分かれていく理由
シオンが最初に気づいたのは、数値だった。
夜明け前のブリッジ。クルーが少なく、計器の音だけが響く時間。歴史学者になりたかった男にとって、静かな時間は呼吸と同じだった。
エリオが持ってきた記録板を、シオンは窓の外を見たまま受け取った。
「三週間前のデータと比較しました」とエリオが言った。「層の振動が、内向きから外向きに変わっています」
「外向き」
「それぞれの方向に——押し出されるような動きです」
シオンはハーブの茶を一口飲んだ。今日は少し苦かった。自分で淹れた茶は、なぜかいつもエリオが淹れるものより苦い。砂糖の量は同じはずなのに。
「原因の仮説は」
「まだありません」とエリオは言った。「ただ——」エリオは一拍置いた。「提督、これは自然な動きだと思います。人工的な力が加わった形跡がない」
シオンは記録板を置いた。
窓の外に、この世界の夜明けが来ていた。地平線の端から橙が滲み出してくる。その橙の広がり方が、毎朝少しずつ違う。シオンはそれを三ヶ月間、記録し続けていた。日付と、色の変わり方と、雲の形を。歴史学者の習慣だった。役に立つかどうかは、関係なかった。
(自然な動き)
エリオの言葉が、頭の奥で静かに反響した。
自然な動きなら——抗えない。エルド・ラインの技術でも、星海の艦隊でも、自然の理には勝てない。シオンはそれをよく知っていた。歴史の中で、自然の理に逆らおうとした人間が、例外なく何を失ってきたかを、本の中で何度も読んできた。
「エリオ」
「はい」
「アルヴィさんに、会いに行ってきます」
エリオは一拍置いてから「分かりました」と言った。その一拍が何を意味するのか、シオンには分かっていた。確認ではなく、準備だった。
* * *
アルヴィは城壁の外の草原にいた。
草の上に座って、空を見ていた。靴が少し濡れていた。夜露だった。百年以上生きていると、夜露で靴が濡れることを気にしなくなる。気にしなくなったのがいつ頃だったか、もう覚えていない。
後ろから足音が来た。
軽い足音だった。ブラートではない。もっと整った、律儀な歩き方だった。
「アルヴィさん」
シオンだった。
「早いですね」とアルヴィは言った。振り返らなかった。
「あなたの方が早い」
「眠れなかった。百年に一度くらいはあります」
シオンはアルヴィの隣に立った。座らなかった。記録帳を手に持ったまま、同じ空を見た。
しばらく、二人とも黙っていた。
「データを持ってきました」とシオンが言った。「層の振動が、外向きに変わっています。三週間前から」
「知っています」
「いつから」
「一ヶ月前」とアルヴィは言った。「計器より先に、肌で分かります。長く生きていると、そうなります」
「原因は」
アルヴィはすぐには答えなかった。草を一本抜いた。手の中で転がした。緑の匂いがした。
「……たぶん、私たちです」
「私たち」
「世界を縫い合わせていたのは、歪みでした。あの子たちが、その歪みの根を癒した。——縫い目が要らなくなれば、布は、元の二枚に戻ります」
シオンは黙っていた。持ってきた数値の、その裏側に筋道が静かに嵌っていくのが分かった。
「世界を救ったから、世界は分かれる」とアルヴィは言った。「理というのは、そういう払い方をします」
「……ずいぶんな、払い方だ」
「ええ。似たことを、昔も感じました。百年前、世界の層が動いた時。あの時は融合でした」
「では今回は」
「逆です」
一言だった。
シオンは少し間を置いてから、聞いた。
「東の教団は。……作法を伝えた者たちが、まだ遠くにいると聞いていましたが」
「彼らが縋っていたのは、開いた縫い目そのものです。無理にこじ開けて、根に触れようとしていた。——分かれてしまえば、こじ開ける扉ごと、なくなります。彼らの層ごと、遠くなる。追う必要も、追う道も、消える」
「……それも、理の払い方ですか」
「ええ」
シオンは空を見た。橙が少しずつ広がっていた。今日の色は、昨日より少し深い。記録しておきたい、と思った。でも今は記録帳を開く気になれなかった。
