第九十一話 預かる人たち
満願堂が休むかもしれない。
その話を最初に聞いた時、ココは耳をぴんと立てた。
「休む?」
月環街逓便局の仕分け場で、ココは抱えていた茶葉の包みを落としかけた。ロイが横から手を伸ばし、包みを支える。
「落とすな」
「落としてません」
「今、落ちかけた」
「休むって聞いたので」
ココは真面目な顔で言った。
満願堂は、いつも開いている場所だった。朝に行けば紅茶の香りがし、昼に行けば古書の頁をめくる音があり、夕方にはステンドグラスの色が床に伸びている。満願堂が閉まっているところを、ココはほとんど想像できなかった。
ロイも同じだった。
ただ、彼はココほど声に出さなかった。伝票を揃えながら、いつもより少しだけ眉を寄せている。その顔を見て、ヴェルナー・グレイスは低く言った。
「騒ぐな。休店は異常ではない」
「でも、満願堂ですよ」
ココが言う。
「納め物が来たら、どうするんですか」
ヴェルナーは、その問いを待っていたように机の上へ古い帳面を置いた。
「そのための手順を作る」
帳面の表紙には、逓便局の紋章が押されていた。月環、扉、閉じた目。普段見慣れた印なのに、その日だけは少し古く見えた。
「満願堂が閉まっている日に納め物が届いた場合、逓便局で一時的に預かる。預かるだけだ。納めるのではない。開けるのでもない。中身を確認するのでもない」
ヴェルナーは一語ずつ区切った。
「預かり札を作る。封蝋を確認する。納め札の紐が緩んでいないか見る。保管棚は北側の小室を使う。鍵は私と当番責任者だけが持つ」
ココは耳をさらに立てた。
「満願堂の納め物を、逓便局で預かるんですか」
「届くまで守る。それも逓便の仕事だ」
ヴェルナーの声は硬かった。
けれど、そこには恐れだけではないものがあった。長く満願堂と関わってきた者の、慎重な敬意だった。
ロイは帳面を見つめた。
「リゼットさんは、これを了承されたんですか」
「した」
「すぐに?」
ヴェルナーはわずかに目を細めた。
「すぐではない」
ロイは黙った。
その沈黙の中に、満願堂のカウンターで少しだけ考えるリゼットの姿が浮かんだ。リゼットは、他人の願いを迷わせないために、いつも店を開けている。休むという話になれば、一番先に納め物のことを考えるだろう。
だから、手順が必要だった。
気持ちではなく、手順。
ヴェルナーらしい支え方だった。
その日の午後、三人は北側の小室を整えた。
古い木棚を空け、棚板の歪みを確認し、黒布を敷く。封蝋が欠けないよう、荷を置く位置に細い線を引く。扉には新しい鍵をつけた。ココは預かり札の控えを何度も書き直した。
「字が硬いな」
ロイが言うと、ココは耳で抗議した。
「大事な札なので、真面目に書いてるんです」
「いつも真面目ではないみたいな言い方だな」
「僕はいつも真面目です」
「そうだったか」
「そうです」
ヴェルナーは二人のやり取りを聞きながら、棚の位置を直した。
「雑談はいい。納め札の確認手順を言え」
ココはすぐに背筋を伸ばした。
「黒い紐、暗い赤の封蝋、月環と扉と閉じた目の紋章、納め札の名前と行き先を確認します。中身は見ません。揺らしません。勝手にほどきません」
「ロイ」
「受領時刻、預かり担当者、封蝋状態、引き渡し予定を記録します。満願堂開店後、リゼットさんへ直接渡します」
「よろしい」
ヴェルナーは短く言った。
ココは少しだけ嬉しそうに耳を動かした。
「逓便局が満願堂の代わりになるわけではない」
ヴェルナーは続けた。
「勘違いするな。ここは納める場所ではない」
「はい」
「だが、満願堂へ届くまでの道が必要になる時もある。願いは、届くまでにも迷う」
ロイはその言葉を胸の中で繰り返した。
満願堂へ届けることだけが、願いを迷わせない方法ではない。
届くまで守ることもある。
その日の夕方、ロイとココは満願堂へ向かった。
リゼットはカウンターの奥で茶器を拭いていた。モルは受け取り印のそばで丸くなっている。いつも通りの光景だった。
「逓便局です」
ココが言うと、モルが顔を上げた。
「ココ。ロイ」
「今日は普通便です。あと、預かり手順の控えを持ってきました」
