↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第三章 奥の部屋で待つもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

96/100

第九十六話 最後の納め物

休店日前日の朝、納め物が届いた。


黒い紐。暗い赤の封蝋。月環と扉と閉じた目の紋章。納め札。


いつもの形だった。


けれど、満願堂の扉を開けたココは、いつもより少しだけ慎重だった。


「逓便局です。納め物です」


声が少し低い。


ロイも一緒に来ていた。二人で運ぶほど大きな箱ではない。むしろ、手のひらに乗るほど薄い包みだった。それでも二人で来たのは、休店日前日だからだろう。


リゼットはカウンターへ黒布を広げた。


「ありがとうございます」


包みを受け取った瞬間、モルが起き上がった。


「リゼットのにおい」


店内が静かになった。


ココの耳がぴんと立つ。ロイはリゼットを見る。エリアスは窓際で本を閉じた。


リゼットは包みを見つめた。


「私の?」


モルは鼻を近づけ、もう一度言った。


「リゼットの、むかしのにおい」


リゼットの指が封蝋に触れた。


封蝋は欠けていない。黒い紐も緩んでいない。納め札には、差出人の名がなかった。ただ、古い筆跡で短く書かれている。


満願堂へ。


それだけだった。


リゼットは紐をほどいた。


中から出てきたのは、紙片だった。


古い帳面の一部。端は焼け、ところどころ灰色に変色している。文字は薄い。だが、リゼットが見た瞬間、店内の空気がわずかに変わった。


その字は、今のリゼットの字に似ていた。


少し若く、少し迷いがあり、線の終わりが今よりも強い。


リゼットは紙片を黒布の上へ置いた。


そこには、かろうじて読める文字が残っていた。


願ったことを、なかったことにしたくない。


ココは声を出さなかった。


ロイも黙っていた。


リゼットは紙片を見つめたまま、しばらく動かなかった。


その文字は、遠い処分場の匂いを連れていた。


灰。濡れた木。壊された箱。泣かなかった人の息。壊す前に話を聞こうとして、怒られた日の床の冷たさ。帳面を隠すために、夜中に灯した小さな火。


若い頃の自分が、そこにいた。


まだ満願堂を知らず、月環の堂の名も遠く、ただ壊される願いの前で立ち尽くしていた自分。


「リゼットさん」


ロイが呼んだ。


リゼットは顔を上げた。


「大丈夫ですか」


「はい」


そう答えようとして、少しだけ止まる。


「……いいえ」


店内の空気が、さらに静かになった。


リゼットは紙片を見た。


「大丈夫では、ないのかもしれません」


それは、彼女が満願堂でほとんど言ったことのない言葉だった。


モルがカウンターに上がり、紙片のそばへ丸くなる。


「戻ってきた」


「ええ」


「リゼットの願い、戻ってきた」


リゼットはそっと紙片へ手を近づけた。


触れると、紙は壊れそうだった。けれど、触れないと、またどこかへ行ってしまいそうでもあった。


その時、扉の鈴が鳴った。


入ってきたのはルーシャだった。


仕立屋の仕事帰りなのだろう。腕には布の包みと、小さな無地の手帳を抱えている。彼女は店内の空気を見て、すぐに声を落とした。


「すみません。出直しましょうか」


「いいえ」


リゼットは首を横へ振った。


「どうぞ」


ルーシャはカウンターに近づき、黒布の上の紙片を見た。


詳しいことは分からないはずだった。けれど、彼女はそれがただの古い紙ではないと分かったのだろう。


「帳面ですか」


「ええ。昔のものです」


リゼットは答えた。


ルーシャは自分の手帳を抱え直した。


