第八十九話 探す時間
リゼットが自分のために納願帳を開いたのは、満願堂が閉店した後だった。
灯りは落としきっていない。カウンターの上に小さなランプが一つ残り、古い木目を柔らかく照らしている。モルは隣で丸くなっている。眠ってはいない。耳だけが、リゼットの手元へ向いていた。
納願帳の頁は白かった。
何千もの願いを受けてきた帳面なのに、その頁だけは妙に新しく見えた。リゼットはペンを持つ。何度も持ってきたペンだ。客が願いを書く時、差し出してきたペン。オデットが美しさを書き、ヴィルが拍手を書き、メリルが痛みを書き、ロザが待つことを書いたペン。
だが、自分の手にあると、ひどく重かった。
「リゼット、書く?」
モルが聞く。
「そのつもりです」
「なにを?」
「……それを、考えています」
リゼットは頁を見つめた。
私はどこへ行きたいのか。
問いはある。だが答えはない。
満願堂にいたい。そう思う。これは嘘ではない。満願堂はリゼットの願いから仕上がった場所であり、彼女が守ってきた場所であり、たくさんの願いが行き着いた場所だ。
けれど、ロイは言った。
それは管理人としての場所であって、リゼット自身の行き先ではない。
リゼットはペン先を紙へ近づけた。
何も書けなかった。
願いがないのではない。
願いの形を、自分のものとして置く方法が分からないのだ。
翌日も、その翌日も、白い頁は白いままだった。
一度だけ、リゼットは別の言葉を書こうとした。
休みたい。
そう書けばよいのかと思った。だが、ペン先は止まった。疲れているから休みたいのではない。眠りたいわけでも、店を閉めたいわけでもない。
次に、行き先がほしい、と書こうとした。
それも違った。行き先そのものを今すぐ与えられたら、きっとそれはまた別の満願具のようになる。返りをなかったことにする願いにも見える。
リゼットは、願いを乱暴に叶える危うさを誰より知っていた。
だから自分の願いにも、乱暴な形を与えたくなかった。
白い頁は、彼女を責めなかった。
ただ、待っていた。
満願堂はいつも通り開いた。紅茶を淹れ、古書を整え、願具の説明をし、納め物を受け取り、モルがはんこを押す。エリアスはいつもの席で本を読む。ロイは配達に来るたび、何か言いたそうにして、言わない。ココはいつも通りモルを撫でる。オルスは棚の金具を見て、少し緩いと言う。
表向きは何も変わらなかった。
ただ、閉店後の白い頁だけが増えた。
三日目の夕方、ミロが満願堂へ来た。
眠りを買う枕を納めた書記官だ。彼は以前より少し顔色が良くなっていた。よく眠れている顔ではない。けれど、起きている顔だった。
「紅茶をください」
「かしこまりました」
ミロはカウンター近くの席に座り、小さな帳面を取り出した。革表紙の、使い込まれた帳面だ。彼は紅茶を待つ間、そこへ短い文を書いた。
モルが覗き込む。
「ミロ、また書く」
「うん」
「ねるため?」
ミロは少し笑った。
「最初は、眠るために書いていたよ」
リゼットは紅茶を置く手を止めた。
ミロは続ける。
「眠れない理由を外に出せば、少し眠れるかと思って。仕事のこと、確認したこと、不安なこと。最初は全部、眠るための記録でした」
「今は違うのですか」
リゼットが尋ねると、ミロは帳面を見た。
「今は、起きている自分をなくさないために書いています」
その言葉は、静かに届いた。
「夢を選ぶ枕を使っていた時、夢の方が鮮やかでした。現実の手触りが薄くなって、起きている自分が少しずつ遠くなる感じがしたんです」
ミロは帳面の頁を指で押さえた。
「だから、書くことにしました。眠れたかどうかだけじゃなくて、窓の外で猫が鳴いたとか、朝のパンが焦げていたとか、同僚に頼み事をしたとか。そういう、起きている時の小さなことを」
リゼットは何も言わなかった。
ミロは少し恥ずかしそうに笑う。
「変ですよね。書記官なのに、自分のことを書くのは今でも下手です」
「いいえ」
リゼットは静かに答えた。
「とても、大切なことだと思います」
ミロは紅茶を飲んだ。
「眠るために始めたのに、今は起きているために書いている。願いって、途中で少し形が変わることがあるんですね」
その言葉に、リゼットは納願帳の白い頁を思い出した。
行き先がほしい。
そう書こうとすると、手が止まる。行き先を取り戻したい、と書くのも違う。返りを消したいわけではない。満願堂を離れたいわけでもない。
けれど、探す時間がほしい。
それは行き先そのものではない。途中の願いだ。
