東へ
アルヴィとブラートは、翌朝には先発していた。
「リラが名を出した谷だ。先に行って、足で確かめる」とアルヴィは言った。地図は持たなかった。層を読むと、歪みも同じ方から流れている。名指しと感触が、同じ向きを指している。それが少し、不思議だった。
道すがら、ブラートが聞いた。
「アルヴィ。ジャコールの話、全部は言っていないな」
ジャコール・アオン。百年前、世界の層が動いたあの時に、誰よりも深く「根」に触れた学者だった。層の理を測り、書き残し、最後は測ることに自分の身ごと使って——還らなかった。アルヴィに層の読み方を教えた、ただ一人の人でもあった。消える前に、いくつかのことを言い残していた。アルヴィはその全部を、まだ誰にも話していない。
「言う時が来たら言う」
「いつだ」
「動く時」
森の中に、鳥の声がしていた。一種類だけ。同じ声が、同じ間隔で。アルヴィはそれを聞きながら、歩き続けた。
* * *
王都では、段取りが進んだ。
ティアが思念を飛ばし、アルヴィとの合流地点が決まった。森を抜けた先の宿場町、三日後の夕方。「カイ、今回どんな旅?」「まだ分からん」「危ない?」「たぶん」。ティアは羽を一度広げ、閉じた。「行く」「最初からそのつもりだった」「分かってた」。
シオンには、カイが簡潔に話した。東の座標と、艦隊が拾った反応の方角は、ほぼ一致していた。
「同じ場所に向かっている」
「そう見えます。私はもう一度、宇宙へ出ます。地上の調査と並走する形で。——飛行艇を一機、お貸しします。操縦と通信の管理に、エリオをつけます」
「ありがたい」
「お礼はいりません。こちらも情報が欲しいので」
出発の前々日、リラは装備庫の前を通りかかった。
扉が開いていて、中にカイとヴェルナがいた。飛行艇に積む装備の選定をしているらしかった。
「東側は」
「三番」
「予備は」
「積んだ」
「ニエルたちは」
「先週、全員と連絡がついた。アウレアの残りも無事だ」
「そうか」
「なら、いい」
それだけだった。単語しか飛んでいないのに二人の手は一度も止まらず、選ばれた装備が次々と箱に収まっていく。省略しても伝わる会話だった。何年もかけて削り出された、二人だけの言葉の形だった。
リラは、足を止めた自分に気づいた。
胸の奥で、呼吸が半拍だけ遅れた。渓谷の街道でティアが「ヴェルナ」の名を出した、あの時と同じ遅れだった。痛いわけではない。ただ、あの二人の間にある時間の厚みが、廊下からでも見えた。
(私とカイの間には、まだ、あの厚みがない)
「妬いてるの?」
耳元で声がした。ティアだった。いつの間にか肩に乗っていた。
「や、妬いてなんか——」
「ふうん」ティアは羽を揺らした。「リラの色、いま、ちょっとだけ焦げてた」
「焦げてないわ」
「焦げてた。……でもね、リラ」
ティアは装備庫の中を顎で示した。
「カイの色、ヴェルナといる時は変わらないよ。ずっと同じ。——変わるのは、リラといる時だけ」
リラは、何も言えなかった。
ティアはそれだけ言って飛んでいった。フェアリーの興味は、長く一つ所に留まらない。
リラは廊下に立ったまま、もう一度装備庫を見た。単語だけの会話が、まだ続いていた。
(並ぶのよ。あの厚みには、これから積む時間で)
いつかの夜に机の上に置いた自分の言葉のままの答えを、リラはもう一度置き直した。
出発の前日、リラはナイラの私室に挨拶に行った。
「東に行きます。本が示した場所に」
ナイラは窓の外を見た。夕方の光の中で、街の人々が動いていた。
「リラ。あなたが感じたことは、だいたい正しかった。今まで。——今回も、たぶん正しい」
ナイラが「たぶん」と言う時、それは最大限の肯定だとリラは知っていた。
「戻ってきなさい」
「はい」
廊下でヴェルナが待っていた。リラを一度だけ上から下まで見た。装備の確認をするような目だった。
「カイの隣で、ちゃんと動けるか」
「動けます」
「そうか」
それで終わるはずだった。だがヴェルナは行きかけて、足を止めた。書類の束に目を落としたまま、事務的な声で付け加えた。
「あいつとは十年、組んでいる。命令と報告だけで済む相手だ。楽でいい。——だがその十年で一度も、あいつは私に『地図』の話をしたことがない」
リラは、息を止めた。
「お前の前でだけ、あいつは減らず口を叩く。私に言わせれば、あれは奇跡に近い。……壊すなよ」
ヴェルナは返事を待たずに歩き出した。事務的な足音が、廊下の先に消えていく。リラはしばらく動けなかった。
「壊すなよ」——それは、リラが今まで聞いたヴェルナの言葉の中で、一番温かい種類のものだった。
* * *
夜、リラは一人で荷物をまとめた。
本が三冊。ヴェルダ国の図書館で借り受けた音響理論の一冊と、王都の書庫から選んだ一冊。それに、ナイラが「必要だと思ったら、使いなさい」と渡してくれた一冊。そして——数には入れない、あの緑の本。四冊をカバンに入れ、重さを確かめた。
三冊と決めた理由は自分でもよく分からなかった。二冊では足りず、四冊では多い——そんな気がしたというだけだ。カバンの底で、緑の本の温度がそれでいいと言っている気がした。
怖いか、と自分に聞いた。少し怖い、と答えが来た。でも怖さの中に、名前のうまくつかない別の何かも、混じっていた。