「私も、最近書いているんです」


「本音も嘘も、ですか」


リゼットが言うと、ルーシャは少し驚いて、それから笑った。


「ミレーヌさんみたいですね」


「あら、そうでしたか」


リゼットは少しだけ目を細めた。


ルーシャは紙片を見つめた。


「言わなかったことは、布にも残ることがあります」


彼女は静かに言った。


「書かなかった願いも、どこかに残るんでしょうか」


その言葉は、紙片の文字と重なった。


願ったことを、なかったことにしたくない。


書かなかった願いも、どこかに残るのか。


リゼットは、若い頃の自分に聞かれている気がした。


あの時、ただ書くだけだった帳面が願具になり、魔願具になり、やがて納願帳へ繋がった。願いを残したいという小さな行為が、満願堂を作った。


そして今、その欠片が納め物として戻ってきている。


リゼットは紙片を黒布ごと持ち上げた。


「この欠片は、奥の棚ではなく、納願帳の間に置きます」


「納めるんですか」


ロイが聞く。


「はい」


リゼットは答えた。


「私自身の願いの、一部ですから」


モルが尻尾を揺らした。


「リゼット、納める?」


「納めるというより」


リゼットは少し考えた。


「戻すのでしょうね」


納願帳が開かれた。


そこには、数えきれないほどの願いが記されている。美しくなりたい。忘れたい。愛されたい。待ちたい。正しくありたい。誰にも見つかりたくない。子どもを笑わせたい。苦しみを終わらせたい。


それらすべての奥に、若いリゼットの紙片が挟まれる。


願ったことを、なかったことにしたくない。


紙片を挟んだ瞬間、納願帳の頁がかすかに鳴った。


音は小さかった。けれど、満願堂の全ての棚が、その音を聞いたような気がした。


エリアスが静かに言った。


「長く歩いてきたものが、帰ってきたのね」


「ええ」


リゼットは答えた。


「ずいぶん遠回りをしました」


ルーシャは手帳を胸に抱えた。


「出直します」


「お茶はよろしいのですか」


「今日は、家で書きたいことがあります」


彼女は少し笑った。


「忘れないうちに」


リゼットは頷いた。


「よいことだと思います」


ルーシャが帰った後、満願堂には静かな余韻が残った。


ココとロイも、納め物の受け渡し記録を終えると帰っていった。


店が閉まる頃、リゼットは納願帳をもう一度開いた。


若い自分の文字が、そこにある。


それは、今の自分を責めてはいなかった。


ただ、長い時間をかけて、ようやくここへ帰ってきた願いだった。


モルが隣で言う。


「明日、探す日」


「ええ」


「リゼットの願いも、いる」


リゼットは納願帳を閉じた。


「はい」


その返事は、今までより少しだけ素直だった。


休店日前日、最後に届いた納め物は、誰か他人の願いではなかった。


リゼット自身が、昔なくさないように書いた願いだった。


それが戻ってきたからこそ、彼女は明日、満願堂の扉へ初めて札を掛けることができるのかもしれなかった。


紙片の裏にも、かすかな文字があった。


リゼットは最初、それに気づかなかった。紙を納願帳に挟む直前、モルが前足でそっと端を押したのだ。


「うら」


「裏ですか」


リゼットは紙片を慎重に返した。


焼け跡と水染みの間に、短い文字が残っていた。


壊せば、願いは消えるのか。


問いだった。


若い頃のリゼットが、自分に向けて書いた問い。あるいは、誰にも答えてもらえなかった問い。


ロイはその文字を見て、息を詰めた。


リゼットは答えを知っている。少なくとも、今の彼女は多くの答えを持っている。壊せば呪いが返るわけではない。けれど、願いは薄れる。記憶も、関係も、時にはその人の一部も。


