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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第三章 奥の部屋で待つもの

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第八十八話 モルが持たないもの

モルは、失ったものを返せない。


かつて、モルにそれを頼んだ人がいた。


満願具で仕上がった者を見た家族だった。美しさだけが残った人。拍手の中へ行った人。正しい子になった子。優しい終わりへ近づきすぎた医師。残された者たちは、時々モルを見る。


この白いものなら、抜け落ちたものを嗅ぎ分けられるのなら、戻してくれるのではないか。


そう願う目を、リゼットは何度も見た。


モルはそのたびに、ただ鼻を鳴らした。


「ない」


「ここにない」


「戻らない」


短い言葉は、時にリゼットの説明より残酷だった。


だが、嘘はなかった。


モルは慰めるために匂いを言い換えない。あるものはある。ないものはない。まだ迷っているものは、まだ、と言う。


だからこそ、リゼットはモルを信じてきた。


そして、少し怖れてもいた。


それはリゼットがよく知っている事実だった。


モルは願いを叶えない。願具を動かすわけでもない。奥の扉を開ける鍵を持っているが、誰を通すかを決めているのは鍵だけではなく、願いそのものでもある。


モルにできるのは、嗅ぎ分けることだった。


あるもの。ないもの。迷っているもの。根付きかけているもの。納められるもの。まだ持ち主の手の中にあるべきもの。


モルは、それらを匂いで知る。


だが、返すことはできない。


その日、満願堂には客が少なかった。


雨でも晴れでもない、薄い曇りの日だった。店の光は柔らかく、紅茶の香りもいつもより静かに広がっている。エリアスは窓際の席で本を読み、オルスはカウンターの端で工具袋の留め具を直していた。配達の時間にはまだ早い。


