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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第三章 奥の部屋で待つもの

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第九十九話 長い雨のあと

外で飲む紅茶は、少し冷めるのが早かった。


リゼットはそれを、最初に知った。


満願堂の中では、厚い木の壁と古書の匂いが湯気を抱いてくれる。カウンターの奥では火が近く、カップも温めておける。窓際の席でも、紅茶はゆっくり冷める。


けれど、月環橋の手前の広場では、朝の風が湯気をすぐにさらっていった。


リゼットはカップを両手で包んだ。


熱が逃げていく。


それが少し寂しく、少し面白かった。


「冷めるのが早いですね」


リゼットが言うと、エリアスは本から顔を上げた。


「外だからかしら」


「ええ」


「では、早く飲めばいいのね」


エリアスはそう言って、いつもより少しだけ早く紅茶を飲んだ。


その様子が珍しくて、リゼットは小さく笑った。


エリアスも気づいたのか、カップを持ったまま首を傾ける。


「変?」


「いいえ」


リゼットは首を横へ振った。


「新鮮です」


「私が?」


「はい」


エリアスは少し考え、静かに笑った。


「変わらない私にも、新鮮なところがあったのね」


モルは草の上で転がっていた。


長い白い毛に小さな草の葉がついている。本人は気にしていない。時々、鼻をひくつかせては、土や草や朝露の匂いを確かめている。


「モル、汚れますよ」


「草のにおい」


「あとで払います」


「払う」


モルは満足そうに目を細めた。


リゼットはその姿を見て、満願堂の床の上ではないモルを初めてきちんと見た気がした。


モルは満願堂にいるものだと思っていた。カウンターの上、奥の棚の前、黒鉄の扉の近く、受け取り印の横。けれど、草の上でもモルはモルだった。


リゼットも、そうなのかもしれない。


満願堂の中にいなくても、リゼットはリゼットでいられるのかもしれない。


そう思うことは、まだ少し怖かった。


けれど、怖いから悪いわけではない。


願いは、怖いから悪いのではない。優しいから安全なのでもない。サヴィルの杯を納めた時、自分でそう思ったことがある。


なら、自分の願いも同じだ。


探すことは怖い。


でも、怖いから間違いとは限らない。


エリアスは詩集を読んでいた。


声に出して読むわけではない。ただ、目で文字を追っている。時々、頁をめくる。その音は満願堂の中で聞く音と同じだった。紙が少し乾いた音を立てる。


違う場所でも、同じ音がある。


リゼットは紅茶を飲んだ。


少し冷めている。けれど、味は分かった。茶葉の香り。かすかな渋み。外の空気が混ざった軽さ。


客のために淹れた紅茶ではない。


願いを聞く前に差し出すための紅茶でもない。


リゼットが、自分の手で、自分のために注いだ紅茶だった。


それを飲むだけのことが、どうしてこんなに難しかったのか。


リゼットはカップの中を見つめた。


長い間、自分は満願堂にいるのだと思っていた。


満願堂を開ける。客を迎える。願いを聞く。願具を渡す。返りを説明する。納め物を受け取る。奥の棚へ置く。奥の部屋へ案内する。仕上がった願いを納める。


それが自分だった。


間違いではない。


けれど、それだけではなかった。


「リゼットさん」


エリアスが静かに呼んだ。


「はい」


「今日は、何を探しているの?」


リゼットは答えに迷った。


自分の行き着く場所。


そう書いた。けれど、それがどこなのかは分からない。遠い街かもしれない。満願堂の外の小さな広場かもしれない。誰かの言葉の中かもしれない。紅茶を自分のために注ぐ時間の中かもしれない。


「まだ、分かりません」


リゼットは正直に答えた。


「そう」


エリアスは頷いた。


「探す日は、見つける日ではないのね」


その言葉に、リゼットは少しだけ息を止めた。


探す日。


見つける日ではない。


たしかに、そうだった。


今日すべてが解決するわけではない。自分の行き着く場所が、突然目の前に現れるわけではない。返りで失ったものが戻るわけでもない。


ただ、探す時間を持つ。


それだけでよかったのだ。


「ありがとうございます」


リゼットが言うと、エリアスは不思議そうに首を傾けた。


「何に?」


「分かりません」


「そう」


エリアスは少し笑った。


「分からないことが多い日ね」


「ええ」


リゼットも笑った。


「ですが、悪くありません」


広場の向こうを、馬車が一台通った。


遠くで逓便局の鐘が鳴る。今頃、ココは耳を立てて荷物を仕分けているだろう。ロイは伝票を確認しているだろう。ヴェルナーは預かり棚の鍵を確かめているかもしれない。オルスは作業場で、また何かを直すべきか、納めるべきか考えているかもしれない。