「収束の点は」とシオンが聞いた。
「あなたの数値が指しているのと、同じ日です。……星が減っていることには、気づいていましたか」
シオンは記録帳を思った。夜明けの色と一緒に、書き留めてきた数字があった。星の数だ。減っていた。観測誤差だと、思うことにしていた。
「防ぐことは」
「できません」とアルヴィは言った。迷いがなかった。百年分の、ただの誠実さだった。「世界の理に逆らえたことは、一度もない。逆らおうとした者が、何を失ってきたかも、たくさん見てきました」
「そうですか」
「シオンさんは、後悔しますか」
シオンは少し考えた。
「後悔という言葉が、合わない気がします」と静かに言った。「ただ——惜しい。この世界が、惜しい」
アルヴィは草を放した。風が来て、草が遠くへ飛んでいった。
「同じです」とアルヴィは言った。「惜しい、という言葉が、一番近い」
二人はしばらく、同じ空を見ていた。
「リラさんに話しましたか」とシオンが聞いた。
「昨日」
「どうでしたか」
アルヴィは少し間を置いた。
「すぐにシオンさんのところへ行くと言っていました」
シオンは小さく笑った。珍しい笑い方だった。
「来ませんでしたよ」
「そうですか」アルヴィも少しだけ表情を緩めた。「……たぶん、一人で泣いていたんだと思います」
「泣ける子は、強い」
「そう思います」
夜明けが進んでいた。橙が空の中央まで広がってきた。
シオンは記録帳を開いた。今日の色を書き留めた。
「記録します」とシオンが言った。「何が起きたか。どう分かれたか。誰がここにいたか」
アルヴィはその横顔を見た。
「歴史学者の習慣ですか」
「それと」とシオンは言った。「残された人間への、礼儀だと思っています」
アルヴィは頷いた。何も言わなかった。
* * *
同じ朝、ナイラは謁見室にいた。
一人だった。執務の書類が机の上に積まれていた。手をつけていなかった。
窓から光が入っていた。城下の川が見えた。橋が見えた。市場が見えた。人々が動いていた。朝の光の中で、いつも通りに。
(三日後には——)
ナイラは窓から離れた。
書類に手をつけた。ペンを取った。文字を書いた。いつも通りの文字だった。手が震えていなかった。それが、ナイラという人間だった。どれだけ内側が揺れていても、手だけは動かせる。それを美徳だと思ったことは、一度もなかった。ただそういう人間として生きてきただけだ。
「女王様」
サーシャだった。扉の前に立っていた。
「入りなさい」
サーシャが入ってきた。いつもの凛とした立ち方だった。ただ——目が、少しだけ違った。サーシャの目がこういう色をする時を、ナイラは知っていた。何かを言おうとして、言葉を選んでいる時の目だった。
「どうしましたか」
「……女王様は」とサーシャが言った。「この世界を、惜しいとは思いませんか」
ナイラはペンを置いた。
「思います」と静かに言った。
「では」
「でも」
ナイラは窓の外を見た。川が見えた。橋が見えた。
「惜しいと思うことと、受け入れることは——同時にできます」
サーシャは何も言わなかった。
「あなたは」とナイラが聞いた。
サーシャは少し間を置いた。
「……受け入れるのが、まだ下手です」
「そうですか」
ナイラは少しだけ口元を緩めた。
「私もです。ただ——慣れているだけです」
サーシャはそれを聞いて、一拍だけ目を伏せた。それから、いつもの顔に戻った。
「引き続き、執務を」
「ええ」
扉が閉まった。
ナイラはしばらく、閉まった扉を見ていた。
それから、ペンを取った。
書類に、文字を書き続けた。手は震えなかった。川の音が、窓から聞こえていた。
* * *
リラは書庫にいなかった。
翠野農場の方角へ続く道を、一人で歩いていた。
どこへ行くか、決めていなかった。ただ足が、そちらへ向いた。農場はもうここからは遠い。半日かかる。それでも足が向いた。
歩きながら、考えていた。
