第九十六話 最後の納め物
休店日前日の朝、納め物が届いた。
黒い紐。暗い赤の封蝋。月環と扉と閉じた目の紋章。納め札。
いつもの形だった。
けれど、満願堂の扉を開けたココは、いつもより少しだけ慎重だった。
「逓便局です。納め物です」
声が少し低い。
ロイも一緒に来ていた。二人で運ぶほど大きな箱ではない。むしろ、手のひらに乗るほど薄い包みだった。それでも二人で来たのは、休店日前日だからだろう。
リゼットはカウンターへ黒布を広げた。
「ありがとうございます」
包みを受け取った瞬間、モルが起き上がった。
「リゼットのにおい」
店内が静かになった。
ココの耳がぴんと立つ。ロイはリゼットを見る。エリアスは窓際で本を閉じた。
リゼットは包みを見つめた。
「私の?」
モルは鼻を近づけ、もう一度言った。
「リゼットの、むかしのにおい」
リゼットの指が封蝋に触れた。
封蝋は欠けていない。黒い紐も緩んでいない。納め札には、差出人の名がなかった。ただ、古い筆跡で短く書かれている。
満願堂へ。
それだけだった。
リゼットは紐をほどいた。
中から出てきたのは、紙片だった。
古い帳面の一部。端は焼け、ところどころ灰色に変色している。文字は薄い。だが、リゼットが見た瞬間、店内の空気がわずかに変わった。
その字は、今のリゼットの字に似ていた。
少し若く、少し迷いがあり、線の終わりが今よりも強い。
リゼットは紙片を黒布の上へ置いた。
そこには、かろうじて読める文字が残っていた。
願ったことを、なかったことにしたくない。
ココは声を出さなかった。
ロイも黙っていた。
リゼットは紙片を見つめたまま、しばらく動かなかった。
その文字は、遠い処分場の匂いを連れていた。
灰。濡れた木。壊された箱。泣かなかった人の息。壊す前に話を聞こうとして、怒られた日の床の冷たさ。帳面を隠すために、夜中に灯した小さな火。
若い頃の自分が、そこにいた。
まだ満願堂を知らず、月環の堂の名も遠く、ただ壊される願いの前で立ち尽くしていた自分。
「リゼットさん」
ロイが呼んだ。
リゼットは顔を上げた。
「大丈夫ですか」
「はい」
そう答えようとして、少しだけ止まる。
「……いいえ」
店内の空気が、さらに静かになった。
リゼットは紙片を見た。
「大丈夫では、ないのかもしれません」
それは、彼女が満願堂でほとんど言ったことのない言葉だった。
モルがカウンターに上がり、紙片のそばへ丸くなる。
「戻ってきた」
「ええ」
「リゼットの願い、戻ってきた」
リゼットはそっと紙片へ手を近づけた。
触れると、紙は壊れそうだった。けれど、触れないと、またどこかへ行ってしまいそうでもあった。
その時、扉の鈴が鳴った。
入ってきたのはルーシャだった。
仕立屋の仕事帰りなのだろう。腕には布の包みと、小さな無地の手帳を抱えている。彼女は店内の空気を見て、すぐに声を落とした。
「すみません。出直しましょうか」
「いいえ」
リゼットは首を横へ振った。
「どうぞ」
ルーシャはカウンターに近づき、黒布の上の紙片を見た。
詳しいことは分からないはずだった。けれど、彼女はそれがただの古い紙ではないと分かったのだろう。
「帳面ですか」
「ええ。昔のものです」
リゼットは答えた。
ルーシャは自分の手帳を抱え直した。
「私も、最近書いているんです」
「本音も嘘も、ですか」
リゼットが言うと、ルーシャは少し驚いて、それから笑った。
「ミレーヌさんみたいですね」
「あら、そうでしたか」
リゼットは少しだけ目を細めた。
ルーシャは紙片を見つめた。
「言わなかったことは、布にも残ることがあります」
彼女は静かに言った。
「書かなかった願いも、どこかに残るんでしょうか」
その言葉は、紙片の文字と重なった。
願ったことを、なかったことにしたくない。
書かなかった願いも、どこかに残るのか。
リゼットは、若い頃の自分に聞かれている気がした。
あの時、ただ書くだけだった帳面が願具になり、魔願具になり、やがて納願帳へ繋がった。願いを残したいという小さな行為が、満願堂を作った。
そして今、その欠片が納め物として戻ってきている。
リゼットは紙片を黒布ごと持ち上げた。
「この欠片は、奥の棚ではなく、納願帳の間に置きます」
「納めるんですか」
ロイが聞く。
「はい」
リゼットは答えた。
「私自身の願いの、一部ですから」
モルが尻尾を揺らした。
「リゼット、納める?」
「納めるというより」
リゼットは少し考えた。
「戻すのでしょうね」
納願帳が開かれた。
そこには、数えきれないほどの願いが記されている。美しくなりたい。忘れたい。愛されたい。待ちたい。正しくありたい。誰にも見つかりたくない。子どもを笑わせたい。苦しみを終わらせたい。
それらすべての奥に、若いリゼットの紙片が挟まれる。
願ったことを、なかったことにしたくない。
紙片を挟んだ瞬間、納願帳の頁がかすかに鳴った。
音は小さかった。けれど、満願堂の全ての棚が、その音を聞いたような気がした。
エリアスが静かに言った。
「長く歩いてきたものが、帰ってきたのね」
「ええ」
リゼットは答えた。
「ずいぶん遠回りをしました」
ルーシャは手帳を胸に抱えた。
「出直します」
「お茶はよろしいのですか」
「今日は、家で書きたいことがあります」
彼女は少し笑った。
「忘れないうちに」
リゼットは頷いた。
「よいことだと思います」
ルーシャが帰った後、満願堂には静かな余韻が残った。
ココとロイも、納め物の受け渡し記録を終えると帰っていった。
