緑の本
朝、リラは書庫にいた。
夜の間に落ち着いた紙の匂いと、朝の光が窓から差し込んで埃を照らす、この時間が好きだった。本棚の前を歩く。指先で背表紙を一冊ずつ触れていく。感じる。それぞれの温度が来る。古い本ほど、長い時間の重さが来る。子供の頃に読んで泣いた誰かの記憶が、指先に滲んでくる。
この感覚は、あの戦いの後から変わった。開かなくても、触れるだけで来る。
「おはようございます」
振り返ると、ナイラ女王が書庫の入口に立っていた。
「参謀の仕事は、昨日で一段落しました。今日からは少し、自分のことをする時間を作りなさい。——書いているのでしょう。昨夜も遅くまで灯りがついていた」
リラは少し照れた。
「うまくいっているわけでは」
「うまくいく必要はありません」
しばらく、二人は並んで本棚を見ていた。朝の光が、埃を照らしていた。それからナイラが、前を向いたまま「最近、よく眠れていますか」と聞いた。「……はい。だいたいは」。それ以上は、聞かれなかった。
ナイラは本棚から一冊抜いた。薄い詩集だった。リラが知らない本だった。開かずに、ただ手の中に持ったまま、窓の外を見た。
その横顔を、リラは少しだけ見た。女王も、眠れない夜があるのかもしれない、と思った。聞かなかった。
カイがこの世界に着いたのは、その同じ朝だった。
エルド・ラインとこの世界を繋ぐ転移の術式は、ヴェルナとアルヴィが共同で安定させた。使えるのは特定の場所と時間帯だけで、行き来のたびに体へ少し負荷がかかる。カイは気にしない。着くと、いつも少しだけ空気の違いを感じる。エルド・ラインより湿っていて、土の匂いが濃い。金属の匂いがない。最初の頃は気になったが、今はむしろこの匂いの方が、肩の力が抜ける。
書庫の前で、出てくるナイラとすれ違った。
「カイ、来ていたんですね」
「今朝着きました」
「リラは中にいます」
ナイラは薄い詩集を手に持ったまま、別の方向へ歩いていった。
書庫の奥に、リラがいた。本棚の前に立って、背表紙に指を当てたまま、動いていない。何かを感じ取っている時の、あの立ち方だった。カイは声をかけず、入口の近くで待った。三十秒ほどで、リラが振り返った。
「カイ。いつ来たの」
「今朝」
「朝ごはん、食べた?」
「まだだ」
「じゃあ行きましょう。市場でパンを買ってきたの。ハムもある」
二人は書庫を出た。朝の光の中を、並んで歩いた。特に何も言わなかった。言わなくてよかった。
市場の外れの石段に座って、パンを分けた。カイは黙って食べた。二つに割る時、大きい方を当たり前のようにリラへ寄越した。本人は気づいてもいない顔だった。
(この人は、こういうことを、数に入れない)
リラはパンを齧りながら、胸の中の棚をそっと確かめた。あの夜に見つけた名前は、まだそこにあった。恋、という短い言葉。誰にも見せていない。カイにも。急ぐことはなかった。名前は逃げない。読んできた本たちが、そう教えてくれていた。
「なに笑ってる」
「べつに。パンがおいしいなって」
「……そうか」
カイは疑わしそうな顔をして、それ以上は聞かなかった。朝の市場の音が、二人の周りで続いていた。
* * *
その本に気づいたのは、午後のことだった。
リラは一人で、王都の外れの古書店にいた。店主の老人はいつも奥の椅子で居眠りをしている。この店が好きなのは、誰も話しかけてこないからでもある。
棚の端に、見慣れない本があった。
差し込まれたような置き方だった。深い緑色の装丁。文字が入っているが、読めない。どこの言語でもなかった。