満願堂は閉まっている。


けれど、街は動いている。


願いは、どこかで生まれている。


そのすべてを、今日のリゼットが受け取る必要はない。


モルが草の上から顔を上げた。


「リゼット」


「はい」


「におい、軽い」


「私の?」


「うん。ちょっと」


モルは前足についた草を振った。


「まだ、ないものある。でも、軽い」


リゼットは胸に手を当てた。


ないものはある。


行き先は、まだ分からない。


けれど、少し軽い。


それで十分だった。


昼近くになると、広場に人が増えてきた。


リゼットは片づけを始めた。カップを布で包み、詩集をしまう。モルの毛についた草を払うと、モルはくすぐったそうに身をよじった。


「また、来る?」


モルが聞く。


「ええ」


リゼットは答えた。


「いつか」


「明日?」


「明日は、満願堂を開けます」


「その次?」


リゼットは少し考えた。


「その次は、その日の願いを見てから」


モルは満足そうに頷いた。


エリアスは立ち上がり、広場から満願堂の方を見た。


「遠くなかったわね」


「はい」


「でも、少し違ったわ」


「ええ」


「また違っても、いいかもしれないわ」


その言葉は、エリアスにとっては大きな言葉だった。


リゼットは静かに頷いた。


帰り道、満願堂の扉にはまだ休店札が掛かっていた。


閉じたティーカップ。月環。小さな鍵。


通りがかった子どもがそれを見て言った。


「今日はお店、眠ってるの?」


母親が笑った。


「そうみたいね。明日また来ましょう」


リゼットはその声を聞いて、立ち止まった。


店が眠っている。


その言い方は、悪くなかった。


長い雨が上がったような朝は、特別な奇跡ではなかった。


ただ、閉まった扉の前で、明日を待つ人がいる。


そしてリゼットは、明日また開けることができる。


それで、よかった。


紅茶を飲み終えた後も、三人はしばらく広場にいた。


何かをするわけではない。


エリアスは本を読む。モルは草の匂いを嗅ぐ。リゼットは空を見上げる。


空は晴れていた。


雲は薄く、月環街の屋根の向こうへゆっくり流れていく。ニナが晴れを借りる人形を納めた日のことを、リゼットはふと思い出した。雨を後ろへ送った少女。戻ってきた雨を待った少女。雨の日には雨の日の飾り方があると知った少女。


長い雨が上がるとは、雨が消えることではない。


降るべき雨が降り、濡れたものが乾き、また空を見る時間が来ることだ。


リゼットの返りも、消えたわけではない。


自分の行き着く場所が、突然戻ったわけではない。胸の中にはまだ空白がある。モルが言った「ないもの」は、まだある。


けれど、その空白をただ怖がるだけではなくなった。


そこに地図を書けるかもしれない。すぐには読めなくても、白紙のまま持ち歩けるかもしれない。


「リゼットさん」


エリアスが本から顔を上げた。


「はい」


「今日、見つかりましたか」


「いいえ」


リゼットは微笑んだ。


「まだです」


「そう」


エリアスは頷いた。


「では、また探す日が必要ね」


その言葉を聞いて、リゼットは不思議と困らなかった。


また探す日。


一度だけの特別な休店ではなく、これからも時々持てる時間。


満願堂は、そのための札を得た。


逓便局は預かる手順を得た。


モルは店番を覚えた。


エリアスは外で紅茶を飲む朝を知った。


ロイは言葉をくれた。


ココは控えを書いた。


オルスは留め具を作った。


ロザは満願堂の外で、誰かの願いを少し待たせた。


リゼットの願いは、満願堂の中だけに閉じていない。


そのことを、今日の光が教えてくれた。


帰る前に、リゼットは広場の長椅子を振り返った。


そこにはもう何もない。けれど、ほんの少しだけ紅茶の香りが残っている気がした。


満願堂ではない場所に、満願堂の紅茶の跡がある。


それは、長い雨のあとに残る水たまりのようだった。


昼を過ぎる頃、リゼットはふと、満願堂に戻らない時間を持っていることに気づいた。


普段なら、この時間にはカウンターの中にいる。昼の紅茶を淹れ、午後の客のために焼き菓子を足し、表の棚を整える。ココが普通便を届けに来ることもある。ロイが少し硬い声で挨拶をすることもある。


今日は、そのどれもしていない。


それなのに、胸の奥で何かが崩れることはなかった。


少し不安はある。店の床に埃が落ちていないか、奥の棚の黒布がずれていないか、誰かが扉の前で困っていないか。考えればきりがない。


けれど、その不安は昨日までのように全身を動かす命令にはならなかった。


不安があるまま座っていられる。


それもまた、リゼットには新しいことだった。


「リゼットさん」


エリアスが本を閉じた。


「はい」


「満願堂に戻りたい?」


リゼットは正直に考えた。


戻りたい。もちろん戻りたい。満願堂は自分の場所だ。紅茶の香りも、古書の音も、扉の鈴も、そこにある。


けれど、今すぐ戻らなければならないとは思わなかった。


「戻りたいです」


リゼットは言った。


「ですが、今すぐでなくてもよいようです」


エリアスは頷いた。


「それは、よいことね」


「はい」


リゼットは少し笑った。


「たぶん、とても」


やがて乾く。


でも、そこに雨が降ったことは、なかったことにはならない。


リゼットは布包みを抱え直した。


「帰りましょうか」


「ええ」


エリアスは本を閉じる。


モルが先に歩き出す。


満願堂へ帰る道は、行きと同じだった。


けれど、同じ道ではないように思えた。


帰る途中、リゼットは一度だけ足を止めた。


満願堂の扉が見える角だった。休店札はまだ掛かっている。そこには、朝と同じ印が静かに揺れていた。


閉じたティーカップ。月環。小さな鍵。


不思議なことに、朝よりも少し満願堂らしく見えた。


一日使われただけで、札は通りの空気を吸い、人の視線を受け、待つ言葉をいくつか集めたのだろう。誰かが明日来ようと思い、誰かが不思議そうに首を傾げ、誰かが少しだけ残念に思った。その全部が、札の木目に薄く残っている気がした。


リゼットは札に触れなかった。


まだ今日が終わるまでは、掛けておきたいと思った。


探す日が、途中で店へ戻ってしまわないように。


エリアスも札を見た。


「いい札ね」


「はい」


「閉まっているのに、明日があるわ」


リゼットは頷いた。


それは、満願堂がこれから覚えていく新しい性質だった。


閉じることの中に、明日を置くこと。


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