第九十三話 エリアスのいつものもの
エリアスは、いつもの席を大切にしていた。
満願堂の窓際。ステンドグラスの淡い光が、朝には青く、昼には橙に、夕方にはほとんど白く落ちる席。テーブルの右端には小さな傷があり、カップを置く場所は自然に決まっている。
そこに白い表紙の詩集を置き、いつもの紅茶を飲む。
それがエリアスの一日だった。
変わらない日々。変わらない席。変わらない本。変わらない紅茶。変わらない自分。
かつてそれを願ったのは、エリアス自身だった。今では、その願いの細かな始まりは遠い。どうしてそこまで変わりたくなかったのか、何がそんなに怖かったのか、輪郭は薄れている。
ただ、満願堂のこの席に座ると、心は静かだった。
だから、リゼットがその問いを口にした時、エリアスは少しだけ本から顔を上げた。
「エリアスさん」
「ええ」
「もし、満願堂が一日お休みになったら、エリアスさんはお困りになりますか」
モルがカウンターの上で耳を動かした。
ロイはちょうど普通便を届けに来ていて、受け取り帳を開いたまま動きを止めた。ココならきっと、すぐに「休むんですか」と聞いただろう。ロイは聞かなかった。ただ、リゼットの背を見ていた。
エリアスは本を閉じた。
問いは簡単なようで、簡単ではなかった。
満願堂が休む。
この席に座れない。
いつもの紅茶を、いつものカップで飲めない。
いつもの光を、いつもの角度で見られない。
それは、エリアスにとって小さな出来事ではないはずだった。
けれど、彼女はすぐには不安にならなかった。
そのことに、エリアス自身が少しだけ驚いた。
「いつもの紅茶は」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「次の日でもいいわ」
リゼットが静かに目を上げた。
「よろしいのですか」
「ええ」
エリアスはカップを持ち上げた。
「冷めた紅茶は、少し残念だけれど、次の日の紅茶は冷めた紅茶ではないもの」
モルが首を傾けた。
「次の日、いつもの?」
「そうね」
エリアスは微笑んだ。
「次の日に飲むなら、その日のいつもの紅茶ね」
モルは難しそうな顔をした。
「むずかしい」
「私にも、少し難しいわ」
エリアスはそう言って、窓の外を見た。
昔の自分なら、そうは思えなかったかもしれない。いつものものは、少しでも違えば壊れると思っていた。だから変わらないことを願った。変わらない自分になった。
けれど、満願堂で長く同じものを重ねているうちに、少しだけ分かったことがある。
いつものものは、場所だけではできていない。
この本。紅茶の香り。リゼットの声。モルの小さな足音。カップに触れる指の温度。頁をめくる時に、自分がまだその言葉を読めること。
それらがあるなら、場所が少し違っても、完全に別物にはならないのかもしれない。
「いつもの席でなければ、いつものものではないと思っていました」
エリアスは言った。
「でも、いつものものがあるなら、場所が少し違っても、いつもどおりかもしれないわ」
リゼットは黙っていた。
その沈黙は驚きに近かった。
「エリアスさんは」
リゼットが静かに言う。
「変わらないことを望まれました」
「ええ」
「それでも、場所が違ってもよいと?」
エリアスは少しだけ笑った。
「私は、変わらないことを願ったけれど、椅子に釘で打ちつけられたわけではないもの」
モルが目を丸くした。
「くぎ?」
「たとえよ」
「いたい」
「そうね。痛そうね」
ロイは思わず小さく笑った。
リゼットも、ほんの少しだけ微笑んだ。
その微笑みを見て、エリアスはカップを置いた。
「リゼットさん」
「はい」
「満願堂がお休みになるなら、私は次の日に来ます」
「ありがとうございます」
「でも、もしあなたが外で紅茶を淹れてくださるなら」
エリアスは少しだけ首を傾けた。
「その日も、いつものものになるかもしれないわ」
リゼットは何も言わなかった。
代わりに、カウンターの上の茶器を見た。満願堂の中で淹れる紅茶。客のために注ぐ紅茶。願いを聞く前に、少しだけ人を座らせるための紅茶。
それを外へ持ち出すという考えは、今まで彼女の中にほとんどなかったのだろう。
