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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第三章 奥の部屋で待つもの

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最終話 満願堂の仕上がり

翌朝、満願堂はいつも通りの香りで満ちていた。


古い木。茶葉。昨夜閉じた本の頁。ステンドグラスを通る淡い光。火にかけた湯が、静かに音を立てる。


ただ一つ、いつもと違うものがあった。


扉の横に、休店札が掛けられるための小さな留め具が残っている。札そのものはカウンターの奥へ置かれていた。閉じたティーカップと月環と鍵の印は、まだ新しい。けれど、一度使われたことで、もうただの木片ではないように見えた。


リゼットはその札を見てから、モルへ声をかけた。


「モル」


「ん」


カウンターの上で丸くなっていたモルが顔を上げる。


「今日は開けましょう」


モルは眠そうに瞬きをした。


「今日は、開ける」


「はい」


「明日は?」


リゼットは扉の方を見た。


昨日、札が掛かっていた場所。通りすがりの人が立ち止まり、明日また来ようと言ってくれた場所。満願堂が閉まっても、世界が壊れなかった場所。


「明日は」


彼女は少し考えた。


「明日の願いを見てから」


モルは耳を動かした。


「毎日、開けない?」


「開ける日もあります」


「閉める日も?」


「あるかもしれません」


「探す日」


「ええ」


リゼットは微笑んだ。


「探す日です」


モルはしばらく考えた。


「満願堂、仕上がった?」


その問いは、朝の店内に小さく落ちた。


リゼットはすぐには答えなかった。


満願堂は、ずっと仕上がっていると思っていた。月環の堂が満願堂になった時。表の棚と奥の棚と奥の部屋が整った時。納願帳が置かれ、紅茶の香りが満ち、客が来るようになった時。