ペンを取り、紙に一行だけ書いた。
『物語は、どこにある?』
書いてから、少し照れた。でも消さなかった。折って、カバンの内側のポケットに入れた。
扉をノックする音がした。カイだった。部屋を見て、荷物がまとまっているのを確認した。
「準備できてるな」
「ええ」
カイは部屋の隅に立ったまま、窓の外を見た。しばらく黙っていた。リラも窓の外を見た。
「カイ。怖い?」
カイの肩が、わずかに下がった。
「……少し」
リラは少し驚いた。カイが「怖い」と言うのは、珍しかった。
「私も」
「そうか」
虫の声がしていた。星が出ていた。カイが窓から離れた。
「明日、早い。じゃあな」
扉が閉まった。リラは閉まった扉を見た。
(カイが「怖い」と言った)
それがなぜか、一番の安心になった。怖さを、共有できるということが。
* * *
朝、飛行艇は東へ発った。カイ、リラ、ティア、操縦席にエリオ。
草原が地平線まで続いていた。果てがない感じがした。怖いというより、静かだった。ティアはカイの肩で本当に眠っていた。
「エリオさん。シオン提督は、怖くないんでしょうか。宇宙に出ることが」
エリオは少し考えてから答えた。
「怖いかどうかは、あまり顔に出ない人なので。——ただ、今朝、出発前にハーブの茶を淹れたんですが、提督が自分で砂糖を入れていました。いつもは入れない人なのに」
リラは少し笑った。カイも少し口元が動いた。
その夜、飛行艇は草原の縁に降りて、灯りを落とした。
エリオは操縦席で仮眠を取り、ティアは計器の上で丸くなった。リラは眠れなくて、艇の外に出た。カイが先にいた。翼の下の草の上に座って、空を見ていた。
「眠れないのか」
「うん。……隣、いい?」
カイは答えなかった。答えない時は、いい、という意味だった。リラは隣に座った。草が鳴った。
星が多かった。王都よりも、翠野よりも。二つの世界の星が、遮るもののない空いっぱいに混じっていた。
「ねえ。エルド・ラインの星座って、どんなの」
「……戦いの名前ばかりだ。剣、盾、砲。名づけたやつの気が知れん」
「じゃあ、あれは?」リラは適当な三つの星を指した。
カイはしばらくその星を見た。それから、真顔で言った。
「……根菜スープ座だな」
リラは吹き出した。声を殺して、肩を震わせて笑った。カイは前を向いたままだったが、その横顔は、笑いを噛み殺した形をしていた。夕立の軒下と、同じ形だった。
「明日、着くのよね」
「ああ」
「怖さ、まだある?」
「ある。……お前がいるから、半分だけどな」
さらりと言われて、リラの方が黙る番だった。カイは気づいていない顔で星を見ていた。この人の一番ずるいところだ、とリラは思った。狙って言う台詞は下手なくせに、狙わない一言が、いちばん深いところに落ちてくる。
「……戻って、寝ましょう。明日に障るわ」
「ああ」
立ち上がる時、カイの手が先に出た。リラはその手を借りて立った。借りた手は、立ち上がると同時に、当たり前のように離れた。——見張り台の夜と、同じだった。同じであることが、今夜は少しだけ、惜しかった。
二日目の昼、地図に載っていない森が見えた。飛行艇が高度を下げ、木の梢が窓の下を流れた。湿って、古くて、何百年分かの時間が染み込んでいるような匂いがした。
(ここは、特別な場所だ)
本からではなかった。空気から来た。
目を覚ましたティアが、窓の外を見て言った。
「きれいな森だね。でも中に入りたくない感じがする。——入ったら出てこられない感じ。悪い意味じゃなくて。ずっといたくなっちゃう感じ」
リラは伝承の一節を思い出した。『戻らなかったのではなく、戻る必要がなくなったのだ』。
「ティア、鋭いわね」
森が終わり、夕方の光の中に、宿場町が見えた。
* * *
宿の前に、アルヴィとブラートが立っていた。
「遅かったな」とブラートが言った。
「三日で来た」とカイが言った。
「俺たちは五日かかった」
「足の問題だろ」
ブラートは笑った。理由のない笑い方だった。
食堂のスープは熱かった。根菜のスープだった。リラは一口飲んで、翠野農場のことを思った。エルマのスープとは違う。でも同じ種類の温かさがあった。
アルヴィが話した。
「あなたの名指した谷へ、先に行ってきました。歪みの残滓が、一点に向かって流れていた。東の境界。あなたが指したのと、同じ方角です。——本の通りでした」
「縫い目です」とリラが言った。
「別の層への入口です」とアルヴィ。「流れの先に何かあるのは感じる。でも谷からでは、入口だけしか見えなかった」
アルヴィは少し間を置き、窓の外の星を見た。
「一つ、確認させてください。そこへ行くことを、全員が決めていますか」
カイが言った。「行く」。ティアが言った。「行く」。エリオが言った。「提督の命令で来ています。行きます」。
リラは、膝の上で指を組んだ。
「行かないといけない気がします。最初からずっと」
アルヴィは全員を見て、頷いた。ブラートが椀を置いた。「明日の朝、出発でいいか」「いい」。
食堂に、スープの匂いが満ちていた。リラはカバンに手を当てた。緑の本の温かさが、また来た。今度は——落ち着いていた。まるで、たどり着いた、と言っているように。




