第九十八話 いつもの席ではない朝
朝の満願堂は、いつも紅茶の香りから始まる。
けれどその朝、リゼットは最初の一杯を客席へ出さなかった。
湯を沸かし、茶葉を量り、いつものように紅茶を淹れる。カップも用意する。白い詩集も、布の包みに入れる。小さな焼き菓子もいくつか詰める。
ただ、扉の札を返さない。
開店の札ではなく、カウンターの上に置かれた新しい札を手に取る。
閉じたティーカップ。月環。小さな鍵。
探す日の札。
モルは足元で見上げていた。
「リゼット」
「はい」
「今?」
「はい」
リゼットは扉の前に立った。
外はまだ朝の光が浅い。石畳には夜の湿り気が少し残り、向かいの古書店はまだ戸を開けていない。月環街の一日は始まりかけているが、満願堂の前だけは少し静かだった。
リゼットは留め具に札を掛けた。
小さな金具が、かすかに鳴る。
それだけだった。
派手な光も、扉の震えも、願具が一斉に息をするような音もない。ただ、札が掛かった。
満願堂は閉まった。
リゼットは手を離した後も、しばらく札を見ていた。
「閉まりました」
自分に言うように呟く。
モルが隣で胸を張る。
「探す日」
「ええ」
「でも、リゼット、いる」
「はい。ここにおります」
そう答えてから、リゼットは少しだけ笑った。
ここにいる。けれど、今日はここに縛られない。
その違いは、まだうまく言葉にできなかった。
少しして、石畳の向こうから白い姿が見えた。
エリアスだった。
いつもと同じ白い服。白銀に近い髪。手には小さな鞄。いつもの時間に、いつもの歩幅で満願堂へ向かってくる。
彼女は扉の前で立ち止まり、札を見た。
「あらあら」
その声は驚いていたが、困ってはいなかった。
リゼットは扉を開け、外へ出た。
「おはようございます、エリアスさん」
「おはよう、リゼットさん」
エリアスは札をもう一度見た。
「今日は、探す日なのね」
モルがすぐに言った。
「探す日」
「そう」
エリアスは静かに微笑んだ。
「では、私は明日来ればいいのかしら」
リゼットは布の包みを少し持ち上げた。
「よろしければ、外で紅茶を飲みませんか」
エリアスの目が、ほんの少し丸くなった。
「外で?」
「はい」
「いつもの本は?」
「持ってまいりました」
リゼットは白い詩集を見せた。
エリアスは本の表紙を見て、少し安心したようだった。
「いつもの紅茶は?」
「淹れてあります」
「いつものカップは?」
「割れないよう、別のカップにしました」
エリアスは少し考えた。
「それは、少し違うわね」
「はい」
リゼットは正直に頷いた。
「少し違います」
モルが前足を上げた。
「ピクニック」
その言葉で、エリアスは笑った。
小さく、けれど確かに笑った。
「ピクニックなら、カップが違っても仕方ないわ」
「よろしいのですか」
「ええ」
エリアスは札をもう一度見た。
「いつもの本と、いつもの紅茶と、リゼットさんと、モルがいるなら」
少し間を置く。
「それなら、いつもどおりね」
その言葉は、朝の光の中で静かに響いた。
リゼットは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
いつもの席ではない。満願堂の扉は閉まっている。店内のカウンターも、窓際の席も、今日は使わない。
それでも、いつものものは少しだけ外へ持っていける。
「どちらへ行きましょうか」
リゼットが聞くと、エリアスは少し考えた。
「遠くなくていいわ」
「はい」
「満願堂が見えなくなるほど遠いと、少し落ち着かないかもしれない」
「では、月環橋の手前の小さな広場はいかがでしょう」
「光が入るところ?」
「ええ。朝は静かです」
モルが先に歩き出した。
「ピクニック」
リゼットとエリアスは、その後をゆっくり歩いた。
満願堂の扉には、休店札が掛かっている。通りすがりのパン屋の娘がそれを見て、少し驚いた顔をした。それから札の絵を見て、なぜか納得したように頷き、通り過ぎていった。
別の老人が立ち止まり、目を細める。
「今日は休みか」
モルが振り返って言った。
「探す日」
老人は笑った。
「そうか。なら、明日また来るか」
何も壊れなかった。
誰も怒鳴らなかった。
納め物も、今朝は届いていない。もし届いたなら、逓便局が預かってくれる。
リゼットはそのことを、歩きながら何度も思い出した。
月環橋の手前の広場は、まだ人が少なかった。
小さな木が一本あり、その下に石の長椅子がある。満願堂の椅子ほど座り心地はよくない。けれど、朝の光が葉の間を通って落ちている。
リゼットは布を広げ、カップを置いた。
エリアスは少し慎重に座る。
「いつもの席ではないわ」
「はい」
「でも、悪くないわ」
リゼットは紅茶を注いだ。
湯気が外の空気へほどけていく。店内で立ちのぼる湯気とは違う。古書の匂いではなく、朝の草と石畳の湿り気が混じっている。
モルは草の上で鼻をひくつかせた。
「外のにおい」
「ええ」
リゼットはカップをエリアスへ渡す。
エリアスは両手で受け取った。
「少し軽いカップね」
「持ち運び用です」
「そう」
彼女は紅茶を一口飲んだ。
