第九十話 満願堂へ行く前に
北門近くの停留所には、朝から風が吹いていた。
ロザは時刻表の端を押さえ、剥がれかけた紙を貼り直した。季節の変わり目は風が強い。馬車の車輪が運ぶ土埃と、遠くの街から来た荷物の匂いが混ざり、停留所はいつも少しだけ旅の入口のような匂いがする。
ロザは切符を売り、荷物札を結び、馬車の到着を告げる鐘を鳴らした。
息子を待つためだけの場所だった停留所は、今では少し違って見える。もちろん、遠方便が着けば今でも顔を上げる。降りてくる男たちの中に、息子の面影を探す。それはやめていない。
だが、待つことだけで一日が終わるわけではなくなった。
朝の掃除。時刻表の貼り替え。若い旅人への注意。泣いている子どもの相手。切符の枚数。そうしたものにも、ロザの時間は戻ってきている。
昼過ぎ、若い女性が停留所へ来た。
彼女は何度か停留所の前を行き来してから、ようやく時刻表の前で止まった。
行き先を探しているというより、どこかへ行けば今の自分から離れられるのではないかと考えているようだった。ロザはそういう客を何人も見てきた。
切符売りは、人の行き先を聞く仕事だ。
だが時々、客自身が行き先を持っていないことがある。そういう時、無理に切符を売っても、馬車の中で泣く人が一人増えるだけだ。
ロザは急かさなかった。
女性が時刻表を三度見上げ、二度目を伏せ、三度目に手袋を握り直したところで、ようやく声をかけた。
旅支度ではなかった。小さな鞄は持っていたが、遠くへ行くには軽すぎる。手袋を握りしめ、時刻表を見るふりをしている。だが、目は文字を読んでいなかった。
「どちらまで?」
ロザが尋ねると、女性は少し驚いたように顔を上げた。
「まだ、決めていません」
「切符は、行き先が決まってからでいいわ」
「そうですよね」
女性は笑おうとして、失敗した。
ロザはその顔を見て、昔の自分に少し似ていると思った。待つことに疲れている顔。けれど、待つのをやめた後の自分を想像できない顔。
「誰かを待っているの?」
女性は黙った。
しばらくして、頷いた。
「婚約者が、遠くの街へ働きに行きました。最初は手紙が来ていました。でも、三か月前から途切れて」
「そう」
「死んだ知らせはありません。だから、生きているかもしれない。でも、生きているなら、どうして返事をくれないのかと思ってしまうんです」
ロザは何も言わなかった。
女性は続けた。
「待っている自分が嫌なんです。毎日、手紙箱を見る。馬車が着くたびに顔を上げる。誰かの足音に期待する。そんな自分が、もう馬鹿みたいで」
風が時刻表を鳴らした。
女性は手袋を握りしめる。
「月環街に、願いを叶える店があると聞きました」
ロザは少しだけ目を細めた。
「満願堂ね」
「ご存じなんですか」
「ええ」
「待つ苦しさをどうにかしてくれる品も、ありますか」
「あるわね」
ロザは素直に答えた。
女性の目が揺れた。
「本当に?」
「少なくとも、私はそういうものを使ったことがある」
ロザは停留所の椅子へ座った。女性も少し迷ってから隣に座る。
「昔、息子を待っていたの」
「息子さんを」
「遠くへ行ったきり、手紙が途切れてね。死んだ知らせも、生きている知らせもない。私は二十年待ったわ」
女性は息を呑んだ。
「二十年」
「ええ。待つためのベルも持った。待つ相手が戻る可能性のある時間だけ針が進む時計も持った」
「効きましたか」
「効いたわ」
ロザは遠方便の来る道を見た。
「待つ時間だけが、本当に私の時間になった。針が動く時だけ、生きているような気がした」
女性は食い入るように聞いている。
ロザは続けた。
「でも、針が止まっている時間が、全部薄くなったの」
「薄く」
「朝の茶も、隣の子どもの声も、市場の匂いも。息子が帰るかもしれない時間ではないものは、どうでもよくなっていった」
女性は手袋を見下ろした。
「それでも、待つのは楽になりますか」
「ええ。楽になる日もある」
ロザは嘘をつかなかった。
「でも、待っていない自分まで消えていくのは、思っていたより怖かったわ」
風が少し弱くなった。
馬車はまだ来ない。
女性は長い時間黙っていた。
「じゃあ、私はどうすればいいんでしょう」
「分からないわ」
ロザは言った。
女性が驚いた顔をする。
「分からないんですか」
「ええ。あなたの待ち方は、あなたのものだから」
ロザは停留所の前の道を見た。
「待つのをやめなさいとは言わないわ。待つことが悪いわけではないもの」
「でも、苦しいです」
「そうね」
「待っている間、止まっているみたいなんです」
ロザは少しだけ笑った。
「待つことと、止まることは違うわ」
その言葉は、自分に向けても言っているようだった。
