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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第三章 奥の部屋で待つもの

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第九十一話 預かる人たち

満願堂が休むかもしれない。


その話を最初に聞いた時、ココは耳をぴんと立てた。


「休む?」


月環街逓便局の仕分け場で、ココは抱えていた茶葉の包みを落としかけた。ロイが横から手を伸ばし、包みを支える。


「落とすな」


「落としてません」


「今、落ちかけた」


「休むって聞いたので」


ココは真面目な顔で言った。


満願堂は、いつも開いている場所だった。朝に行けば紅茶の香りがし、昼に行けば古書の頁をめくる音があり、夕方にはステンドグラスの色が床に伸びている。満願堂が閉まっているところを、ココはほとんど想像できなかった。


ロイも同じだった。


ただ、彼はココほど声に出さなかった。伝票を揃えながら、いつもより少しだけ眉を寄せている。その顔を見て、ヴェルナー・グレイスは低く言った。


「騒ぐな。休店は異常ではない」


「でも、満願堂ですよ」


ココが言う。


「納め物が来たら、どうするんですか」


ヴェルナーは、その問いを待っていたように机の上へ古い帳面を置いた。


「そのための手順を作る」


帳面の表紙には、逓便局の紋章が押されていた。月環、扉、閉じた目。普段見慣れた印なのに、その日だけは少し古く見えた。


「満願堂が閉まっている日に納め物が届いた場合、逓便局で一時的に預かる。預かるだけだ。納めるのではない。開けるのでもない。中身を確認するのでもない」


ヴェルナーは一語ずつ区切った。


「預かり札を作る。封蝋を確認する。納め札の紐が緩んでいないか見る。保管棚は北側の小室を使う。鍵は私と当番責任者だけが持つ」


ココは耳をさらに立てた。


「満願堂の納め物を、逓便局で預かるんですか」


「届くまで守る。それも逓便の仕事だ」


ヴェルナーの声は硬かった。


けれど、そこには恐れだけではないものがあった。長く満願堂と関わってきた者の、慎重な敬意だった。


ロイは帳面を見つめた。


「リゼットさんは、これを了承されたんですか」


「した」


「すぐに?」


ヴェルナーはわずかに目を細めた。


「すぐではない」


ロイは黙った。


その沈黙の中に、満願堂のカウンターで少しだけ考えるリゼットの姿が浮かんだ。リゼットは、他人の願いを迷わせないために、いつも店を開けている。休むという話になれば、一番先に納め物のことを考えるだろう。


