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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第三章 奥の部屋で待つもの

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第八十九話 探す時間

リゼットが自分のために納願帳を開いたのは、満願堂が閉店した後だった。


灯りは落としきっていない。カウンターの上に小さなランプが一つ残り、古い木目を柔らかく照らしている。モルは隣で丸くなっている。眠ってはいない。耳だけが、リゼットの手元へ向いていた。


納願帳の頁は白かった。


何千もの願いを受けてきた帳面なのに、その頁だけは妙に新しく見えた。リゼットはペンを持つ。何度も持ってきたペンだ。客が願いを書く時、差し出してきたペン。オデットが美しさを書き、ヴィルが拍手を書き、メリルが痛みを書き、ロザが待つことを書いたペン。


だが、自分の手にあると、ひどく重かった。


「リゼット、書く?」


モルが聞く。


「そのつもりです」


「なにを?」


「……それを、考えています」


リゼットは頁を見つめた。


私はどこへ行きたいのか。


問いはある。だが答えはない。


満願堂にいたい。そう思う。これは嘘ではない。満願堂はリゼットの願いから仕上がった場所であり、彼女が守ってきた場所であり、たくさんの願いが行き着いた場所だ。


けれど、ロイは言った。


それは管理人としての場所であって、リゼット自身の行き先ではない。


リゼットはペン先を紙へ近づけた。


何も書けなかった。


願いがないのではない。


願いの形を、自分のものとして置く方法が分からないのだ。


翌日も、その翌日も、白い頁は白いままだった。


一度だけ、リゼットは別の言葉を書こうとした。


休みたい。


そう書けばよいのかと思った。だが、ペン先は止まった。疲れているから休みたいのではない。眠りたいわけでも、店を閉めたいわけでもない。


次に、行き先がほしい、と書こうとした。


それも違った。行き先そのものを今すぐ与えられたら、きっとそれはまた別の満願具のようになる。返りをなかったことにする願いにも見える。


リゼットは、願いを乱暴に叶える危うさを誰より知っていた。


だから自分の願いにも、乱暴な形を与えたくなかった。


白い頁は、彼女を責めなかった。


ただ、待っていた。


満願堂はいつも通り開いた。紅茶を淹れ、古書を整え、願具の説明をし、納め物を受け取り、モルがはんこを押す。エリアスはいつもの席で本を読む。ロイは配達に来るたび、何か言いたそうにして、言わない。ココはいつも通りモルを撫でる。オルスは棚の金具を見て、少し緩いと言う。


表向きは何も変わらなかった。


ただ、閉店後の白い頁だけが増えた。


三日目の夕方、ミロが満願堂へ来た。


眠りを買う枕を納めた書記官だ。彼は以前より少し顔色が良くなっていた。よく眠れている顔ではない。けれど、起きている顔だった。


「紅茶をください」


「かしこまりました」


ミロはカウンター近くの席に座り、小さな帳面を取り出した。革表紙の、使い込まれた帳面だ。彼は紅茶を待つ間、そこへ短い文を書いた。


モルが覗き込む。


「ミロ、また書く」


「うん」


「ねるため?」


ミロは少し笑った。


「最初は、眠るために書いていたよ」


リゼットは紅茶を置く手を止めた。


ミロは続ける。


「眠れない理由を外に出せば、少し眠れるかと思って。仕事のこと、確認したこと、不安なこと。最初は全部、眠るための記録でした」


「今は違うのですか」


リゼットが尋ねると、ミロは帳面を見た。


「今は、起きている自分をなくさないために書いています」


その言葉は、静かに届いた。


「夢を選ぶ枕を使っていた時、夢の方が鮮やかでした。現実の手触りが薄くなって、起きている自分が少しずつ遠くなる感じがしたんです」


ミロは帳面の頁を指で押さえた。


「だから、書くことにしました。眠れたかどうかだけじゃなくて、窓の外で猫が鳴いたとか、朝のパンが焦げていたとか、同僚に頼み事をしたとか。そういう、起きている時の小さなことを」


