↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第三章 奥の部屋で待つもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

98/100

第九十八話 いつもの席ではない朝

朝の満願堂は、いつも紅茶の香りから始まる。


けれどその朝、リゼットは最初の一杯を客席へ出さなかった。


湯を沸かし、茶葉を量り、いつものように紅茶を淹れる。カップも用意する。白い詩集も、布の包みに入れる。小さな焼き菓子もいくつか詰める。


ただ、扉の札を返さない。


開店の札ではなく、カウンターの上に置かれた新しい札を手に取る。


閉じたティーカップ。月環。小さな鍵。


探す日の札。


モルは足元で見上げていた。


「リゼット」


「はい」


「今?」


「はい」


リゼットは扉の前に立った。


外はまだ朝の光が浅い。石畳には夜の湿り気が少し残り、向かいの古書店はまだ戸を開けていない。月環街の一日は始まりかけているが、満願堂の前だけは少し静かだった。


リゼットは留め具に札を掛けた。


小さな金具が、かすかに鳴る。


それだけだった。


派手な光も、扉の震えも、願具が一斉に息をするような音もない。ただ、札が掛かった。


満願堂は閉まった。


リゼットは手を離した後も、しばらく札を見ていた。


「閉まりました」


自分に言うように呟く。


モルが隣で胸を張る。


「探す日」


「ええ」


「でも、リゼット、いる」


「はい。ここにおります」


そう答えてから、リゼットは少しだけ笑った。


ここにいる。けれど、今日はここに縛られない。


その違いは、まだうまく言葉にできなかった。


少しして、石畳の向こうから白い姿が見えた。


エリアスだった。


いつもと同じ白い服。白銀に近い髪。手には小さな鞄。いつもの時間に、いつもの歩幅で満願堂へ向かってくる。


彼女は扉の前で立ち止まり、札を見た。


「あらあら」


その声は驚いていたが、困ってはいなかった。


リゼットは扉を開け、外へ出た。


「おはようございます、エリアスさん」


「おはよう、リゼットさん」


エリアスは札をもう一度見た。


「今日は、探す日なのね」


モルがすぐに言った。


「探す日」


「そう」


エリアスは静かに微笑んだ。


「では、私は明日来ればいいのかしら」


リゼットは布の包みを少し持ち上げた。


「よろしければ、外で紅茶を飲みませんか」


エリアスの目が、ほんの少し丸くなった。


「外で?」


「はい」


「いつもの本は?」


「持ってまいりました」


リゼットは白い詩集を見せた。


エリアスは本の表紙を見て、少し安心したようだった。


「いつもの紅茶は?」


「淹れてあります」


「いつものカップは?」


「割れないよう、別のカップにしました」


エリアスは少し考えた。


「それは、少し違うわね」


「はい」


リゼットは正直に頷いた。


「少し違います」


モルが前足を上げた。


「ピクニック」


その言葉で、エリアスは笑った。


小さく、けれど確かに笑った。


「ピクニックなら、カップが違っても仕方ないわ」


「よろしいのですか」


「ええ」


エリアスは札をもう一度見た。


「いつもの本と、いつもの紅茶と、リゼットさんと、モルがいるなら」


少し間を置く。


「それなら、いつもどおりね」


その言葉は、朝の光の中で静かに響いた。


リゼットは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


いつもの席ではない。満願堂の扉は閉まっている。店内のカウンターも、窓際の席も、今日は使わない。


それでも、いつものものは少しだけ外へ持っていける。


「どちらへ行きましょうか」


リゼットが聞くと、エリアスは少し考えた。


「遠くなくていいわ」


「はい」


「満願堂が見えなくなるほど遠いと、少し落ち着かないかもしれない」


「では、月環橋の手前の小さな広場はいかがでしょう」


「光が入るところ?」


「ええ。朝は静かです」


モルが先に歩き出した。


「ピクニック」


リゼットとエリアスは、その後をゆっくり歩いた。


満願堂の扉には、休店札が掛かっている。通りすがりのパン屋の娘がそれを見て、少し驚いた顔をした。それから札の絵を見て、なぜか納得したように頷き、通り過ぎていった。


別の老人が立ち止まり、目を細める。


「今日は休みか」


モルが振り返って言った。


「探す日」


老人は笑った。


「そうか。なら、明日また来るか」


何も壊れなかった。


誰も怒鳴らなかった。


納め物も、今朝は届いていない。もし届いたなら、逓便局が預かってくれる。


リゼットはそのことを、歩きながら何度も思い出した。


月環橋の手前の広場は、まだ人が少なかった。


小さな木が一本あり、その下に石の長椅子がある。満願堂の椅子ほど座り心地はよくない。けれど、朝の光が葉の間を通って落ちている。


リゼットは布を広げ、カップを置いた。


エリアスは少し慎重に座る。


「いつもの席ではないわ」


「はい」


「でも、悪くないわ」


リゼットは紅茶を注いだ。


湯気が外の空気へほどけていく。店内で立ちのぼる湯気とは違う。古書の匂いではなく、朝の草と石畳の湿り気が混じっている。


モルは草の上で鼻をひくつかせた。


「外のにおい」


「ええ」


リゼットはカップをエリアスへ渡す。


