第九十七話 休店日前夜
満願堂を閉める前夜、リゼットはいつもよりゆっくり店内を歩いた。
外は静かだった。月環街の灯りが一つずつ細くなり、石畳の通りには夜の湿り気が降りている。満願堂の中では、古書と紅茶と木の匂いがいつも通り混ざっていた。
いつも通り。
その言葉を、リゼットは何度も心の中で触った。
明日は、いつも通りではない。
けれど、いつも通りでないことが、壊れることではないのだと、少しずつ教えられてきた。
表の棚には、小さな願具が並んでいる。
晴れを借りる人形。探し物の栞。よく眠れる香草。小さな喝采の鈴。顔色を少しよく見せる手鏡。どれも、誰かの願いを軽く手伝う品たちだ。
リゼットは棚の埃を払った。
「明日は、お休みです」
声に出すと、少し不思議だった。
願具たちは何も答えない。ただ、いつもより少し静かに見えた。
奥の棚へ行く。
魔願具たちは黒布の下やガラスケースの中で眠っている。本音を拾う銀針。名残をほどく櫛。後悔を届ける靴。夢を選ぶ枕。嘘を飾る口紅。君を待つ時計。願いを量る秤。
それぞれの品に、それぞれの願いがある。納められたものも、休んでいるものも、まだ何かを覚えているものもある。
リゼットは一つずつ確認した。
黒布の端。ケースの鍵。棚板の歪み。
オルスが直した金具に触れる。
少し無骨だが、しっかりしている。
「跡が残らないわけじゃない」
そう言ったオルスの声を思い出した。
願いが納まった場所には、何かしら跡が残る。満願堂は跡だらけだと、彼は言った。
その通りだと思う。
満願堂は、願いの跡でできている。
カウンターへ戻る。
そこには納願帳がある。昨日、若い頃の自分の紙片を挟んだ帳面。リゼットは表紙に手を置いた。
この帳面には、たくさんの願いがある。
他人の願い。納められた願い。仕上がった願い。戻れなかった願い。戻ったけれど、返りを残した願い。
そして、リゼット自身の古い願い。
願ったことを、なかったことにしたくない。
その願いから、満願堂は始まった。
では、今の自分の願いは何なのか。
リゼットは、帳面の後ろに挟んだ新しい頁を開いた。
そこには一行だけ書かれている。
自分の行き着く場所を探す時間がほしい。
まだ、慣れない文字だった。
管理人の記録ではない。客の願いでもない。リゼット自身の願い。読んでも、すぐに意味が馴染まない。けれど、そこにある。
モルがカウンターに飛び乗った。
「リゼット、まだ見る?」
「ええ。少しだけ」
「明日、閉める」
「はい」
「こわい?」
リゼットは少し考えた。
「怖いです」
「でも、探す」
「ええ」
モルは満足したように前足を揃えた。
「モルも、行く」
「もちろん」
「エリアスも?」
「明日、来てくださったら、お誘いします」
「いつもの本」
「持ってまいります」
「いつもの紅茶」
「淹れていきます」
モルは頷いた。
「じゃあ、だいじょうぶ」
その単純さが、リゼットには少し眩しかった。
大丈夫かどうかは、まだ分からない。けれど、本と紅茶とモルがある。それだけで少し歩けるなら、エリアスの言葉は正しいのかもしれない。
リゼットは窓際の席へ向かった。
エリアスのいつもの席。明日はここに彼女はいないかもしれない。あるいは来て、休店札を見るかもしれない。
リゼットはテーブルの上を拭いた。
白い詩集がいつも置かれる位置に、何もない空白がある。その空白は、以前なら不安に見えたかもしれない。今は、少しだけ余白に見えた。
扉の近くには、ココの受け取り印の台がある。
印面は少し斜めに減っている。モルが何度も押したからだ。ココが毎回褒め、ロイが時々角度を指摘し、モルが少し得意げになる。
その小さなやり取りも、満願堂の一部だった。
カウンターの端には、ロイが並べ直した皿がある。
彼は几帳面だ。皿の間隔まで揃える。本人は普通だと言うが、リゼットはそのまっすぐさを何度も見てきた。
リゼットさん一人が、ずっと開け続けなくてもいいようにしたいんです。
その言葉を思い出すと、胸の奥が少し痛んだ。
痛みは、拒むものではないのかもしれない。
その言葉が届いた場所が、まだ慣れていないだけだ。
奥の通路の先には、黒鉄の扉がある。
リゼットはそこまで行った。
扉は閉じている。中央の閉じた目は、暗がりの中で静かだった。モルの首元の鍵は、今日は外されていない。リボンの下で小さく揺れている。
満願具は奥で眠っている。
美しく仕上がった鏡台。鳴り止まない舞台靴。正しい子の首輪。優しい毒杯。誰にも見つからない部屋の椅子。ほかにも多くの願いが、そこで行き着いている。
明日、満願堂が閉まっても、それらが消えるわけではない。
リゼットが一日外へ出ても、納めた願いが迷い出すわけではない。
そう思うことは、まだ少し難しい。
けれど、満願堂はリゼット一人の体ではない。
棚がある。帳面がある。扉がある。モルがいる。エリアスの席がある。ココの印がある。ロイの皿がある。オルスの金具がある。ヴェルナーの手順がある。ロザの言葉が、街の停留所にある。
満願堂を通った願いは、満願堂の外にも少しずつ残っている。
