第九十九話 長い雨のあと
外で飲む紅茶は、少し冷めるのが早かった。
リゼットはそれを、最初に知った。
満願堂の中では、厚い木の壁と古書の匂いが湯気を抱いてくれる。カウンターの奥では火が近く、カップも温めておける。窓際の席でも、紅茶はゆっくり冷める。
けれど、月環橋の手前の広場では、朝の風が湯気をすぐにさらっていった。
リゼットはカップを両手で包んだ。
熱が逃げていく。
それが少し寂しく、少し面白かった。
「冷めるのが早いですね」
リゼットが言うと、エリアスは本から顔を上げた。
「外だからかしら」
「ええ」
「では、早く飲めばいいのね」
エリアスはそう言って、いつもより少しだけ早く紅茶を飲んだ。
その様子が珍しくて、リゼットは小さく笑った。
エリアスも気づいたのか、カップを持ったまま首を傾ける。
「変?」
「いいえ」
リゼットは首を横へ振った。
「新鮮です」
「私が?」
「はい」
エリアスは少し考え、静かに笑った。
「変わらない私にも、新鮮なところがあったのね」
モルは草の上で転がっていた。
長い白い毛に小さな草の葉がついている。本人は気にしていない。時々、鼻をひくつかせては、土や草や朝露の匂いを確かめている。
「モル、汚れますよ」
「草のにおい」
「あとで払います」
「払う」
モルは満足そうに目を細めた。
リゼットはその姿を見て、満願堂の床の上ではないモルを初めてきちんと見た気がした。
モルは満願堂にいるものだと思っていた。カウンターの上、奥の棚の前、黒鉄の扉の近く、受け取り印の横。けれど、草の上でもモルはモルだった。
リゼットも、そうなのかもしれない。
満願堂の中にいなくても、リゼットはリゼットでいられるのかもしれない。
そう思うことは、まだ少し怖かった。
けれど、怖いから悪いわけではない。
願いは、怖いから悪いのではない。優しいから安全なのでもない。サヴィルの杯を納めた時、自分でそう思ったことがある。
なら、自分の願いも同じだ。
探すことは怖い。
でも、怖いから間違いとは限らない。
エリアスは詩集を読んでいた。
声に出して読むわけではない。ただ、目で文字を追っている。時々、頁をめくる。その音は満願堂の中で聞く音と同じだった。紙が少し乾いた音を立てる。
違う場所でも、同じ音がある。
リゼットは紅茶を飲んだ。
少し冷めている。けれど、味は分かった。茶葉の香り。かすかな渋み。外の空気が混ざった軽さ。
客のために淹れた紅茶ではない。
願いを聞く前に差し出すための紅茶でもない。
リゼットが、自分の手で、自分のために注いだ紅茶だった。
それを飲むだけのことが、どうしてこんなに難しかったのか。
リゼットはカップの中を見つめた。
長い間、自分は満願堂にいるのだと思っていた。
満願堂を開ける。客を迎える。願いを聞く。願具を渡す。返りを説明する。納め物を受け取る。奥の棚へ置く。奥の部屋へ案内する。仕上がった願いを納める。
それが自分だった。
間違いではない。
けれど、それだけではなかった。
「リゼットさん」
エリアスが静かに呼んだ。
「はい」
「今日は、何を探しているの?」
リゼットは答えに迷った。
自分の行き着く場所。
そう書いた。けれど、それがどこなのかは分からない。遠い街かもしれない。満願堂の外の小さな広場かもしれない。誰かの言葉の中かもしれない。紅茶を自分のために注ぐ時間の中かもしれない。
「まだ、分かりません」
リゼットは正直に答えた。
「そう」
エリアスは頷いた。
「探す日は、見つける日ではないのね」
その言葉に、リゼットは少しだけ息を止めた。
探す日。
見つける日ではない。
たしかに、そうだった。
今日すべてが解決するわけではない。自分の行き着く場所が、突然目の前に現れるわけではない。返りで失ったものが戻るわけでもない。
ただ、探す時間を持つ。
それだけでよかったのだ。
「ありがとうございます」
リゼットが言うと、エリアスは不思議そうに首を傾けた。
「何に?」
「分かりません」
「そう」
エリアスは少し笑った。
「分からないことが多い日ね」
「ええ」
リゼットも笑った。
「ですが、悪くありません」
広場の向こうを、馬車が一台通った。
遠くで逓便局の鐘が鳴る。今頃、ココは耳を立てて荷物を仕分けているだろう。ロイは伝票を確認しているだろう。ヴェルナーは預かり棚の鍵を確かめているかもしれない。オルスは作業場で、また何かを直すべきか、納めるべきか考えているかもしれない。
満願堂は閉まっている。
けれど、街は動いている。
願いは、どこかで生まれている。
そのすべてを、今日のリゼットが受け取る必要はない。
モルが草の上から顔を上げた。
「リゼット」
「はい」
「におい、軽い」
「私の?」
「うん。ちょっと」
モルは前足についた草を振った。
「まだ、ないものある。でも、軽い」
リゼットは胸に手を当てた。
ないものはある。
行き先は、まだ分からない。
けれど、少し軽い。
それで十分だった。
昼近くになると、広場に人が増えてきた。
リゼットは片づけを始めた。カップを布で包み、詩集をしまう。モルの毛についた草を払うと、モルはくすぐったそうに身をよじった。
「また、来る?」
モルが聞く。
「ええ」
リゼットは答えた。
「いつか」
「明日?」
「明日は、満願堂を開けます」
「その次?」
リゼットは少し考えた。