「馬車が来ない日でも、停留所は掃除する。手紙が来ない日でも、食事はする。返事を待つだけではなく、自分からもう一通書くこともできる」
女性は顔を上げた。
「また書いても、返事が来なかったら」
「悲しいわね」
「それだけですか」
「それだけではないけれど、悲しいことを先に消してしまうと、何を待っていたのか分からなくなることがある」
女性は目元を押さえた。
涙が出たわけではない。けれど、泣く前の顔だった。
「満願堂へ行けば、何か買ってしまいそうです」
「買う日もあるでしょうね」
ロザは頷いた。
「でも、今日でなくてもいい」
「今日でなくても」
「ええ。満願堂は逃げないわ」
その言い方が少しおかしくて、女性は初めて小さく笑った。
遠方便の馬車が来た。
車輪が石畳を鳴らし、停留所へ近づく。ロザは立ち上がり、いつものように乗客の顔を見た。息子はいない。胸は少し痛んだ。
けれど、次の客へ切符を渡した。
女性はその日、満願堂へは行かなかった。
手紙を書く間、女性は何度もペンを止めた。
怒りを書きそうになり、消した。謝罪を書きそうになり、それも消した。待っています、とだけ書けば楽だったかもしれない。けれど、それでは今までと同じだと思ったらしい。
ロザは切符売り場の中で、黙って別の帳簿をつけていた。
手伝わなかった。文章を教えなかった。相手を待つべきか、忘れるべきかも言わなかった。
ただ、机とインクを貸した。
それだけでよかった。
満願堂へ行く前に、願いはほんの少し、自分の手元へ戻ってきていた。
代わりに、停留所の端の机を借り、短い手紙を書いた。返事を責める手紙ではなかった。待っています、とだけ書く手紙でもなかった。
今日は北門の停留所で風が強かったこと。馬車が遅れたこと。待つことと止まることは違うと、切符売りの女性に言われたこと。
それから、自分も少しずつ暮らしていること。
手紙を封じる時、彼女の手はまだ震えていた。
それでも、手紙は出された。
夕方、ロザは満願堂へ行った。
「いらっしゃいませ、ロザさん」
リゼットはいつものように迎えた。
「紅茶をいただける?」
「もちろんです」
ロザは席に座った。停留所とは違う静けさが、肩から少しずつ力を抜いていく。
モルが足元へ来て、鼻をひくつかせた。
「ロザ」
「なあに」
「外で、においした」
ロザは少し驚いた。
「そう?」
「満願堂みたい。でも、ちがう」
ロザはカップを受け取りながら笑った。
「少し、満願堂の真似をしてしまったかもしれないわ」
リゼットは紅茶を置く手を止めた。
「何かあったのですか」
「待つことに疲れた人に会ったの」
ロザは詳しくは話さなかった。ただ、自分の時計の話を少ししたこと、相手が満願堂へ行かずに手紙を書いたことだけを告げた。
リゼットは静かに聞いていた。
「余計なことだったかしら」
「いいえ」
リゼットは首を横へ振った。
「真似ではございません」
ロザは顔を上げた。
「ロザさんの言葉です」
その言葉は、ロザの胸にゆっくり入ってきた。
満願堂の管理人のように、願具を選んだわけではない。返りを説明したわけでもない。納めたわけでもない。ただ、自分が待った時間の中から、一つ言葉を渡しただけだ。
それでも、誰かが満願堂へ行く前に、少しだけ立ち止まった。
リゼットはカウンターへ戻りながら、ふと思った。
満願堂に届く前にも、願いは誰かの言葉に触れることがある。
すべての願いを、自分一人で受け止めなければならないわけではないのかもしれない。
それは、まだ小さな思いつきだった。
けれど、納願帳に書いた一行の横で、静かに息をし始めた。
自分の行き着く場所を探す時間がほしい。
その時間は、満願堂の外にも少しずつ広がるのかもしれない。
モルはロザの足元で丸くなった。
「待つにおい、すすんだ」
「待つのに、進むのね」
ロザが言うと、モルは得意そうに頷いた。
「うん」
リゼットは窓の外を見た。
夕方の石畳に、長い光が伸びている。
その光は、満願堂の扉の外から来ていた。
数日後、ロザのもとに短い礼状が届いた。
あの若い女性からだった。婚約者からの返事は、まだ来ていないという。けれど、手紙を出した翌日、部屋の窓を開けたと書かれていた。待つためではなく、空気を入れ替えるために。
それだけのことだった。
それでもロザは、その手紙を停留所の引き出しへしまった。
満願堂へ行かなかった願いが、一つだけ迷わずに済んだのかもしれない。そんなふうに思うのは大げさかもしれない。
けれど、誰かが満願堂へ辿り着く前に、自分の場所で一度立ち止まれるなら、それも悪くない。
ロザは遠方便の時刻を確認し、いつものように道を見た。
待つことと、止まることは違う。
その言葉は、今も彼女自身の中で進んでいた。