しばらく黙る。
リゼットは少し緊張した。
「いつもの味では、ありませんか」
エリアスは首を横へ振った。
「いつもの茶葉の味よ」
「よかったです」
「でも、光の味が違うわ」
「光の味」
「ええ」
エリアスは広場を見た。
「満願堂の光は、ステンドグラスを通るでしょう。ここの光は、葉を通るのね」
リゼットはカップを手にしたまま、朝の光を見た。
葉を通る光。
今まで何度も見てきたはずなのに、紅茶と一緒に見ると少し違う。
モルが前足を草の上で伸ばした。
「リゼット、飲む」
「はい」
リゼットは、自分のカップへ紅茶を注いだ。
客のためではなく、自分のために。
その動作は、思ったより難しかった。
けれど、カップを持つと、手の中に確かな熱があった。
満願堂は閉まっている。
でも、紅茶はここにある。
エリアスは本を開いた。
「今日は、ここから読むわ」
いつもの栞の場所だった。
リゼットはその横で、自分の紅茶を飲んだ。
味はいつもと同じで、少しだけ違った。
それが、悪くなかった。
満願堂から広場までの道は、短かった。
それでも、エリアスにとっては小さな旅だった。
彼女は普段、満願堂へ来て、席に座り、本を読み、紅茶を飲み、帰る。それ以外の道を歩かないわけではない。けれど、満願堂の紅茶と本を持って、別の場所へ向かうことは初めてだった。
歩く途中、エリアスは何度か立ち止まりそうになった。
知らない店先の匂い。朝の荷車の音。石畳の凹凸。満願堂の中では届かない街のざわめき。
リゼットは急かさなかった。
モルも、珍しく先へ行きすぎなかった。少し前を歩いては振り返り、エリアスが来るのを待つ。
「モル、案内?」
エリアスが尋ねると、モルは胸を張った。
「案内」
「頼もしいわ」
「うん」
リゼットはその後ろ姿を見て、白いものに導かれた昔を思い出した。
あの時の白いものは喋らなかった。ただ、少し先で待っていた。リゼットが道を間違えそうになると、別の角にいた。
今のモルは言葉を話し、店番をし、受け取り印も押す。
けれど、少し先で待つところは変わらないのかもしれない。
広場へ着くと、エリアスは石の長椅子にそっと座った。
「硬いわ」
「申し訳ありません」
「いいえ」
彼女は少し笑う。
「硬い椅子だと分かるのも、たまにはいいわ」
リゼットは布を広げる手を止めた。
エリアスは仕上がった人だ。変わらないことを望んだ人だ。その彼女が、硬い椅子の感触を「たまにはいい」と言う。
それは、大きな変化ではない。
けれど、小さな風が、閉じた頁の間に入るような言葉だった。
「お席が硬い時は、次は敷物を持ってまいります」
「次があるの?」
エリアスが聞く。
リゼットは少し考えた。
「あるかもしれません」
「そう」
エリアスは満足そうに本を開いた。
「では、今日は硬い椅子の回ね」
モルが草の上で跳ねた。
「かたい椅子」
「ええ」
エリアスは頁をめくる。
「いつもの本の、硬い椅子の朝」
リゼットは紅茶を注いだ。
満願堂の外で、その言葉が自然に朝の中へ溶けていった。
広場で紅茶を淹れる時、リゼットは何度も手順を間違えそうになった。
店内なら、茶葉は右の棚にある。湯はカウンター奥で沸く。カップは温めた順に並べる。焼き菓子は皿に移し、布巾は左手側に置く。
だが、広場ではすべてが小さな籠の中に収まっている。湯の温度も、風の向きも、石の長椅子の高さも違う。
リゼットは一度、空の棚へ手を伸ばすように宙を触った。
モルがそれを見て言う。
「棚、ない」
「ええ」
リゼットは少しだけ頬を緩めた。
「ありませんね」
棚がないことを、失敗ではなく事実として受け取る。カウンターがないことも、窓際の席がないことも、黒鉄の扉が背後にないことも。
それでも紅茶は淹れられる。
少し手間取り、少し冷めやすく、少し風に揺れる。それでも、満願堂の紅茶だった。
エリアスはその手元を見ながら言った。
「今日は、リゼットさんも少し不慣れね」
「申し訳ありません」
「いいえ」
エリアスは静かに微笑んだ。
「不慣れなリゼットさんを見るのは、初めてかもしれないわ」
その言葉に、リゼットは驚いた。
不慣れであることを、責められなかった。
むしろ、そこにも自分がいるのだと教えられた気がした。
広場へ向かう途中、二人と一匹は何度も立ち止まった。
エリアスが、露店に並んだ果物の色を見る。モルが路地の角で知らない犬に鼻を向ける。リゼットが、いつもは配達の途中でしか見ない看板をゆっくり読む。
どれも、満願堂へ行くための道ではなくなっていた。
目的地が店ではないだけで、同じ通りが少し違うものに見える。
エリアスは一度、満願堂の方角を振り返った。
「戻りたいですか」
リゼットが尋ねると、エリアスは少し考えた。
「戻る場所があるから、ここまで来られるのかもしれないわ」
その言葉に、リゼットは返事ができなかった。
戻る場所があることと、そこから一歩も出ないことは違う。満願堂は閉じられている。けれど、なくなったわけではない。戻れる場所として、背後にある。
リゼットは初めて、満願堂を背中側に感じた。
それは不安で、同時に少しだけ心強かった。