「その次は、その日の願いを見てから」
モルは満足そうに頷いた。
エリアスは立ち上がり、広場から満願堂の方を見た。
「遠くなかったわね」
「はい」
「でも、少し違ったわ」
「ええ」
「また違っても、いいかもしれないわ」
その言葉は、エリアスにとっては大きな言葉だった。
リゼットは静かに頷いた。
帰り道、満願堂の扉にはまだ休店札が掛かっていた。
閉じたティーカップ。月環。小さな鍵。
通りがかった子どもがそれを見て言った。
「今日はお店、眠ってるの?」
母親が笑った。
「そうみたいね。明日また来ましょう」
リゼットはその声を聞いて、立ち止まった。
店が眠っている。
その言い方は、悪くなかった。
長い雨が上がったような朝は、特別な奇跡ではなかった。
ただ、閉まった扉の前で、明日を待つ人がいる。
そしてリゼットは、明日また開けることができる。
それで、よかった。
紅茶を飲み終えた後も、三人はしばらく広場にいた。
何かをするわけではない。
エリアスは本を読む。モルは草の匂いを嗅ぐ。リゼットは空を見上げる。
空は晴れていた。
雲は薄く、月環街の屋根の向こうへゆっくり流れていく。ニナが晴れを借りる人形を納めた日のことを、リゼットはふと思い出した。雨を後ろへ送った少女。戻ってきた雨を待った少女。雨の日には雨の日の飾り方があると知った少女。
長い雨が上がるとは、雨が消えることではない。
降るべき雨が降り、濡れたものが乾き、また空を見る時間が来ることだ。
リゼットの返りも、消えたわけではない。
自分の行き着く場所が、突然戻ったわけではない。胸の中にはまだ空白がある。モルが言った「ないもの」は、まだある。
けれど、その空白をただ怖がるだけではなくなった。
そこに地図を書けるかもしれない。すぐには読めなくても、白紙のまま持ち歩けるかもしれない。
「リゼットさん」
エリアスが本から顔を上げた。
「はい」
「今日、見つかりましたか」
「いいえ」
リゼットは微笑んだ。
「まだです」
「そう」
エリアスは頷いた。
「では、また探す日が必要ね」
その言葉を聞いて、リゼットは不思議と困らなかった。
また探す日。
一度だけの特別な休店ではなく、これからも時々持てる時間。
満願堂は、そのための札を得た。
逓便局は預かる手順を得た。
モルは店番を覚えた。
エリアスは外で紅茶を飲む朝を知った。
ロイは言葉をくれた。
ココは控えを書いた。
オルスは留め具を作った。
ロザは満願堂の外で、誰かの願いを少し待たせた。
リゼットの願いは、満願堂の中だけに閉じていない。
そのことを、今日の光が教えてくれた。
帰る前に、リゼットは広場の長椅子を振り返った。
そこにはもう何もない。けれど、ほんの少しだけ紅茶の香りが残っている気がした。
満願堂ではない場所に、満願堂の紅茶の跡がある。
それは、長い雨のあとに残る水たまりのようだった。
昼を過ぎる頃、リゼットはふと、満願堂に戻らない時間を持っていることに気づいた。
普段なら、この時間にはカウンターの中にいる。昼の紅茶を淹れ、午後の客のために焼き菓子を足し、表の棚を整える。ココが普通便を届けに来ることもある。ロイが少し硬い声で挨拶をすることもある。
今日は、そのどれもしていない。
それなのに、胸の奥で何かが崩れることはなかった。
少し不安はある。店の床に埃が落ちていないか、奥の棚の黒布がずれていないか、誰かが扉の前で困っていないか。考えればきりがない。
けれど、その不安は昨日までのように全身を動かす命令にはならなかった。
不安があるまま座っていられる。
それもまた、リゼットには新しいことだった。
「リゼットさん」
エリアスが本を閉じた。
「はい」
「満願堂に戻りたい?」
リゼットは正直に考えた。
戻りたい。もちろん戻りたい。満願堂は自分の場所だ。紅茶の香りも、古書の音も、扉の鈴も、そこにある。
けれど、今すぐ戻らなければならないとは思わなかった。
「戻りたいです」
リゼットは言った。
「ですが、今すぐでなくてもよいようです」
エリアスは頷いた。
「それは、よいことね」
「はい」
リゼットは少し笑った。
「たぶん、とても」
やがて乾く。
でも、そこに雨が降ったことは、なかったことにはならない。
リゼットは布包みを抱え直した。
「帰りましょうか」
「ええ」
エリアスは本を閉じる。
モルが先に歩き出す。
満願堂へ帰る道は、行きと同じだった。
けれど、同じ道ではないように思えた。
帰る途中、リゼットは一度だけ足を止めた。
満願堂の扉が見える角だった。休店札はまだ掛かっている。そこには、朝と同じ印が静かに揺れていた。
閉じたティーカップ。月環。小さな鍵。
不思議なことに、朝よりも少し満願堂らしく見えた。
一日使われただけで、札は通りの空気を吸い、人の視線を受け、待つ言葉をいくつか集めたのだろう。誰かが明日来ようと思い、誰かが不思議そうに首を傾げ、誰かが少しだけ残念に思った。その全部が、札の木目に薄く残っている気がした。
リゼットは札に触れなかった。
まだ今日が終わるまでは、掛けておきたいと思った。
探す日が、途中で店へ戻ってしまわないように。
エリアスも札を見た。
「いい札ね」
「はい」
「閉まっているのに、明日があるわ」
リゼットは頷いた。
それは、満願堂がこれから覚えていく新しい性質だった。
閉じることの中に、明日を置くこと。