エリアスは両手で受け取った。


「少し軽いカップね」


「持ち運び用です」


「そう」


彼女は紅茶を一口飲んだ。


しばらく黙る。


リゼットは少し緊張した。


「いつもの味では、ありませんか」


エリアスは首を横へ振った。


「いつもの茶葉の味よ」


「よかったです」


「でも、光の味が違うわ」


「光の味」


「ええ」


エリアスは広場を見た。


「満願堂の光は、ステンドグラスを通るでしょう。ここの光は、葉を通るのね」


リゼットはカップを手にしたまま、朝の光を見た。


葉を通る光。


今まで何度も見てきたはずなのに、紅茶と一緒に見ると少し違う。


モルが前足を草の上で伸ばした。


「リゼット、飲む」


「はい」


リゼットは、自分のカップへ紅茶を注いだ。


客のためではなく、自分のために。


その動作は、思ったより難しかった。


けれど、カップを持つと、手の中に確かな熱があった。


満願堂は閉まっている。


でも、紅茶はここにある。


エリアスは本を開いた。


「今日は、ここから読むわ」


いつもの栞の場所だった。


リゼットはその横で、自分の紅茶を飲んだ。


味はいつもと同じで、少しだけ違った。


それが、悪くなかった。


満願堂から広場までの道は、短かった。


それでも、エリアスにとっては小さな旅だった。


彼女は普段、満願堂へ来て、席に座り、本を読み、紅茶を飲み、帰る。それ以外の道を歩かないわけではない。けれど、満願堂の紅茶と本を持って、別の場所へ向かうことは初めてだった。


歩く途中、エリアスは何度か立ち止まりそうになった。


知らない店先の匂い。朝の荷車の音。石畳の凹凸。満願堂の中では届かない街のざわめき。


リゼットは急かさなかった。


モルも、珍しく先へ行きすぎなかった。少し前を歩いては振り返り、エリアスが来るのを待つ。


「モル、案内?」


エリアスが尋ねると、モルは胸を張った。


「案内」


「頼もしいわ」


「うん」


リゼットはその後ろ姿を見て、白いものに導かれた昔を思い出した。


あの時の白いものは喋らなかった。ただ、少し先で待っていた。リゼットが道を間違えそうになると、別の角にいた。


今のモルは言葉を話し、店番をし、受け取り印も押す。


けれど、少し先で待つところは変わらないのかもしれない。


広場へ着くと、エリアスは石の長椅子にそっと座った。


「硬いわ」


「申し訳ありません」


「いいえ」


彼女は少し笑う。


「硬い椅子だと分かるのも、たまにはいいわ」


リゼットは布を広げる手を止めた。


エリアスは仕上がった人だ。変わらないことを望んだ人だ。その彼女が、硬い椅子の感触を「たまにはいい」と言う。


それは、大きな変化ではない。


けれど、小さな風が、閉じた頁の間に入るような言葉だった。


「お席が硬い時は、次は敷物を持ってまいります」


「次があるの?」


エリアスが聞く。


リゼットは少し考えた。


「あるかもしれません」


「そう」


エリアスは満足そうに本を開いた。


「では、今日は硬い椅子の回ね」


モルが草の上で跳ねた。


「かたい椅子」


「ええ」


エリアスは頁をめくる。


「いつもの本の、硬い椅子の朝」


リゼットは紅茶を注いだ。


満願堂の外で、その言葉が自然に朝の中へ溶けていった。


広場で紅茶を淹れる時、リゼットは何度も手順を間違えそうになった。


店内なら、茶葉は右の棚にある。湯はカウンター奥で沸く。カップは温めた順に並べる。焼き菓子は皿に移し、布巾は左手側に置く。


だが、広場ではすべてが小さな籠の中に収まっている。湯の温度も、風の向きも、石の長椅子の高さも違う。


リゼットは一度、空の棚へ手を伸ばすように宙を触った。


モルがそれを見て言う。


「棚、ない」


「ええ」


リゼットは少しだけ頬を緩めた。


「ありませんね」


棚がないことを、失敗ではなく事実として受け取る。カウンターがないことも、窓際の席がないことも、黒鉄の扉が背後にないことも。


それでも紅茶は淹れられる。


少し手間取り、少し冷めやすく、少し風に揺れる。それでも、満願堂の紅茶だった。


エリアスはその手元を見ながら言った。


「今日は、リゼットさんも少し不慣れね」


「申し訳ありません」


「いいえ」


エリアスは静かに微笑んだ。


「不慣れなリゼットさんを見るのは、初めてかもしれないわ」


その言葉に、リゼットは驚いた。


不慣れであることを、責められなかった。


むしろ、そこにも自分がいるのだと教えられた気がした。


広場へ向かう途中、二人と一匹は何度も立ち止まった。


エリアスが、露店に並んだ果物の色を見る。モルが路地の角で知らない犬に鼻を向ける。リゼットが、いつもは配達の途中でしか見ない看板をゆっくり読む。


どれも、満願堂へ行くための道ではなくなっていた。


目的地が店ではないだけで、同じ通りが少し違うものに見える。


エリアスは一度、満願堂の方角を振り返った。


「戻りたいですか」


リゼットが尋ねると、エリアスは少し考えた。


「戻る場所があるから、ここまで来られるのかもしれないわ」


その言葉に、リゼットは返事ができなかった。


戻る場所があることと、そこから一歩も出ないことは違う。満願堂は閉じられている。けれど、なくなったわけではない。戻れる場所として、背後にある。


リゼットは初めて、満願堂を背中側に感じた。


それは不安で、同時に少しだけ心強かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。