(受け入れる)
頭では分かっていた。アルヴィが「防げない」と言った。シオンは「記録します」と言った。ナイラは——まだ何も言っていないけれど、あの人はきっと、静かに受け入れている。
だから自分も、受け入れる。
大人として。
(でも)
道の脇に、見慣れた花が咲いていた。この世界の花だった。翠野農場の裏庭にも咲いていた。毎年この季節に咲く。エルマが「雑草だけど可愛いから抜かない」と言っていた花だった。
リラは立ち止まった。
その花を、しばらく見ていた。
三日後には——この花が、翠野農場の裏庭に咲いていても、リラには見えない。翠野農場そのものが、リラのいる場所から消える。エルマの厨房の音も、ルドの蹄の音も、縁側から見える夕暮れも。
(やだ)
思ってしまった。
思ってしまったら、止まらなかった。
カイと並んで城壁の外に座った夜のことを、思った。「悪くなかったな」という声を、思った。「お前は俺の地図だ」という言葉を、思った。
あの声が、三日後には——聞こえなくなる。
「聞こえなくなる」という言葉を、初めてちゃんと形にした瞬間、目の奥が熱くなった。
来てしまった。
道の真ん中で、リラは立ち尽くした。泣くまいと思っていた。覚悟を決めたはずだった。アルヴィに「ちゃんと見ておいて、全部」と言われた。シオンは記録している。ナイラは書類に向かっている。
なのに自分は、道の真ん中で泣いている。
(情けない)
でも、泣いた。
花が見えなくなるくらい、泣いた。
しばらくして——袖で目を拭った。
花がまた見えた。
相変わらず咲いていた。雑草だけど可愛い、エルマが言っていた花が。
リラは膝をついて、その花を一本だけ摘んだ。
立ち上がった。
(書く。全部、書いておく。消えても——書いたことは消えない)
カイが「続きを書け」と言った。あの朝に、扉を閉める前に。あの言葉は、本の中にはない。自分の中にある。
リラは来た道を戻り始めた。
書庫に戻る。ペンを取る。
花を一本、手に持ったまま、歩いた。
* * *
その夜、エルド・ラインで、カイは訓練場にいた。
遅い時間だった。他に誰もいなかった。
ナイフを的に投げる。刺さる。抜く。また投げる。
それだけを繰り返していた。
考えないためではなかった。手を動かしていると、頭が整理される。エルド・ラインで覚えた、古い習慣だった。
転移の術式が、あと三日で切れる。
ヴェルナから聞いたのは昨日だった。「術式の問題じゃない。層そのものが、元の形に戻る。ナイラ様のもとに、向こうのエルフから正式な報せが来た。どうにもならない」とヴェルナは言った。冷静に、淡々と。それがヴェルナという人間だった。感情を見せないことが強さではなく、感情と事実を分けて話せることが、あの人の誠実さだった。
カイは否定しなかった。「そうか」とだけ言った。
ナイフを投げた。的の中心に刺さった。
(三日)
リラは今、何をしているだろう、と思った。
泣いているか——と思った。思ってから、違うかもしれない、とも思った。リラは泣く。でも泣いた後、前を向く。それがリラという人間だった。
ただ。
一人で泣いているとしたら。
カイはナイフを的から抜いた。
部屋に戻った。机の上に、紙があった。
三日前から、そこにある。
『お前が感じるなら』
それだけ書いた。その先が、出てこない。
何を書けばいいのか、分からなかった。分からないまま、ずっとそこにある。捨てる気にはなれなかった。来た時に渡せればいい、と思っていた。来るとしたら——
(来る)
根拠はなかった。
でも、来ると思っていた。リラは来る。どうにかして来る。あの少女が、諦めるところを、カイはまだ一度も見たことがなかった。
窓の外を見た。
エルド・ラインの夜空は、いつも少し煤けている。でも今夜は、その中に一つだけ、白い星があった。
あの世界の星が、まだ混じっているのかもしれない。
根拠はなかった。
それでも——カイはしばらく、その星を見ていた。




