繭の中
閉じ込められて、三日が経った。
王都は動いていた。市場が開き、パン屋が焼き、子供が走っていた。普通だった。普通すぎた。
カイは城壁の上から、その「普通」を見ていた。違和感の正体は、すぐに分かった。誰も、空を見ていない。最初の日は、みんな空を見ていた。三日目になると、見なくなっていた。
(慣れている)
悪いことではない。慣れなければ生活が回らない。だが慣れると、出口を探さなくなる。今は、慣れていい段階ではない。
カイは城壁を降りた。リラのいる方向へ歩いた。
* * *
リラは書庫にいた。
本棚の前に立ち、一冊触れた。次の一冊に触れた。端から順番に触れていった。
何も、来なかった。
文字は読める。紙の手触りは分かる。でも、いつも来ていた温度が、どこにもなかった。書いた人間の体温が来ない。誰かが何度も読んだページの跡が来ない。ただの紙と、ただの文字があるだけだった。
(壊れた)
その言葉が来た。追い払った。来た。また追い払った。
(この力は——私のものじゃ、ないのかもしれない)
初めてそう思った。自分の中から湧くものなら、場所が変わっても消えないはずだった。消えるということは、どこかと繋がっていて、その繋がりが、今、細くなっているということだった。層の、向こう側の——どこかと。
その「どこか」を、リラはまだ、知らなかった。
扉が開いた。カイだった。リラの手が棚から離れているのを見た。何も言わずに、隣に来た。一冊抜いて、めくって、閉じて、棚に戻した。
「読めるか」
「文字は読める」
「感じるか」
リラの指が、棚の上で止まった。
「……感じない」
カイは頷いた。責めなかった。驚かなかった。ただ、そうか、という顔をした。
「感じられなくても、知っていることは知っている。読んできたことは読んできた。それは消えていないだろ」
「カイ。怖いの。感じられなくなったことが」
カイは少し間を置いた。
「そうだな」
それだけだった。同意だった。否定しなかった。慰めでもなかった。ただ、そうだな、と言った。リラはその「そうだな」を受け取った。怖さを怖さとして受け取ってもらえた、ということが、少しだけ楽になった。
* * *
夜、リラはまた書庫に来ていた。
灯りを一つだけつけた。触れてみた。やはり何も来なかった。棚に背をつけて、床に座り込んだ。膝を抱えた。
もし感じられないまま、ここを出ることになったら。前の戦いでも、リラにしかできないことがあった。今回もそうなるはずだ。でも今のリラには、何もない。自分は今、地図ではない。ただの、本を持っているだけの女の子だ。
扉が開いた。カイだった。床に座っているリラを一秒だけ見て、それから向かいの壁に背をつけて、座った。
床に二人が向かい合って座っていた。灯りがオレンジ色に揺れていた。どちらも、何も言わなかった。
しばらくして、カイがポケットに手を入れた。紙を出した。書きかけの紙だった。見せるつもりで出したのではなかった、という出し方だった。でも、出した。
リラは見た。カイの字だった。几帳面ではなかった。でも丁寧だった。何度も書き直した跡があった。一行だけ、読めた。
『——お前が感じるなら』
その先が、書きかけだった。
カイは紙をポケットに戻した。
「見せるつもりじゃなかった」
「分かってる」
「まだ書けていない」
「分かってる」
リラは膝の上で手を重ねた。
「カイ。書いてるのね」
カイは、ふいと顔を背けた。
「……うるさい」
リラは少し笑った。小さかったが、本物だった。
カイは壁に頭をつけて、天井を見た。
「感じられなくなったのは、お前が壊れたからじゃない。向こうが閉じているんだろ」
「そう思いたい」
「思いたいなら、そう思え」
「根拠もないのに?」
「お前が感じるなら、そうなんだろ。それと同じだ。俺がそう思うなら、そうなんだろ」
論理ではなかった。でも間違っていない気がした。
「ありがとう」
「礼はいらない」
二人はしばらく、書庫の床に座ったままだった。感じられない本たちが、暗い中に並んでいた。でもリラには、背表紙の形が見えていた。どれがどの本か、分かっていた。読んできた時間が、そこにあることは、分かっていた。