願いが途中で少し形を変えることがあるなら、まだ書けるかもしれない。
ミロが帰った後、リゼットは再び納願帳を開いた。
モルが隣に来る。
「書く?」
「はい」
「ねるため?」
「いいえ」
リゼットは少し笑った。
「起きているため、かもしれません」
ペン先が紙に触れる。
まだ手は重い。けれど、今度は動いた。
自分の行き着く場所を探す時間がほしい。
一行だけだった。
それ以上は書けなかった。けれど、その一行が紙の上にあるだけで、満願堂の空気がほんの少し変わった。
派手な光はない。奥の扉が開く音もない。満願具が現れることもない。
ただ、納願帳がその一行を受け取った。
一行を書いた後、リゼットは少しだけ身構えた。
何かが起こるのではないかと思った。奥の棚のどこかで品が鳴る。黒鉄の扉が重い音を立てる。月環のペンダントが熱を持つ。そういう変化を、どこかで予想していた。
だが、何も起こらなかった。
満願堂は静かだった。
その静けさに、リゼットは少し安心した。
これは満願具へ向かう願いではない。すぐに仕上がる願いでもない。誰かを変える道具を求める願いでもない。ただ、時間がほしいという小さな願いだ。
満願堂は、その小ささを拒まなかった。
それが、リゼットには一番ありがたかった。
誰も急かさなかった。
モルは頁の上で丸くならず、少し離れて座った。ロイは見せてほしいと言わなかった。エリアスはいつもの本を読み、オルスは棚のぐらつきを直しながら何も聞かなかった。
ココだけは、何か良いことがあったのだと分かったらしく、モルを撫でながら言った。
「モルさん、今日はリゼットさんの空気が少し違いますね」
「リゼット、書いた」
「何をですか?」
「ないしょ」
「モルさんが内緒にできるなんて、えらいです」
「モル、えらい」
そのやり取りを聞きながら、リゼットは少しだけ笑った。
願いを書いたからといって、すぐに答えが出るわけではない。けれど、急かされないことがこれほどありがたいとは知らなかった。
探す時間には、待ってくれる人も必要なのかもしれない。
モルが匂いを嗅ぐ。
「リゼットのにおい」
「そうですか」
「でも、満願堂だけじゃない」
リゼットはペンを置いた。
胸の奥で、何かがほどけたわけではない。返りが戻ったわけでもない。行き先が見えたわけでもない。
それでも、白い頁ではなくなった。
ロイが翌朝来た時、リゼットはその頁を見せなかった。
ロイは、見せてほしいとは言わなかった。
それが自分でも少し意外だった。以前の自分なら、心配のあまり踏み込んでいたかもしれない。けれど今は、リゼットが一行書けたという事実だけで十分だと思えた。
願いは、書いた瞬間に誰かへ説明しなければならないものではない。
納願帳に書かれたからといって、すぐに棚へ置かれるわけでも、奥の扉が開くわけでもない。
しばらく、頁の中で息をしていていい願いもある。
ロイはそう思った。
それは、満願堂から学んだことだった。
けれど、彼は何かが変わったことに気づいた。
「リゼットさん」
「はい」
「書けたんですか」
リゼットは少し驚いた。
「どうして分かったのですか」
ロイは困ったように笑った。
「今日は、紅茶の香りが少し違う気がしました」
モルが得意そうに言う。
「ロイ、ちょっとわかる」
「ちょっとなのか」
「ちょっと」
リゼットは微笑んだ。
「一行だけ、書きました」
「そうですか」
ロイはそれ以上聞かなかった。
聞きたい気持ちはあった。けれど、そこはリゼットの頁だ。見せられるまで、待つべきだと思った。
ミロは数日後にも満願堂へ来た。
その時、リゼットは彼に礼を言った。
「ミロさんのお話で、少し書けました」
ミロは目を丸くした。
「私が何かしましたか」
「はい」
「覚えがないです」
「そういうこともございます」
モルが横で頷く。
「ある」
ミロは少し照れたように帳面を閉じた。
誰かを救おうとして言った言葉ではない。自分の話を少ししただけだ。それが、別の誰かの手を少しだけ動かすことがある。
満願堂の外でも、中でも、願いはそうやって時々、他人の言葉に触れる。
その夜、リゼットは自分の書いた一行をもう一度読んだ。
自分の行き着く場所を探す時間がほしい。
願いはまだ小さい。
だが、小さいからこそ、今のリゼットには持てた。
モルはその頁の上で前足を揃えた。
「探す日、いる」
「ええ」
リゼットは頷いた。
「いつか、作りましょう」
その言葉は、まだ予定ではなかった。
けれど、初めて未来の方を向いていた。