けれど、今なら少し違うと思う。


仕上がりとは、終わることではない。


願いが行き着く形を得ること。


そこから先に、何も変わらなくなることではない。


満願堂も、ようやく一つの形を得たのだ。


閉じても終わらない店。


リゼットが一人で開け続けなくても、満願堂でいられる店。


願いを納めるだけでなく、届くまで誰かが預かり、外で誰かが少し言葉を渡し、待つこともできる店。


「ええ」


リゼットは答えた。


「ようやく、少しだけ」


モルは満足したように尻尾を揺らした。


「少しだけ」


「はい」


「じゃあ、まだ?」


「まだ、でしょうね」


「いい?」


「ええ」


リゼットはカウンターの上のカップを整えた。


「まだでいいのだと思います」


最初に来たのは、ココだった。


「逓便局です、お届け物です!」


いつもの声が響く。腕には茶葉の包みと、古書が二冊。納め物はなかった。


ココは扉の横の留め具を見て、にこっと笑った。


「昨日、本当に閉まってましたね」


「はい」


「ちゃんと預かり棚も使えるようにして待ってたんですけど、納め物は来ませんでした」


「それは、よかったです」


「少し残念でもあります」


ロイが後ろから入ってきた。


「残念がることじゃない」


「でも、手順を試せなかったので」


「試すために納め物が来るわけではない」


「それはそうです」


ココは受け取り帳を出した。


モルが前足で印を押す。


今日は、少しだけまっすぐだった。


「モルさん、昨日お休みしたから印が上手になってます」


「休むと、うまい?」


「たぶん」


ロイが小さく笑った。


リゼットは署名をしながら、ロイを見た。


「昨日は、ありがとうございました」


「俺は何も」


「預かり手順も、札の位置も」


ロイは少しだけ視線を落とした。


「満願堂が開いていても、閉まっていても、道に迷わないようにしたかっただけです」


「助かりました」


その言葉は、今度はすぐに言えた。


ロイは顔を上げ、少しだけ安心したように頷いた。


次に、エリアスが来た。


いつもの白い服。白銀に近い髪。手には昨日と同じ白い詩集。


「今日は、いつもの席でいいのかしら」


「はい」


リゼットは微笑んだ。


「いつものお席へどうぞ」


エリアスは窓際へ向かった。


席に座り、本を開く。カップが置かれる。紅茶の香りが立つ。


いつもの光景だった。


けれど、昨日の外の光を知った後では、そのいつもの席も少し違って見えた。


エリアスは紅茶を一口飲み、静かに言った。


「今日は、ステンドグラスの味ね」


モルが首を傾けた。


「味?」


「昨日は葉の味だったでしょう」


「葉っぱ、食べた?」


「食べてはいないわ」


リゼットは思わず笑った。


笑い声は小さかったが、店内によく馴染んだ。


昼前、オルスが来た。


「札の留め具を見に来た」


「昨日は問題ございませんでした」


「見ないと分からん」


彼は扉の横へ行き、金具を確かめる。指で触り、軽く揺らし、満足したように鼻を鳴らした。


「まだ壊れてない」


「ありがとうございます」


「礼は壊れてからでいい」


そう言いながら、彼はカウンターの端へ工具袋を置いた。


「紅茶を一杯」


「珍しいですね」


「昨日閉まっていたからな」


「ご不便をおかけしました」


「不便だった」


オルスは素直に言った。


「だが、困りはしなかった」


その言葉は、リゼットの胸に静かに入った。


不便ではある。


けれど、困りはしない。


閉まることは、誰かに小さな不便をかける。けれど、それがすぐに願いを迷わせるわけではない。待つことも、預かることも、別の日に来ることもできる。


午後には、ロザが停留所の帰りに寄った。


「昨日は閉まっていたわね」


「はい」


「若い娘さんが、札を見て不思議そうにしていたわ」


「ご迷惑を」


「迷惑ではないわ」


ロザは紅茶を受け取り、少し笑った。


「待つ理由がある札だったもの」


モルがカウンターから顔を出す。


「ロザ、外で、においした」


「また言われたわね」


「待つにおい」


「そう」


ロザは窓の外を見た。


「待つことと止まることは違うって、私もまだ練習中よ」


リゼットは頷いた。


「私もです」


その言葉を、自然に言えた。


夕方、満願堂にはいつものように柔らかな光が落ちた。


昨日閉まっていたことを知らない客も来た。知っていて、今日また来た客もいた。何も変わっていないようで、少しだけ違う一日だった。


扉の横には留め具がある。


カウンターの奥には休店札がある。


納願帳には、リゼット自身の一行がある。


自分の行き着く場所を探す時間がほしい。


その願いは、まだ叶ったわけではない。


行き先が見つかったわけでもない。


けれど、探す時間は始まった。


夜、最後の客が帰った後、リゼットは扉の札を閉店へ返した。


いつもの閉店だった。


休店ではない。


けれど、閉じることが少し怖くなくなっていた。


モルがカウンターで丸くなった。


「リゼット」


「はい」


「明日、どうする?」


リゼットは窓の外を見た。


明日の天気は分からない。どんな客が来るかも、どんな願いが届くかも分からない。納め物が来るかもしれない。普通便だけかもしれない。紅茶だけの客が来るかもしれない。


分からない。


だから、明日になってから考えればいい。


「明日は」


リゼットは微笑んだ。


「明日の願いを見てから」


モルは満足そうに目を閉じた。


店内には、紅茶と古書の香りが残っている。


満願堂はまた開く。


けれど、もう一度閉じる日が来てもいい。


開くことも、閉じることも、探すことも、待つことも、少しずつ満願堂の形になっていく。


夜になり、満願堂の灯りを落とす前に、リゼットは休店札をもう一度手に取った。


昨日使ったばかりの札は、まだ新しい。木の香りも残っている。けれど、扉に掛けられ、通りの光を受け、人の視線に触れたことで、少しだけ満願堂のものになっていた。


リゼットは札をカウンターの下の棚へしまわなかった。


代わりに、扉の近くの小さな棚へ置いた。必要な時に、すぐ手に取れる場所。


それを見て、モルが言う。


「近い」


「ええ」


「また使う?」


「使う日もあるでしょう」


「探す日」


「はい」


「モル、店番する」


「お願いします」


「ロイ、皿」


「そうですね」


「ココ、紙」


「はい」


「オルス、釘」


「きっと嫌な顔をしながら直してくださいます」


モルは満足そうに尻尾を揺らした。


リゼットは笑った。


その笑いは、かつてより少し軽かった。


満願堂は、願いを納める場所として仕上がった。だが、それは閉じた完成ではない。これからも願いは来る。迷いも、返りも、仕上がりも来る。戻れない人も、戻る人も、納めずに持ち帰る人もいる。


