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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第三章 奥の部屋で待つもの

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第九十二話 ロイの言葉

ロイは、何度も言葉を選び直した。


逓便局から満願堂までの道は、もう慣れている。石畳の細い通り、古書店の角、雨の日に水がたまりやすい窪み、夕方になると菓子屋の甘い匂いが流れてくる場所。目を閉じても歩けるほどではないが、足が迷うことはない。


それなのに、その日は店の前で立ち止まった。


扉の上には、文字のない看板がある。ティーポット、古書、小さな鍵。何度見ても、茶房の看板に見える。けれど、鍵の中央にある細い線が、ふと閉じた目のように見えることを、ロイはもう知っていた。


今日は配達ではない。


普通便も、納め物もない。


客として、話をしに来た。


その事実だけで、手袋の中の指が少し強張った。


扉を開けると、鈴が鳴った。


「いらっしゃいませ」


リゼットの声がした。


いつもの声だった。やわらかく、丁寧で、誰に向けても同じ温度を持つ声。ロイはその声に、何度も背筋を伸ばされた。何度も、少しだけ苦しくなった。


モルがカウンターの上から顔を出す。


「ロイ、荷物ない」


「ああ。今日は客だ」


「手伝う客?」


「今日は、手伝わない客のつもりだ」


「変」


「どっちでも変なのか」


モルは尻尾を揺らすだけだった。


リゼットは紅茶を淹れた。


ロイはカウンターに近い席へ座る。窓際にはエリアスがいた。いつもの白い本を開いている。彼女はロイを見て、ほんの少し微笑んだだけで、また頁へ視線を戻した。


紅茶が置かれる。


「今日は、お仕事ではないのですね」


「はい」


ロイはカップに触れた。


熱い。熱があると分かるものは、少し助かった。今、自分がここにいることが分かる。


「リゼットさん」


「はい」


言葉は、そこで一度止まった。


満願堂を休ませたいわけではない。満願堂がなくなればいいと思っているわけでもない。リゼットをどこかへ連れ出したいわけでもない。


そう言えば言うほど、まるで言い訳のようになる気がした。


リゼットは急かさなかった。


その待ち方が、またロイを困らせた。彼女は客の願いを待つことに慣れている。けれど、今、自分が言おうとしているのは願いなのか、頼みなのか、ただの身勝手なのか分からなかった。


「俺は」


ロイはようやく言った。


「満願堂を閉めてほしいわけじゃありません」


リゼットは静かに聞いている。


「ここが必要な場所だということは、分かっています。納め物も、願具も、奥の棚も、俺には全部は分かりません。でも、ここへ来た人の顔が少し変わることは見てきました」


彼はカップから手を離した。


「だから、満願堂を否定したいわけじゃないんです」


「はい」


「ただ」


声が少し硬くなる。


「リゼットさん一人が、ずっと開け続けなくてもいいようにしたいんです」


言ってしまうと、店内の音が少し遠くなった。


カップの中で紅茶が揺れる音。エリアスが頁をめくる音。モルがカウンターの上で前足を動かす音。全部が、少しだけ遠い。


リゼットは答えなかった。


ロイは続けるしかなかった。


「逓便局で納め物を預かる手順を作りました。ココさんも、ヴェルナー局長補佐も、真面目に考えています。オルスさんも、店の道具なら直せる。モルさんは店番ができます。エリアスさんは、いつもの紅茶を待てるかもしれない」


エリアスが窓際で少しだけ顔を上げた。


ロイは気づいたが、止まらなかった。


「全部をリゼットさんが持たなくても、少しずつ持てる人がいると思います」


リゼットは、カウンターの内側で立ったままだった。


彼女の姿はいつもと変わらない。黒髪は低くまとめられ、生成りのエプロンは皺ひとつない。胸元の月環のペンダントは静かに光っている。


だが、その静けさが、ロイには少し怖かった。


「ロイさん」


リゼットが口を開いた。


「お気遣い、ありがとうございます」


その言葉は丁寧だった。


丁寧すぎた。


ロイは、思わず首を横へ振った。


「気遣いだけではありません」


リゼットの目が、ほんの少し揺れた。


ロイは自分の声が熱くなるのを感じた。ここで好きだと言えば、すべてが違う話になってしまう。それは本当だ。彼女を美しいと思う。声を聞きたいと思う。客ではない時にも会いたいと思う。


