第九十四話 モルの店番、もう一度
モルは、二度目の店番を任された。
一度目の店番は、湯沸かしが壊れた日だった。リゼットはオルスのところへ修理に行き、モルは冷めても香るお茶と焼き菓子だけで、どうにか満願堂を開けた。
あの日、モルは店番をした。
だが、リゼットは休んでいなかった。
店を開けるために外へ出ていただけだった。
二度目は、少し違った。
「ほんの半刻ほどです」
リゼットは言った。
「奥の棚の帳面を、ヴェルナーさんへお見せしに行きます。戻ってまいりますので、無理はしないでください」
「モル、できる」
モルはカウンターの上で胸を張った。
今回は準備があった。
火を使わないお茶。焼き菓子。受け取り印。願具を売らないための札。奥の棚へ触らせないための小さな衝立。ロイが並べたカップ。ココが書いた「本日は簡単なお茶のみです」の紙。
オルスが直した棚の金具は、以前よりしっかりしている。
エリアスはいつもの席に座り、静かに本を開いていた。
「何かあれば、私もいます」
彼女はそう言った。
モルは真剣に頷いた。
「エリアス、いる」
「ええ」
「ロイも、来る」
「たぶん」
「ココも、来る」
「きっと」
リゼットは少しだけ笑った。
「では、お願いします」
「まかせて」
モルは前足でカウンターを軽く叩いた。
リゼットが店を出ると、満願堂には一瞬だけ静けさが落ちた。
その静けさは、一度目より怖くなかった。前は、リゼットのいない満願堂が少し大きく見えた。今も大きい。けれど、どこに何があるか、モルは少しだけ分かっている。
受け取り印はここ。クッキーは一人一枚。お茶はロイが来たら注いでもらう。奥の棚は触らせない。願具は売らない。困ったらエリアスを見る。
モルは自分の首元の鍵を前足で押さえた。
「モル、店番」
最初に来たのは、やはりロイだった。
扉を開けるなり、彼は店内を見回した。
「リゼットさんは?」
「ヴェルナー」
「局長補佐のところへ?」
「帳面」
「そうか」
ロイは少しだけ緊張を解いた。
「手伝うことはあるか」
「ある」
モルはすぐに言った。
「お茶」
「分かった」
ロイは以前より自然にカウンターの内側へ入らなかった。まずモルを見て、エリアスを見て、それから一歩だけ入る。
「ここまでならいいか」
「いい」
「リゼットさんには?」
「モルが、いいって言った」
ロイは少し笑った。
「責任重大だな」
「じゅうだい」
モルは意味を完全には分かっていない顔で頷いた。
ロイが陶器の瓶からお茶を注いでいると、ココが来た。
「逓便局です、お届け物です!」
いつもの声だったが、店内を見てすぐに耳が跳ねる。
「モルさん、二度目の店番ですね!」
「うん。二度目」
「すごいです。前より準備が本格的です」
「ココの紙」
モルがカウンターの上の紙を示す。
ココは嬉しそうに胸を張った。
「分かりやすく書きました」
ロイが横から言う。
「少し丸文字だがな」
「親しみやすいと言ってください」
「親しみやすい丸文字だ」
「それならよしです」
モルは二人を見比べた。
「逓便、今日もにぎやか」
「満願堂も今日はにぎやかです」
ココは受け取り帳を差し出した。
「普通便です。納め物はありません」
「今日は、ない」
モルは短く言った。
ココは少し驚いた。
「分かるんですか」
「今日は、ない」
モルはもう一度言った。
エリアスが本から顔を上げる。
「モルがそう言うなら、今日はきっと普通の日ね」
「普通の日」
モルはその言葉を気に入ったようだった。
午前が過ぎ、昼が来た。
願具を見に来た客が一人いたが、モルは札を前足で押した。
「今日は、売らない」
「どうして?」
「リゼット、いない」
「見るだけなら?」
モルはしばらく考えた。
「見るだけ。触らない」
客は少し笑い、棚を眺めただけで帰った。
ロイは感心したように言った。
「前より店番らしいな」
「前も、店番」
「そうだった」
「今は、もっと店番」
「それは確かだ」
午後、オルスが顔を出した。
工具袋を肩にかけ、いつものように少し不機嫌そうな顔をしている。
「リゼットは?」
「ヴェルナー」
「また古い帳面か」
オルスは店内を見回した。
「棚は傾いてないな」
「オルス、直した」
「俺が直したからな」
「えらい」
「お前に褒められてもな」
そう言いながら、オルスはカウンターの端の少し緩んだ釘を見つけ、勝手に締めた。
「そこ、ぐらぐら」
モルが言う。
「もう直した」
「オルス、店番?」
「違う」
「でも、直した」
「直すのは俺の仕事だ」
エリアスが静かに微笑んだ。
