ずっと思ってた。親の顔を覚えていないだけだって。……違ったの。覚えていないんじゃなくて、こちら側に、最初からいなかった」

言葉にしながら、いくつものことが、順番に繋がっていった。本に触れると温度が来る力。ティアの言った「はじめて見る色」。繭の中で途切れた、あの七日間——力は自分の中から湧くものではなく、いつか越えた境界の向こうから、細い糸で引いているものだった。糸の通り道を塞がれれば、届かなくなる。壊れたのでは、なかった。

「来る時が来たら来る、って言ったでしょう。あなた」

「言った」

「来たわ。今」

カイはしばらく黙っていた。それから、短く言った。

「……そうか。お前も、落ちてきた側か」

「あなたより、ずっと先にね」

「道理でな」

「なにが」

「初対面で、俺の話が、やたら通じた」

リラは、あの夕暮れを思い出した。空から落ちてきた少年の故郷を、境遇を、なぜか言い当てられたこと。妄想だと、ずっと思っていた。妄想では、なかったのかもしれない。一度境界を越えた者には、越えてきた者の匂いが分かる——そういうことだったのかもしれない。

「怖くないのか」とカイが聞いた。

「なにが」

「自分が、どこの誰か分からなくなるのは」

リラは少し考えた。草の匂いがした。遠くで、要塞都市の灯りが揺れていた。

「分かってるもの。翠野農場のリラ。エルマさんのスープで育って、クロエと絵本を読んで、川辺で変な男の子を拾った。——生まれた場所より、育った場所のほうが、ずっと多く私を作ってる」

カイは前を向いたまま、ふ、と息だけで笑った。

「拾われたのは俺じゃない。順番からいえば、お前が先だ」

「先に拾われた者が、次を拾うのよ。おとぎ話では、だいたいそう」

* * *

帰り際、カイが空を見上げた。

足を止めた、というほどではなかった。ただ、視線が一箇所で止まった。北の空。斥候の目は、星の数を数えられる。

「……また、減ったな」

「え?」

「星だ。先月より、まばらになってる」

リラも見上げた。リラには数えられなかった。ただ、言われてみれば、夜空がどこか薄くなった気はした。混ざっていた星が、それぞれの空へ帰り始めている——そんな想像が浮かんで、リラはそれを、口にしなかった。

「じゃあな。五日後に来る」

「うん。気をつけて」

カイの背中が、術式の光の中に消えた。

リラはカバンの中の緑の本に、もう一度だけ触れた。

温度が、また少しだけ、違っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