手を伸ばした。触れた瞬間、指の先から肘まで、電気が走るような感触があった。痛くはなかった。むしろ——温かかった。言語になる前の何かが来た。感情だけが、温度だけが来た。でもその温度は、今まで感じてきたどの本とも違った。古い本の持つ時間の重さでも、書いた人間の体温でもない。もっと——根本的な何かだった。言葉にしようとすると逃げる。
開こうとした。ページが、動かなかった。開く気がない、とでも言うように。
値段を聞くと、老人は目を開けずに「それは売り物じゃない」と言った。「そんな本、仕入れた覚えがない」とも。結局、老人はリラに本を持っていくよう言った。
「どうせ誰かに届くべき本が、届いただけだろ」
夕方の光の中で、リラはもう一度表紙を見た。胸の奥に、何かが静かに灯った気がした。
* * *
三日目の夜、リラはカイにその本を見せた。
縁側だった。カイは星を見ていた。エルド・ラインでは見ない習慣だ、とリラは思っている。聞いたことはないけれど。
カイは受け取って、ページをめくろうとした。動かなかった。表紙に手を当てた。一秒。二秒。
「……何も感じない。ただの本だ」
それから一拍置いて、リラを見た。
「お前が感じるなら、そうなんだろう」
リラはその言葉を、胸の奥にしまった。
「お前はどう感じた。触れた時」
「温かかった。でも人間の本の温かさじゃなかった。もっと——根っこみたいな感じ。言葉にしようとすると逃げる」
「逃げるなら、追いかけなくていい。来る時が来たら来る」
カイらしい言い方だと思った。でも間違っていない、とも思った。二人は並んで星を見た。虫の声がしていた。本が膝の上にあった。
* * *
翌朝から、リラは本を書庫に持ち込み、他の本と並べて交互に触れた。一時間ほどして、かすかに来た。温度ではなかった。方向だった。東、という感覚。
地理書を開き、伝承の本を繰った。一節が目に留まった。
『——東の境界に、かつて世界の縫い目があったという。世界がまだ一つの形をしていた頃の、最後の継ぎ目。近づいた者は戻らなかった、という伝説があるためだ。ただし一説には、戻らなかったのではなく、戻る必要がなくなったのだ、とも言われている』
本に触れた。あの温かさが、今度は少し強く来た。
(ここだ)
数日のうちに、ナイラがリラを呼んだ。机の上に東半分の地図が広げてあった。東の端は白いままだった。
「あの僧のことだけど。一人ではなかったのね」
「あの作法を、誰かが伝えた。伝えた人たちが、まだどこかにいます。——教団があります。東のロアスの谷。境界の手前です」
リラは地図の白い場所に、指を置いた。何もない場所だった。でも指は迷わなかった。それから、顔を上げた。
「原典には、そう書いてありました。でも——本に書いてあることと、現実が同じとは限りません。それは、もう知っています」
ナイラは微笑まなかった。真面目な顔のまま頷いた。
「確かめに行く理由には、十分よ」
それまで黙っていたアルヴィが、口を開いた。
「方向は、合っている。層を読むと、歪みは東から来ている。——ただ、一つ。歪みは、その谷で終わっていない。もっと先まで続いている。何があるかは、感じない」
「シオンの艦も、東に反応を拾っているそうよ」とナイラが言い添えた。宇宙へのテスト航行を終えたばかりの艦隊が、かすかな、でも消えない反応を、同じ方角に拾っていた。
三つが、同じ方を向いていた。リラの言葉。アルヴィの感触。シオンの計器。
カイは壁に背を預けて聞いていた。何も言わなかった。ただ、一度だけリラを見た。任せる、という目だった。
散会の間際、アルヴィがリラの抱えた緑の本を少しだけ長く見た。
「その装丁——ジャコールの手記に写しの図があった。『理の側から届く本』と注が振ってあった。それ以上のことは書かれていなかったけれど」
言い残して、アルヴィは先に部屋を出た。
行く先が、決まった。