けれど、今言うべきことはそこではなかった。


「俺は、リゼットさんを満願堂の管理人としてだけ見たくありません」


言ってから、息を吸った。


「管理人としてのリゼットさんが、ここに必要なのは分かります。でも、それだけじゃないはずです」


モルが静かにカウンターから降りた。


エリアスは本を閉じていた。


リゼットは、何かを言おうとして、言わなかった。


その沈黙は長かった。


やがて彼女は、いつもの微笑みに戻ろうとした。だが、その形は少しだけ遅れた。


「私は、満願堂におります」


「はい」


ロイは頷いた。


「でも、それは満願堂の場所です。リゼットさん自身の行き先ではありません」


同じ言葉を、前にも言ったことがある。けれど今日は、もっとはっきり届いた気がした。


リゼットはカウンターの上に置かれた納願帳を見た。


そこには、たくさんの願いが書かれている。願いが迷わないように。忘れられないように。行き着く場所を持てるように。


だが、その帳面の中に、リゼット自身の行き先はまだない。


「私は」


リゼットは小さく言った。


「どこへ行きたいのでしょうね」


それは、問いだった。


ロイに向けたものではない。モルに向けたものでもない。おそらく、リゼット自身に向けた問いだった。


ロイは、すぐに答えなかった。


答えてはいけない気がした。


「分からなくても、いいと思います」


しばらくして、彼は言った。


「分からないから、探すんだと思います」


モルがリゼットの足元に来た。


「さがす」


リゼットはモルを見下ろした。


「ええ」


その声は、いつもより少しだけ弱かった。けれど、弱いまま店内に落ちても、満願堂は壊れなかった。


エリアスが静かに言った。


「探す時にも、紅茶はあった方がいいわ」


リゼットは驚いたように彼女を見る。


エリアスは微笑んだ。


「いつものものがあると、知らない場所も少しだけ怖くないもの」


ロイはその言葉に救われた。


リゼットも、少しだけ救われたように見えた。


その日、ロイは紅茶を最後まで飲んだ。


味はよく分からなかった。緊張していたからだ。けれど、カップを置いた時、自分が今日ここへ来たことは間違いではなかったと思えた。


帰り際、リゼットは扉のところまで見送った。


「ロイさん」


「はい」


「ありがとうございます」


それは、先ほどの丁寧な礼とは少し違っていた。


管理人としてではなく、一人の人として受け取った礼のように聞こえた。


ロイは深く頭を下げた。


「また、来ます」


「お待ちしております」


いつもの言葉だった。


けれど、その日は少しだけ違って聞こえた。


満願堂の外へ出ると、夕方の空が淡く晴れていた。


ロイは振り返らなかった。


振り返れば、また言い残したことが増えてしまう気がした。


それでも胸の中には、言えなかった言葉よりも、言えた言葉の方が残っていた。


リゼットさん一人が、ずっと開け続けなくてもいいようにしたい。


その願いは、まだどんな形にもなっていない。


けれど、ロイはそれを持ったまま、逓便局へ戻った。


ロイは、自分の言葉が願いになってしまうことを少し恐れていた。


満願堂では、言葉はただの言葉では終わらないことがある。納願帳に書かなくても、強く澄めば、どこかの品に染みてしまうことがある。願いは、気を抜くと形を欲しがる。


リゼットさんを助けたい。


その言葉は美しいようで、危うい。


助けたいと言いながら、自分の方を見てほしいだけではないのか。満願堂から少しでも離れたリゼットを、自分が最初に見たいだけではないのか。彼女を人として見ると言いながら、結局、自分の願いの中へ閉じ込めようとしていないか。


ロイは何度もそれを考えた。


だから、言葉を急ぎたくなかった。


けれど、何も言わなければ、リゼットはまたいつものように笑って、すべてを自分の役目として受け取ってしまう。


その方が、もっと怖かった。


リゼットはロイの沈黙を聞いていた。


客の沈黙を待つ時のように、ただ待っていた。けれどその静けさは、いつもより少しだけ不慣れに見えた。自分へ向けられた言葉を待つことに、彼女は慣れていないのかもしれない。


「ロイさんは」


リゼットが静かに聞いた。


「それを、願っていらっしゃるのですか」


ロイは答えに詰まった。


願い。


その言葉を満願堂で聞くと、いつもより重くなる。


「はい」


彼は正直に言った。


「でも、願具にしたいわけではありません」


モルが耳を動かした。


「願具じゃない?」


「たぶん」


ロイは苦笑した。


「俺が自分で持っていなければならない願いです」


リゼットはロイを見た。


「持つのは、重いこともございます」


「はい」


「返りも、あるかもしれません」


「それでも」


ロイは小さく息を吸った。


「リゼットさんを満願堂から奪う願いには、したくありません」


言ってから、少しだけ顔が熱くなった。


だが、言い直さなかった。


リゼットはその言葉を、長く聞いていた。


そして、ほんの少しだけ目を伏せた。


「奪わない願い」


「はい」


「難しいですね」


「難しいです」


ロイは認めた。


モルが二人の間に入るように座り、短く言った。


「でも、におい、にごってない」


ロイは驚いてモルを見た。


リゼットも、少しだけ目を丸くした。


モルは尻尾を揺らす。


「まだ、かたい。でも、にごってない」


その判定が良いのか悪いのか、ロイには分からなかった。


けれど、少なくともモルは嫌がっていない。


それだけで、少し息がしやすくなった。


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