「今日は皆さん、少しずつ店番なのね」
その言葉に、店内が一瞬だけ静かになった。
ロイはカップを洗っている。ココは紙袋の口を結んでいる。オルスは釘を締めている。エリアスはいつもの席で本を読んでいる。モルはカウンターの上で受け取り印の横にいる。
リゼットはいない。
それでも、満願堂は閉じていない。
その事実が、以前よりはっきり形になっていた。
夕方前、リゼットが戻ってきた。
扉の鈴が鳴ると、モルはぱっと顔を上げた。
「リゼット」
「ただいま戻りました」
リゼットは店内を見回した。
洗われたカップ。整えられた焼き菓子の皿。斜めではない受け取り印。奥の棚の前の衝立。直された釘。いつもの席のエリアス。少しだけ誇らしげなココ。真面目な顔でカップを拭いているロイ。工具袋をしまうオルス。
そして、胸を張るモル。
「モル、店番した」
「ええ」
リゼットはゆっくり微笑んだ。
「たいへん立派でした」
「もっと店番」
「そうですね」
リゼットはカウンターに手を置く。
「今日は、満願堂を皆さんに預ける練習になりました」
ロイが静かに顔を上げた。
ココはにこにこしている。
オルスは鼻を鳴らした。
「練習で釘まで締めさせるな」
「助かりました」
「礼を言われるほどのことじゃない」
エリアスは本を閉じた。
「いつもの席は、今日もいつもの席でした」
リゼットは彼女を見た。
「リゼットさんがいない間も?」
「ええ」
エリアスは穏やかに言った。
「少し違ったけれど、壊れてはいなかったわ」
その言葉は、満願堂の棚よりも深いところへ届いたようだった。
夜、店を閉めた後、リゼットはカウンターに残った紙を見た。
ココの丸い文字。ロイの整ったカップ。オルスが締めた釘。エリアスが置いた栞。モルの前足の跡。
満願堂は、リゼット一人の手だけでできているわけではない。
そのことを、店の中の小さなものたちが静かに示していた。
モルはカウンターで丸くなり、眠そうに言った。
「リゼット、また店番する」
「ええ」
リゼットは灯りを落としながら答えた。
「その時は、お願いします」
「まかせて」
モルの声は、すぐに寝息へ変わった。
リゼットはしばらく、その小さな音を聞いていた。
休むためではない店番から、探すための店番へ。
満願堂は、少しずつ形を変え始めていた。
店番の途中で、若い男が一人やって来た。
見慣れない客だった。身なりは悪くないが、目元が落ち着かない。表の棚の願具を見て、奥の棚を見て、カウンターの向こうにリゼットがいないことに気づくと、少し戸惑った顔をした。
「管理人の方は?」
「いない」
モルが答える。
男は目を丸くした。
「え、喋るのか」
「喋る」
「そうか……」
男は気を取り直したように棚を指した。
「願いを叶える品が欲しいんだが」
モルは前足で札を押した。
「今日は、売らない」
「少しだけでも?」
「リゼット、いない」
「管理人がいないと駄目なのか」
「うん」
モルは短く答えた。
ロイが横から静かに言う。
「願具は、説明を聞いてからでないと扱えません」
男は少し不満そうだった。
「なら、明日来ればいいのか」
「はい」
ロイが答える。
「今日は紅茶だけなら出せます」
「紅茶だけ?」
男は拍子抜けした顔をした。
満願堂へ来る者の中には、紅茶だけと言われてがっかりする者もいる。願いを持って来た人間にとって、座ることや飲むことは遠回りに見えるのだろう。
モルは男を見上げた。
「願い、急ぐ?」
男は言葉に詰まった。
「急いでいる、と思う」
「じゃあ、座る」
「急いでいるなら、座るのか?」
「うん」
モルは当然のように頷いた。
「走ると、こぼす」
ロイは笑いをこらえた。
男はしばらく迷い、結局席に座った。ロイが簡単なお茶を出す。男は願具を買わずに、しばらくカップを見つめていた。
帰る時、彼は棚をもう一度見た。
「明日、来るかもしれない」
「来るかも」
モルが言う。
「来ないかも」
「どっちだ」
「まだ」
男は困ったように笑い、店を出ていった。
リゼットが戻った後、モルはその話をした。
「願い、急いでた」
「買われましたか」
「買ってない」
「そうですか」
「座った」
リゼットは少しだけ目を細めた。
「それは、よい店番でしたね」
「願具、売ってない」
「売らないことも、満願堂の仕事です」
モルはその言葉を気に入ったようだった。
「モル、売らない店番」
「ええ」
リゼットは微笑む。
「たいへん大切です」
その場にいたロイは、胸の奥でその言葉を覚えた。
満願堂は、願いを叶える店ではない。
時には、願いを一晩だけ待たせる店でもある。