消えていない。カイが言った通り、消えていなかった。
* * *
同じ夜、宇宙空間で、シオンは水晶空間——エリオがそう呼び始めた——の表面を測り続けていた。
計器は像を結べなかった。測ろうとするほど揺らいだ。でも、中は見えた。人が動いている。市場の灯りがある。書庫らしき場所に、一つだけオレンジ色の灯りがある。
「リラですね、たぶん」
「たぶん」
届かない。声も、通信も、何も届かない。でも、そこにいることは分かる。
「エリオ、記録を続けてくれ。どんな小さな変化でも」
エリオの手が、別の計器の前で止まった。
「提督。外側に、反応が二つ」
水晶空間の、ずっと外。一つは、隕石の群れ。もう一つは、形を持たない、ゆっくりと広がる何か。どちらも、こちらへ寄ってきていた。急いではいない。ただ止まらなかった。
形のない方を、若い観測手が「アメーバ」と呼び始めた。学のない呼び名だとエリオは眉をひそめたが、シオンは訂正しなかった。名前は、怖さを扱えるようにするためにある。
「中へは届くか」
「届きません。表面が、何も通しません」
見えているのに、警告ひとつ、向こうへは渡らない。あのオレンジ色の灯りは、近づいてくるものを、まだ知らなかった。
* * *
七日目の朝、本が現れた。
リラが書庫に来ると、棚の端に一冊。誰かが差し込んだような置き方だった。深い緑色の装丁。読めない文字。同じ本だった。老司書は「そんな本、知らない」と言った。昨日の閉館時にはなかった、とも。
リラは手を伸ばした。触れた瞬間——来た。
七日間、何も来なかった。でも今、来た。言語になる前の何かが。感情だけが。温度だけが。
壊れていなかった。向こうが閉じていただけだった。この本だけが、閉じていなかった。あるいは——この本だけが、リラに向けて開いていた。
リラは本を胸に抱えた。手が、震えていなかった。
城壁の近くで、カイは王都の格納庫に残っていた連絡用の小型艇を毎朝試していた。毎朝、壁に弾かれていた。それでも毎朝試していた。
「カイ。書庫に、また本があった。同じ装丁の。触れた。感じた」
「向こうが閉じていただけだったんだろ」
考えてから言うのではなかった。もう当たり前になっている言い方だった。
「それで、その本は何を言っている」
リラは目を閉じ、来るものを感じた。
「急いている。今回はもっと強い。——待ちきれない、という感じ」
「出口を知っているのかもしれないな」
「そう思う?」
「お前がそう感じるなら、そうなんだろ」
三度目だった。でも一度目より二度目より、今が一番、当たり前に届いた。
* * *
同じ頃、宇宙で、エリオは七日分のデータの中に、一つの数値を見つけていた。
反発エネルギーの強度が、均一ではない。大型艦は強く弾かれ、小型機は弱い。出力に、比例している。計算した。もう一度計算した。閾値がある。一定以下の出力なら——飛行艇サイズなら、理論上は、通れる。
シオンは計算結果を数行読んで、顔を上げた。
「飛行艇なら通れる」
「理論上は」
「やってみたら、できた、というやつだな。——試そう」
立ち上がり、地図を折った。
「エリオ。よくやった」
エリオは一拍置いた。
「ありがとうございます」
今日は「はい」ではなかった。シオンはそれに気づいたが、何も言わなかった。
その日の午後、エリオの操縦する飛行艇が、水晶空間の表面に触れた。弾かれなかった。表面が波紋のように揺れ、飛行艇がその中に入っていった。
「通れた」
内側では、カイが最初に気づいた。城壁の上から、見慣れた飛行艇が降りてくるのを見た。
「出られる」とカイが言った。リラは本を胸に抱えたまま、頷いた。
飛行艇が上昇し、波紋を抜けた。宇宙空間だった。水晶空間が、球体として外から見えた。中に王都がある。灯りがある。中と外が、逆になっていた。
シオンの声が通信に来た。
「無事ですか」
「無事です」
「よかった。——来てもらいたいところがあります。急いでいます。アメーバが来ています。それと、隕石群も。同時に」
リラの膝の上で、本が、また反応していた。急いている温度ではなかった。落ち着いている温度だった。まるで——準備ができた、と言っているように。