そして時々、満願堂は閉まる。


それは終わりではない。


次に開くための、探す日。


リゼットは納願帳へ、その日のことを短く書いた。


初めて、探す日を持った。


それだけだった。


詳しく書こうと思えば、いくらでも書けた。エリアスの硬い椅子のこと。モルの毛についた草のこと。ロザの言葉。ロイの言葉。ココの丸い字。オルスの金具。ヴェルナーの手順。


けれど、その一行で足りる気がした。


すべてを書き尽くさなくても、願いはなくならない。


書き残すことと、抱え込み続けることは違う。


リゼットはペンを置いた。


少しだけ迷ってから、その下にもう一行を足す。


また、探す日を持ってもよい。


書いた瞬間、胸の奥で何かが小さく息をした。


一度だけの特別な出来事にしてしまえば、きっと楽だった。昨日は例外だったと言える。満願堂はこれからもいつも通り開くのだと、自分にも客にも説明できる。


けれど、それでは探す時間はまた遠くなる。


また探してもいい。


また閉じてもいい。


また開ければいい。


その繰り返しを、満願堂はこれから覚えていくのだろう。


モルが帳面を覗いた。


「増えた」


「はい」


「また、探す」


「ええ」


「いい」


モルはそれだけ言って丸くなった。


その短さが、今のリゼットには何より確かな許しのように聞こえた。


翌日の夕方、一人の旅人の女が紅茶を一杯だけ飲んで帰った。


包みの中身を見せることはなかった。願具を買うことも、魔願具を求めることもなかった。ただ、温かい紅茶を両手で包み、少しだけ泣きそうな顔をして、それから礼を言った。


「また来てもいいですか」


「もちろんです」


リゼットは答えた。


「願いがあっても、なくても」


女は少し驚き、それから頷いた。


満願堂は、願いがある人だけの場所ではない。


願いになる前のものを抱えた人も、願いを閉じる前の人も、ただ温かいものを飲みたい人も来る。


リゼットはそのことを、前より少しだけ分かっていた。


閉店後、扉の外には夜の月環街が広がっている。


リゼットは扉を閉じ、内側から鍵をかけた。


その音はいつもと同じだった。


けれど、その響きは少し違って聞こえた。


閉じる音ではなく、また開けるための音。


リゼットはカウンターへ戻る。


モルはもう丸くなっていた。首元の鍵が、呼吸に合わせて小さく揺れている。


満願堂の奥では、たくさんの願いが眠っている。


表の棚では、明日の小さな願具たちが静かに待っている。


扉の近くには、休店札がある。


リゼットは最後の灯りを消す前に、店内を見回した。


ここが自分の場所であることは変わらない。


けれど、ここだけが自分の行き先ではないかもしれない。


その答えは、まだ見つかっていない。


でも、探す日がある。


それで、今は十分だった。


翌朝、満願堂はまた開いた。


休店札は掛かっていない。けれど扉のそばに置かれたその札は、いつでも手に取れる場所にある。閉じる日があることを隠さないように。開く日が当たり前すぎて、自分を置き去りにしないように。


リゼットは湯を沸かし、茶葉を量り、カップを温めた。


モルがカウンターの上で欠伸をする。


「今日、開いてる」


「はい」


「探す日は?」


「また、いつか」


「いつか」


モルはその言葉を気に入ったように尻尾を揺らした。


扉の鈴が鳴った。


入ってきたのは、若い旅人だった。手には小さな包みを抱えている。困ったように、けれどどこか切実な目をしていた。


リゼットはその目を見て、いつものように、けれど昨日までとは少しだけ違う心で頭を下げた。


満願堂は開いている。


けれど、開いていることだけが、満願堂のすべてではない。


閉じる日も、待つ日も、探す日も、いつかまた来る。


だからこそ、今日ここへ来た人を迎えられる。


モルが顔を上げる。


「おきゃくさま」


リゼットは微笑み、入口へ向かって言った。


「いらっしゃいませ」


声はいつもと同じように柔らかかった。


けれど、その日の光は、以前より少しだけ晴れていた。


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