店が閉まる頃、リゼットは納願帳をもう一度開いた。
若い自分の文字が、そこにある。
それは、今の自分を責めてはいなかった。
ただ、長い時間をかけて、ようやくここへ帰ってきた願いだった。
モルが隣で言う。
「明日、探す日」
「ええ」
「リゼットの願いも、いる」
リゼットは納願帳を閉じた。
「はい」
その返事は、今までより少しだけ素直だった。
休店日前日、最後に届いた納め物は、誰か他人の願いではなかった。
リゼット自身が、昔なくさないように書いた願いだった。
それが戻ってきたからこそ、彼女は明日、満願堂の扉へ初めて札を掛けることができるのかもしれなかった。
紙片の裏にも、かすかな文字があった。
リゼットは最初、それに気づかなかった。紙を納願帳に挟む直前、モルが前足でそっと端を押したのだ。
「うら」
「裏ですか」
リゼットは紙片を慎重に返した。
焼け跡と水染みの間に、短い文字が残っていた。
壊せば、願いは消えるのか。
問いだった。
若い頃のリゼットが、自分に向けて書いた問い。あるいは、誰にも答えてもらえなかった問い。
ロイはその文字を見て、息を詰めた。
リゼットは答えを知っている。少なくとも、今の彼女は多くの答えを持っている。壊せば呪いが返るわけではない。けれど、願いは薄れる。記憶も、関係も、時にはその人の一部も。
だが、若い頃のリゼットは、まだそれを言葉にできなかった。
ただ、壊される品の前で、この問いを書いた。
リゼットは紙片に向かって、静かに言った。
「消えません」
誰に聞かせるでもない声だった。
「消えたように見えることはあります。忘れられることも、薄れることもあります。けれど、願ったことは、なかったことにはなりません」
モルが紙片のそばで丸くなる。
「だから、ここ」
「ええ」
「満願堂」
「はい」
その時、リゼットは初めて、満願堂という名前が自分に返ってくるのを感じた。
満願堂は、客の願いのための場所だった。納め物のための場所だった。仕上がった願いのための場所だった。
けれど、満願堂はリゼット自身の問いにも答えていた。
壊せば、願いは消えるのか。
消えない。
だから、納める場所を作った。
だから、満願堂はある。
ルーシャが帰った後、リゼットは紙片を納願帳へ挟む前に、一枚の新しい紙を取り出した。
そこへ今の字で、短く写す。
願ったことを、なかったことにしたくない。
壊せば、願いは消えるのか。
写し終えると、古い紙片は納願帳の奥へ、新しい紙はそのすぐ隣へ置いた。
過去の自分と、今の自分が並んだようだった。
ロイはそれを見て、言葉を探した。
「リゼットさんは、ずっと同じことを願っていたんですね」
リゼットは少し考えた。
「同じ言葉では、なかったかもしれません」
「でも、同じ場所へ向かっていた」
「そうですね」
彼女は納願帳を閉じた。
「ようやく、そのことを私自身が受け取れたのかもしれません」
最後の納め物は、満願堂に何かを増やしたわけではなかった。
むしろ、最初からあった問いを、もう一度見える場所へ戻しただけだった。
それでも、その夜の満願堂は少しだけ広く感じられた。
夜更け、リゼットは納願帳を閉じた後も、その場を離れられなかった。
紙片を挟んだ帳面は、いつもと同じ重さのはずだった。けれど、持ち上げると少し違う。新しい頁が増えたからではない。リゼット自身が、その中に入ったからだった。
これまでも、彼女は自分の願いを知らなかったわけではない。満願堂を作った願いも、納願帳へ繋がった願いも、自分のものだと分かっていた。
だが、それはいつも管理人としての願いだった。
願いを納める場所を作ること。願ったことをなかったことにしないこと。すべての願いに行き着く場所をあげること。
そこには、リゼット自身がどこへ行くのかという問いだけが抜けていた。
古い紙片は、それを責めなかった。ただ、長い時間をかけて戻ってきた。まるで、ずっと閉じた本の間に挟まれていた栞が、ようやく開かれたように。
リゼットは納願帳の表紙を撫でた。
「明日、私は店を閉めます」
誰に告げるでもなく言う。
奥の棚の品々は沈黙している。表の棚の願具も、黒鉄の扉も、何も答えない。
けれど、その沈黙は反対ではなかった。
長いあいだ誰かの願いを受け止めてきた店が、今だけは管理人の小さな願いを黙って置いてくれている。
そう思えた。
その夜、奥の棚の前を通ると、いくつかの品がいつもより静かに見えた。
名残をほどく櫛も、後悔を届ける靴も、君を待つ時計も、何も言わない。ただ、黒布の下で息を潜めているようだった。
リゼットはそれらを見て、少しだけ不思議に思った。
これまで、納め物は客の願いとして帰ってきた。けれど今日帰ってきたのは、自分がかつて置いていった問いだった。壊せば願いは消えるのか。願ったことをなかったことにしたくない。その問いは、長い時間をかけて、客の願いと同じ棚の空気をまとって戻ってきた。
「リゼット、うれしい?」
モルが聞いた。
リゼットはすぐには答えられなかった。
嬉しい、というには痛い。悲しい、というには温かい。懐かしい、というにはまだ少し怖い。
「受け取った、という感じがします」
「受け取った」
モルはその言葉を繰り返した。
「リゼット、自分の納め物、受け取った」
「そうかもしれません」
リゼットは納願帳の表紙に手を置いた。
これまで何度も他人の願いを受け取ってきた手が、ようやく自分の過去から差し出されたものにも触れたのだと、その時初めて思った。