ココは丁寧に折った紙を差し出した。
リゼットは両手で受け取った。
「ありがとうございます」
その声はいつも通りだった。だが、ロイはまた一瞬だけ見てしまった。紙を受け取る指が、ほんの少しだけためらったことを。
「ご負担ではありませんか」
ロイは思わず聞いた。
リゼットは顔を上げる。
「どなたの?」
「逓便局の、です」
「いいえ。ヴェルナーさんが、たいへん丁寧に考えてくださいました」
「リゼットさんのご負担は」
その問いに、カウンターの上のモルが耳を動かした。
リゼットはすぐには答えなかった。
「私の負担ではございません」
彼女は静かに言った。
「納め物が迷わないための、別の道です」
ロイは、その答えが少しだけずれていると思った。
けれど、そのずれを責める言葉はまだ持っていなかった。
モルが紙を嗅ぐ。
「逓便のにおい」
「はい」
ココが胸を張る。
「満願堂さんがお休みの日は、逓便局が少しだけ先輩です」
モルは首を傾けた。
「ココ、せんぱい?」
「はい。預かりの先輩です」
「じゃあ、えらい」
「ありがとうございます!」
リゼットはそのやり取りを見て、少しだけ微笑んだ。
その微笑みは、安心に似ていた。けれど、慣れていない表情でもあった。
その夜、満願堂の奥の棚はいつも通り静かだった。
納め物はまだ満願堂へ届く。願いはまだここへ帰ってくる。
けれど、届くまでの間に、少しだけ守ってくれる人たちがいる。
リゼットは預かり手順の控えを納願帳の横へ置いた。
モルがその上に前足をのせる。
「リゼット、だいじ?」
「ええ」
「満願堂じゃないのに?」
「満願堂へ続く道ですから」
モルは納得したように、していないように尻尾を揺らした。
リゼットは紙をもう一度見た。
そこには、ヴェルナーの硬い字と、ココの少し丸い字と、ロイのまっすぐな字が並んでいた。
願いは、まだ満願堂へ届く。
けれど、満願堂だけが、願いを持つ手ではない。
そのことを認めるには、リゼットにはまだ少し時間が必要だった。
預かり棚を整えたあと、ヴェルナーは古い封筒を一つ持ってきた。
もちろん本物の納め物ではない。研修用に残された空の包みだった。黒い紐も封蝋も模造で、納め札にも何も書かれていない。
「これを使う」
「練習ですか?」
ココが少し嬉しそうに言うと、ヴェルナーは厳しい顔を崩さず頷いた。
「練習で失敗しておけ。本物で失敗するな」
ココは両手で包みを受け取り、棚へ置いた。置いて、すぐに手を離そうとして、また少し位置を直した。ロイはそれを見て、帳面に時刻を書き込む。
「封蝋状態、異常なし。紐、緩みなし。担当、ココさん」
「さんはいりません」
「普段の癖だ」
「公式文書ですよ」
「ココさんが言うのか」
ヴェルナーは咳払いした。
「預かるということは、持っているということではない」
二人は顔を上げた。
「荷を預かる者は、荷の主人ではない。中身を想像しすぎるな。自分のもののように守るな。自分のものではないと分かったうえで、傷つけずに渡せ」
その言い方は、いつもの荷物の話よりも少し重かった。
ロイは、満願堂のカウンターを思い出した。リゼットが納め物を受け取る時、彼女はいつも両手で持つ。大切に扱う。けれど、自分のものにしようとはしない。
願いを迷わせないとは、そういうことなのかもしれない。
ココは模造の包みを見つめ、いつになく小さな声で言った。
「満願堂に届くまで、迷わせない」
「そうだ」
ヴェルナーは短く答えた。
その返事だけで、ココの耳が少しだけ誇らしげに立った。
その日の訓練は、荷を置いて終わりではなかった。
もし休店日の朝に届いた場合。もし雨で馬車が遅れた場合。もし封蝋に欠けがあった場合。もし差出人がその場で返せと言い出した場合。ヴェルナーは細かな場合分けをいくつも出した。
ココは途中で頭から煙が出そうな顔になったが、最後まで聞いた。ロイもすべて帳面に書いた。
願いを支えるとは、綺麗な言葉だけでは足りない。
棚の位置、鍵の数、札の控え、雨の日の布。そういう細かなものが、願いを迷わせない。
ロイはそのことを、少しだけリゼットに伝えたかった。