リゼットは黒鉄の扉に手を触れた。
「明日は、閉めます」
扉は答えない。
ただ、いつもより少しだけ、冷たさが穏やかだった。
夜更け、リゼットは休店札をカウンターの上に置いた。
閉じたティーカップ。月環。小さな鍵。
モルがその隣で丸くなる。
「リゼット、寝る?」
「少しだけ」
「明日、探す日」
「はい」
「満願堂、こわれない」
リゼットは灯りを落とした。
「ええ」
暗くなった店内で、願具たちも、魔願具たちも、奥の扉も、何も言わなかった。
けれど、その沈黙は責めるものではなかった。
長く開き続けた店が、初めて目を閉じる前夜。
満願堂は静かに、明日の朝を待っていた。
その頃、月環街逓便局でも小さな灯りが残っていた。
ロイは預かり棚の前で、ヴェルナーから渡された手順書を読み直している。黒い紐。暗い赤の封蝋。納め札。満願堂が開くまで、何を確認し、どこへ記録し、誰の手に渡すのか。
ただの規則なら、何度も読む必要はない。
けれど明日の手順には、リゼットの不在が入っている。いつもなら満願堂の扉の向こうで受け止められるものを、ほんの少し手前で守る手順。
ロイはその重さを、伝票の紙越しに感じていた。
「まだいるのか」
ヴェルナーが言った。
「確認していました」
「確認は一度でいい」
「満願堂のことなので」
「だから一度でいい。何度も見直すと、恐れが手に移る」
ロイは顔を上げた。
ヴェルナーは棚に鍵をかけながら続ける。
「明日、満願堂は閉まる。だから我々が預かる。それだけだ。特別に思いすぎるな。だが、軽くも見るな」
「難しいですね」
「仕事とはそういうものだ」
ロイは手順書を閉じた。
満願堂が閉まる一日は、リゼットだけの問題ではない。逓便局の棚も、ロイの手も、ココの控えも、ヴェルナーの鍵も、少しずつその一日に関わっている。
そのことが、ロイには少し救いだった。
リゼットさん一人ではない。
彼は声に出さず、そう思った。
寝る前に、リゼットは店の鍵をいつも通り確かめた。
表の扉。裏口。茶葉の棚。奥の棚。黒鉄の扉。
一つずつ確かめるたび、明日それらを開けないのだと思う。開けないことは、放り出すことではない。けれど、体に染みついた手順は、まだそれを理解していなかった。
鍵を閉める手が、何度も同じ場所へ戻りそうになる。
モルが後ろから言った。
「もう、しまった」
「はい」
「もう、見た」
「はい」
「もう、だいじょうぶ」
リゼットは小さく息を吐いた。
「そうですね」
誰かにそう言われなければ、彼女はきっといつまでも棚を確かめ続けただろう。満願堂を守る手順は大切だった。だが、守り続けることと、離れられないことは同じではない。
その違いを覚えるためにも、明日の札は必要だった。
リゼットは最後に、休店札の横へ小さなメモを置いた。
明日は、探す日。
それだけの字だった。
自分に向けて書いた字は、まだ少し頼りなかった。けれど、頼りない字でも、そこに置けば明日の朝を待てる。
リゼットは最後に、厨房の小さな棚を開けた。
そこには、持ち出し用の茶器が入っている。昔、旅人に頼まれて一度だけ外で茶を淹れたことがあった。その時に用意したものだ。使ったのはそれきりで、長い間棚の奥で眠っていた。
布に包まれた軽いカップ。割れにくい小さなポット。蓋つきの茶葉入れ。焼き菓子を入れる缶。
リゼットは一つずつ取り出した。
満願堂の外で紅茶を淹れるための道具。
それがあることを、ほとんど忘れていた。
「忘れていたのですね」
自分でそう呟くと、少しだけおかしかった。
忘れたわけではない。必要がなかっただけ。満願堂の中でいくらでも紅茶を淹れられたから、外へ持ち出す理由がなかった。
けれど、理由がなかったことと、できないことは違う。
リゼットは茶器を磨いた。
布に少し古い匂いがついている。戸棚にしまわれていた時間の匂い。使われなかった道具の、静かな匂い。
モルが鼻を寄せる。
「これ、外?」
「ええ。明日使います」
「前からあった?」
「ありました」
「使わなかった?」
「はい」
モルは少し考えた。
「リゼットみたい」
「私?」
「行けるけど、行かなかった」
その言葉に、リゼットは手を止めた。
モルは悪気なく言ったのだろう。けれど、その短い言葉はよく当たっていた。
行けるけれど、行かなかった。
探せるけれど、探さなかった。
自分に行き先がないと思っていたから。
リゼットは茶器を布で包み直した。
「明日は、行きます」
「うん」
モルは満足そうに頷いた。
その後、リゼットは明日の紅茶を選んだ。
いつもの茶葉にするか、外の空気に合う軽い茶葉にするか、少し迷った。エリアスにはいつもの紅茶が必要だ。けれど、外では香りが変わる。
結局、いつもの茶葉を少しだけ軽めに量ることにした。
同じものを、違う場所へ持っていくための小さな調整。
それもまた、探すことの一つなのかもしれない。
夜が深まる頃、リゼットはようやく灯りを消した。
満願堂は暗くなる。
けれど、明日のための包みだけが、カウンターの上に静かに置かれていた。