モルがカウンターから降り、エリアスの席へ近づいた。
「エリアス、外、こわい?」
「少し」
エリアスは正直に答えた。
「でも、モルがいるなら、少し平気かもしれないわ」
「モル、いる」
モルは胸を張った。
「リゼットも、いる」
「そうね」
エリアスは白い詩集の表紙を撫でた。
「本もあるなら、きっと大丈夫」
ロイはその会話を聞きながら、少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じた。
エリアスは仕上がった人だ。変わらない願いの先にいる人だ。その彼女が、場所が少し違ってもいつものものは残ると言った。
それは、リゼットにとっても大きな言葉のはずだった。
満願堂は場所だ。
けれど、満願堂を満願堂にしているものは、場所だけではない。
その日の夕方、エリアスはいつも通り本に栞を挟んだ。
「今日はここまで」
「明日も同じ頁からですか」
リゼットが尋ねる。
「ええ。明日が開いていれば」
「開いております」
「なら、いつもどおりね」
エリアスは立ち上がる。
その動きはいつもと同じだった。白い服。白銀に近い髪。静かな足取り。
けれど、扉へ向かう前に、彼女は少しだけ窓の外を見た。
満願堂の外の光を、初めて席からではなく、行き先として見ているようだった。
リゼットはその背を見送った。
モルが足元で言った。
「エリアス、ちょっと外」
「ええ」
「リゼットも?」
リゼットはすぐには答えなかった。
だが、カウンターの上の茶器へ手を伸ばしながら、小さく言った。
「いつか」
その声を、ロイは聞いた。
いつか。
リゼットが自分のための未来を、ほんの少しだけ口にした。
それだけで、満願堂の光がいつもより少し違って見えた。
エリアスは、変わらないことを願った日のことを、ほとんど覚えていない。
けれど、少しだけ残っているものがある。
鏡を見るのが怖かったこと。朝が来るたび、自分の輪郭が昨日と違っている気がしたこと。誰かに「少し痩せた?」と言われただけで、その言葉が一日中耳から離れなかったこと。
変わることは、当時のエリアスにとって、失うことだった。
だから、変わらない場所を欲しがった。
変わらない自分。変わらない席。変わらない本。変わらない紅茶。
満願堂は、それを与えた。
あるいは、エリアス自身がそれへ仕上がった。
長い間、それでよかった。
今でも、悪いとは思っていない。変わらないことは、彼女に静けさをくれた。痛みを遠くし、不安を眠らせ、時間の流れから少しだけ彼女を守った。
けれど、満願堂で同じ紅茶を何度も飲んでいると、不思議なことに気づいた。
同じ茶葉でも、日によってほんの少し味が違う。
雨の日は香りが重い。晴れた日は渋みが軽い。リゼットが少し考えごとをしている日は、湯を注ぐ間がわずかに長い。モルがカウンターで眠っている日は、店内の音が少し柔らかい。
それでも、エリアスはそれを「いつもの紅茶」と呼んでいた。
なら、いつものものとは、寸分違わないことではないのかもしれない。
少し違っても、自分がそこへ戻れると分かるもの。
違いを含めて、また受け取れるもの。
そう思えるようになったのは、満願堂で長く過ごしたからだった。
エリアスはリゼットを見た。
リゼットは、自分よりずっとたくさんの変わる願いを見てきた人だ。願いが澄み、返りが出て、納まり、仕上がるところを見てきた人だ。
その人が、自分のための一日の違いに怯えている。
少し不思議で、少し愛おしいことだった。
「リゼットさん」
エリアスは言った。
「いつものものは、壊れものではないのかもしれないわ」
リゼットは彼女を見る。
「壊れものではない?」
「ええ」
エリアスは詩集の表紙を撫でた。
「少し動かしたくらいで壊れるなら、私はきっと、ここで何度も壊れていたはずだもの」
モルが床で小さく鳴いた。
「エリアス、こわれてない」
「そうね」
彼女は微笑んだ。
「まだ、ここにいるわ」
その言葉は、リゼットにも向けられていた。
リゼットは、すぐには答えなかった。
けれど、紅茶のおかわりを注ぐ手が、いつもより少しだけゆっくりになった。