リゼットは何も言わなかった。


ミロは少し恥ずかしそうに笑う。


「変ですよね。書記官なのに、自分のことを書くのは今でも下手です」


「いいえ」


リゼットは静かに答えた。


「とても、大切なことだと思います」


ミロは紅茶を飲んだ。


「眠るために始めたのに、今は起きているために書いている。願いって、途中で少し形が変わることがあるんですね」


その言葉に、リゼットは納願帳の白い頁を思い出した。


行き先がほしい。


そう書こうとすると、手が止まる。行き先を取り戻したい、と書くのも違う。返りを消したいわけではない。満願堂を離れたいわけでもない。


けれど、探す時間がほしい。


それは行き先そのものではない。途中の願いだ。


願いが途中で少し形を変えることがあるなら、まだ書けるかもしれない。


ミロが帰った後、リゼットは再び納願帳を開いた。


モルが隣に来る。


「書く?」


「はい」


「ねるため?」


「いいえ」


リゼットは少し笑った。


「起きているため、かもしれません」


ペン先が紙に触れる。


まだ手は重い。けれど、今度は動いた。


自分の行き着く場所を探す時間がほしい。


一行だけだった。


それ以上は書けなかった。けれど、その一行が紙の上にあるだけで、満願堂の空気がほんの少し変わった。


派手な光はない。奥の扉が開く音もない。満願具が現れることもない。


ただ、納願帳がその一行を受け取った。


一行を書いた後、リゼットは少しだけ身構えた。


何かが起こるのではないかと思った。奥の棚のどこかで品が鳴る。黒鉄の扉が重い音を立てる。月環のペンダントが熱を持つ。そういう変化を、どこかで予想していた。


だが、何も起こらなかった。


満願堂は静かだった。


その静けさに、リゼットは少し安心した。


これは満願具へ向かう願いではない。すぐに仕上がる願いでもない。誰かを変える道具を求める願いでもない。ただ、時間がほしいという小さな願いだ。


満願堂は、その小ささを拒まなかった。


それが、リゼットには一番ありがたかった。


誰も急かさなかった。


モルは頁の上で丸くならず、少し離れて座った。ロイは見せてほしいと言わなかった。エリアスはいつもの本を読み、オルスは棚のぐらつきを直しながら何も聞かなかった。


ココだけは、何か良いことがあったのだと分かったらしく、モルを撫でながら言った。


「モルさん、今日はリゼットさんの空気が少し違いますね」


「リゼット、書いた」


「何をですか?」


「ないしょ」


「モルさんが内緒にできるなんて、えらいです」


「モル、えらい」


そのやり取りを聞きながら、リゼットは少しだけ笑った。


願いを書いたからといって、すぐに答えが出るわけではない。けれど、急かされないことがこれほどありがたいとは知らなかった。


探す時間には、待ってくれる人も必要なのかもしれない。


モルが匂いを嗅ぐ。


「リゼットのにおい」


「そうですか」


「でも、満願堂だけじゃない」


リゼットはペンを置いた。


胸の奥で、何かがほどけたわけではない。返りが戻ったわけでもない。行き先が見えたわけでもない。


それでも、白い頁ではなくなった。


ロイが翌朝来た時、リゼットはその頁を見せなかった。


ロイは、見せてほしいとは言わなかった。


それが自分でも少し意外だった。以前の自分なら、心配のあまり踏み込んでいたかもしれない。けれど今は、リゼットが一行書けたという事実だけで十分だと思えた。


願いは、書いた瞬間に誰かへ説明しなければならないものではない。


納願帳に書かれたからといって、すぐに棚へ置かれるわけでも、奥の扉が開くわけでもない。


しばらく、頁の中で息をしていていい願いもある。


ロイはそう思った。


それは、満願堂から学んだことだった。


けれど、彼は何かが変わったことに気づいた。


「リゼットさん」


「はい」


「書けたんですか」


リゼットは少し驚いた。


「どうして分かったのですか」


ロイは困ったように笑った。


「今日は、紅茶の香りが少し違う気がしました」


モルが得意そうに言う。


「ロイ、ちょっとわかる」


「ちょっとなのか」


「ちょっと」


リゼットは微笑んだ。


「一行だけ、書きました」


「そうですか」


ロイはそれ以上聞かなかった。


聞きたい気持ちはあった。けれど、そこはリゼットの頁だ。見せられるまで、待つべきだと思った。


ミロは数日後にも満願堂へ来た。


その時、リゼットは彼に礼を言った。


「ミロさんのお話で、少し書けました」


ミロは目を丸くした。


「私が何かしましたか」


「はい」


「覚えがないです」


「そういうこともございます」


モルが横で頷く。


「ある」


ミロは少し照れたように帳面を閉じた。


誰かを救おうとして言った言葉ではない。自分の話を少ししただけだ。それが、別の誰かの手を少しだけ動かすことがある。


満願堂の外でも、中でも、願いはそうやって時々、他人の言葉に触れる。


その夜、リゼットは自分の書いた一行をもう一度読んだ。


自分の行き着く場所を探す時間がほしい。


願いはまだ小さい。


だが、小さいからこそ、今のリゼットには持てた。


モルはその頁の上で前足を揃えた。


「探す日、いる」


「ええ」


リゼットは頷いた。


「いつか、作りましょう」


その言葉は、まだ予定ではなかった。


けれど、初めて未来の方を向いていた。


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