だが、若い頃のリゼットは、まだそれを言葉にできなかった。


ただ、壊される品の前で、この問いを書いた。


リゼットは紙片に向かって、静かに言った。


「消えません」


誰に聞かせるでもない声だった。


「消えたように見えることはあります。忘れられることも、薄れることもあります。けれど、願ったことは、なかったことにはなりません」


モルが紙片のそばで丸くなる。


「だから、ここ」


「ええ」


「満願堂」


「はい」


その時、リゼットは初めて、満願堂という名前が自分に返ってくるのを感じた。


満願堂は、客の願いのための場所だった。納め物のための場所だった。仕上がった願いのための場所だった。


けれど、満願堂はリゼット自身の問いにも答えていた。


壊せば、願いは消えるのか。


消えない。


だから、納める場所を作った。


だから、満願堂はある。


ルーシャが帰った後、リゼットは紙片を納願帳へ挟む前に、一枚の新しい紙を取り出した。


そこへ今の字で、短く写す。


願ったことを、なかったことにしたくない。


壊せば、願いは消えるのか。


写し終えると、古い紙片は納願帳の奥へ、新しい紙はそのすぐ隣へ置いた。


過去の自分と、今の自分が並んだようだった。


ロイはそれを見て、言葉を探した。


「リゼットさんは、ずっと同じことを願っていたんですね」


リゼットは少し考えた。


「同じ言葉では、なかったかもしれません」


「でも、同じ場所へ向かっていた」


「そうですね」


彼女は納願帳を閉じた。


「ようやく、そのことを私自身が受け取れたのかもしれません」


最後の納め物は、満願堂に何かを増やしたわけではなかった。


むしろ、最初からあった問いを、もう一度見える場所へ戻しただけだった。


それでも、その夜の満願堂は少しだけ広く感じられた。


夜更け、リゼットは納願帳を閉じた後も、その場を離れられなかった。


紙片を挟んだ帳面は、いつもと同じ重さのはずだった。けれど、持ち上げると少し違う。新しい頁が増えたからではない。リゼット自身が、その中に入ったからだった。


これまでも、彼女は自分の願いを知らなかったわけではない。満願堂を作った願いも、納願帳へ繋がった願いも、自分のものだと分かっていた。


だが、それはいつも管理人としての願いだった。


願いを納める場所を作ること。願ったことをなかったことにしないこと。すべての願いに行き着く場所をあげること。


そこには、リゼット自身がどこへ行くのかという問いだけが抜けていた。


古い紙片は、それを責めなかった。ただ、長い時間をかけて戻ってきた。まるで、ずっと閉じた本の間に挟まれていた栞が、ようやく開かれたように。


リゼットは納願帳の表紙を撫でた。


「明日、私は店を閉めます」


誰に告げるでもなく言う。


奥の棚の品々は沈黙している。表の棚の願具も、黒鉄の扉も、何も答えない。


けれど、その沈黙は反対ではなかった。


長いあいだ誰かの願いを受け止めてきた店が、今だけは管理人の小さな願いを黙って置いてくれている。


そう思えた。


その夜、奥の棚の前を通ると、いくつかの品がいつもより静かに見えた。


名残をほどく櫛も、後悔を届ける靴も、君を待つ時計も、何も言わない。ただ、黒布の下で息を潜めているようだった。


リゼットはそれらを見て、少しだけ不思議に思った。


これまで、納め物は客の願いとして帰ってきた。けれど今日帰ってきたのは、自分がかつて置いていった問いだった。壊せば願いは消えるのか。願ったことをなかったことにしたくない。その問いは、長い時間をかけて、客の願いと同じ棚の空気をまとって戻ってきた。


「リゼット、うれしい?」


モルが聞いた。


リゼットはすぐには答えられなかった。


嬉しい、というには痛い。悲しい、というには温かい。懐かしい、というにはまだ少し怖い。


「受け取った、という感じがします」


「受け取った」


モルはその言葉を繰り返した。


「リゼット、自分の納め物、受け取った」


「そうかもしれません」


リゼットは納願帳の表紙に手を置いた。


これまで何度も他人の願いを受け取ってきた手が、ようやく自分の過去から差し出されたものにも触れたのだと、その時初めて思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。