だから、手順が必要だった。


気持ちではなく、手順。


ヴェルナーらしい支え方だった。


その日の午後、三人は北側の小室を整えた。


古い木棚を空け、棚板の歪みを確認し、黒布を敷く。封蝋が欠けないよう、荷を置く位置に細い線を引く。扉には新しい鍵をつけた。ココは預かり札の控えを何度も書き直した。


「字が硬いな」


ロイが言うと、ココは耳で抗議した。


「大事な札なので、真面目に書いてるんです」


「いつも真面目ではないみたいな言い方だな」


「僕はいつも真面目です」


「そうだったか」


「そうです」


ヴェルナーは二人のやり取りを聞きながら、棚の位置を直した。


「雑談はいい。納め札の確認手順を言え」


ココはすぐに背筋を伸ばした。


「黒い紐、暗い赤の封蝋、月環と扉と閉じた目の紋章、納め札の名前と行き先を確認します。中身は見ません。揺らしません。勝手にほどきません」


「ロイ」


「受領時刻、預かり担当者、封蝋状態、引き渡し予定を記録します。満願堂開店後、リゼットさんへ直接渡します」


「よろしい」


ヴェルナーは短く言った。


ココは少しだけ嬉しそうに耳を動かした。


「逓便局が満願堂の代わりになるわけではない」


ヴェルナーは続けた。


「勘違いするな。ここは納める場所ではない」


「はい」


「だが、満願堂へ届くまでの道が必要になる時もある。願いは、届くまでにも迷う」


ロイはその言葉を胸の中で繰り返した。


満願堂へ届けることだけが、願いを迷わせない方法ではない。


届くまで守ることもある。


その日の夕方、ロイとココは満願堂へ向かった。


リゼットはカウンターの奥で茶器を拭いていた。モルは受け取り印のそばで丸くなっている。いつも通りの光景だった。


「逓便局です」


ココが言うと、モルが顔を上げた。


「ココ。ロイ」


「今日は普通便です。あと、預かり手順の控えを持ってきました」


ココは丁寧に折った紙を差し出した。


リゼットは両手で受け取った。


「ありがとうございます」


その声はいつも通りだった。だが、ロイはまた一瞬だけ見てしまった。紙を受け取る指が、ほんの少しだけためらったことを。


「ご負担ではありませんか」


ロイは思わず聞いた。


リゼットは顔を上げる。


「どなたの?」


「逓便局の、です」


「いいえ。ヴェルナーさんが、たいへん丁寧に考えてくださいました」


「リゼットさんのご負担は」


その問いに、カウンターの上のモルが耳を動かした。


リゼットはすぐには答えなかった。


「私の負担ではございません」


彼女は静かに言った。


「納め物が迷わないための、別の道です」


ロイは、その答えが少しだけずれていると思った。


けれど、そのずれを責める言葉はまだ持っていなかった。


モルが紙を嗅ぐ。


「逓便のにおい」


「はい」


ココが胸を張る。


「満願堂さんがお休みの日は、逓便局が少しだけ先輩です」


モルは首を傾けた。


「ココ、せんぱい?」


「はい。預かりの先輩です」


「じゃあ、えらい」


「ありがとうございます!」


リゼットはそのやり取りを見て、少しだけ微笑んだ。


その微笑みは、安心に似ていた。けれど、慣れていない表情でもあった。


その夜、満願堂の奥の棚はいつも通り静かだった。


納め物はまだ満願堂へ届く。願いはまだここへ帰ってくる。


けれど、届くまでの間に、少しだけ守ってくれる人たちがいる。


リゼットは預かり手順の控えを納願帳の横へ置いた。


モルがその上に前足をのせる。


「リゼット、だいじ?」


「ええ」


「満願堂じゃないのに?」


「満願堂へ続く道ですから」


モルは納得したように、していないように尻尾を揺らした。


リゼットは紙をもう一度見た。


そこには、ヴェルナーの硬い字と、ココの少し丸い字と、ロイのまっすぐな字が並んでいた。


願いは、まだ満願堂へ届く。


けれど、満願堂だけが、願いを持つ手ではない。


そのことを認めるには、リゼットにはまだ少し時間が必要だった。


預かり棚を整えたあと、ヴェルナーは古い封筒を一つ持ってきた。


もちろん本物の納め物ではない。研修用に残された空の包みだった。黒い紐も封蝋も模造で、納め札にも何も書かれていない。


「これを使う」


「練習ですか?」


ココが少し嬉しそうに言うと、ヴェルナーは厳しい顔を崩さず頷いた。


「練習で失敗しておけ。本物で失敗するな」


ココは両手で包みを受け取り、棚へ置いた。置いて、すぐに手を離そうとして、また少し位置を直した。ロイはそれを見て、帳面に時刻を書き込む。


「封蝋状態、異常なし。紐、緩みなし。担当、ココさん」


「さんはいりません」


「普段の癖だ」


「公式文書ですよ」


「ココさんが言うのか」


ヴェルナーは咳払いした。


「預かるということは、持っているということではない」


二人は顔を上げた。


「荷を預かる者は、荷の主人ではない。中身を想像しすぎるな。自分のもののように守るな。自分のものではないと分かったうえで、傷つけずに渡せ」


その言い方は、いつもの荷物の話よりも少し重かった。


ロイは、満願堂のカウンターを思い出した。リゼットが納め物を受け取る時、彼女はいつも両手で持つ。大切に扱う。けれど、自分のものにしようとはしない。


願いを迷わせないとは、そういうことなのかもしれない。


ココは模造の包みを見つめ、いつになく小さな声で言った。


「満願堂に届くまで、迷わせない」


「そうだ」


ヴェルナーは短く答えた。


その返事だけで、ココの耳が少しだけ誇らしげに立った。


その日の訓練は、荷を置いて終わりではなかった。


もし休店日の朝に届いた場合。もし雨で馬車が遅れた場合。もし封蝋に欠けがあった場合。もし差出人がその場で返せと言い出した場合。ヴェルナーは細かな場合分けをいくつも出した。


ココは途中で頭から煙が出そうな顔になったが、最後まで聞いた。ロイもすべて帳面に書いた。


願いを支えるとは、綺麗な言葉だけでは足りない。


棚の位置、鍵の数、札の控え、雨の日の布。そういう細かなものが、願いを迷わせない。


ロイはそのことを、少しだけリゼットに伝えたかった。


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