リゼットは奥の棚を整えていた。


願いを閉じる箱。願いを肩代わりする腕輪。みんなを幸せにする鐘。行き先のない地図の写し。それらはすべて、最近納められたものだ。


棚を整える手はいつも通りだった。


けれど、モルはカウンターの上からその手を見ていた。


「リゼット」


「はい」


「さがす?」


リゼットの手が止まる。


「何をでしょう」


「いきさき」


オルスが工具をしまう手を止めた。


エリアスも頁をめくるのを少し遅らせた。


リゼットはモルを見た。


「モル」


「うん」


「私に、ないものは何ですか」


店内の空気がわずかに変わった。


問いは静かだった。だが、満願堂でリゼットが自分について尋ねることは珍しい。モルはしばらくリゼットを見上げ、それからカウンターを降りて彼女の足元へ来た。


鼻をひくつかせる。


いつものように、願具や納め物を嗅ぐ時とは違う仕草だった。もっと近く、もっと古い匂いを探すように、モルはリゼットの足元を一周した。


「紅茶のにおい」


「はい」


「本のにおい」


「はい」


「黒い扉のにおい」


「ええ」


「納願帳のにおい」


「はい」


モルはそこで顔を上げた。


「リゼットのいきさき、ない」


それは、覚悟していた言葉だったはずなのに、実際に聞くと少し息が止まった。


リゼットはこれまで、多くの「ない」を聞いてきた。痛みがない。声がない。名前がない。怒りがない。帰る場所がない。それらはすべて、誰かの返りとして満願堂へ届いた。


けれど、自分について「ない」と言われることには慣れていなかった。


管理人としての役目はある。満願堂という場所はある。紅茶を淹れる手順も、納める棚も、開ける扉もある。


それでも、行き先はない。


役目があることと、行き先があることは違う。


リゼットはその違いを、モルの短い言葉で初めて体の中に入れられた気がした。


言葉は短かった。


だが、店内に深く沈んだ。


オルスは何も言わなかった。エリアスも本を閉じない。ただ、静かに聞いている。


リゼットは頷いた。


「そうですか」


「うん」


「それは、返せますか」


モルはすぐに首を横へ振った。


「モル、返さない」


「返せない、ではなく?」


「返さない。返せない」


モルは少し考えた。


言葉を選んでいるのだと、リゼットには分かった。


「モル、あるの、わかる。ないの、わかる。まよってるの、わかる。でも、ないもの、ぽんって、できない」


「ええ」


「返りで落ちたもの、ぜんぶ戻したら、願いもぐちゃぐちゃ」


オルスが低く呟いた。


「道理だな」


モルはオルスを見た。


「どうり?」


「壊れた形にも意味があるってことだ」


「うん」


モルは納得したように尻尾を揺らした。


リゼットは棚に置かれた腕輪を見た。願いを肩代わりする腕輪。弟の願いを兄へ移し、弟自身の願う力を薄めた品。


失われたものをただ返せば、すべてが元通りになるわけではない。返りで落ちたものは、願いが進んだ結果でもある。戻すことは、願いの道筋そのものを乱すことにもなる。


だから満願堂は、返さない。


納める。休ませる。記録する。見送る。


それでも、リゼット自身の行き先がないと言われると、胸の奥が少しだけ空いた。


「では、私はどうすればよいのでしょう」


リゼットは誰にともなく言った。


モルは前足を揃えた。


「さがせる」


「探せる」


「うん。ないもの、ぽんってできない。でも、さがすのは、できる」


エリアスが静かに顔を上げた。


「探す場所が分からない時は?」


モルは少し困った顔をした。


「歩く」


オルスが鼻で笑った。


「だいぶ雑だな」


「オルス、なおす。モル、さがす」


「俺は探し物屋じゃない」


「でも、壊れてるところ、さがす」


オルスは言い返しかけて、やめた。


「まあ、探すな」


そのやり取りに、リゼットは少しだけ笑った。


笑えたことに、自分で驚いた。


行き先がない。


それは怖い言葉だった。けれど、探せると言われると、同じ空白が少し違って見えた。ないものを取り戻すのではない。新しく作るのでもない。まず、探す。


探している間は、まだ行き着いていない。


けれど、それは迷っているだけではないのかもしれない。


「モル」


「うん」


「探すというのは、願いでしょうか」


モルは首を傾けた。


「たぶん」


「曖昧ですね」


「リゼットのまね」


オルスが少し笑った。


エリアスも、ほんの少しだけ目を細めた。


リゼットは納願帳を見た。


自分のために願いを書くことは、まだできない。何を望むのか、どこへ行きたいのか、答えはない。


けれど、探す時間がほしい。


そうなら、書けるかもしれない。


その日の午後、ロイが配達に来た。


モルは開口一番に言った。


「ロイ、リゼット、ない」


ロイは固まった。


「何がですか」


「いきさき」


「モル」


リゼットが少し強めに呼ぶ。


モルは尻尾を揺らした。


「でも、さがせる」


ロイはリゼットを見た。


リゼットは困ったように微笑んだ。


「今日、モルにそう言われました」


「探せる、と」


「はい」


ロイは少しだけ息を吐いた。


安心したのか、余計に心配になったのか、自分でも分からなかった。


「俺に手伝えることはありますか」


リゼットはすぐには答えなかった。


以前なら、きっと「お気持ちだけで」と言っただろう。満願堂のことは満願堂の中で納める。リゼットはそうしてきた。


だが今は、少しだけ違った。


「まだ、分かりません」


「はい」


「分かりましたら、お願いするかもしれません」


ロイは背筋を伸ばした。


「はい」


その返事は、逓便局員としてのものではなかった。


モルは二人を見比べ、満足そうに言った。


「さがす、ふえた」


「増えるものなのか」


オルスが呟く。


モルは自信ありげに頷いた。


「ふえる」


リゼットは奥の棚を閉じた。


願具は願いを手伝う。魔願具は願いに寄り添う。満願具は願いと一つになる。


では、探す時間は何なのだろう。


まだ分からない。


けれど、分からないものを分からないまま置いておくことも、満願堂には必要なのかもしれない。


その夜、モルはリゼットの足元ではなく、カウンターの上で丸くなった。


モルがカウンターの上にいると、リゼットから少し距離がある。


その距離が、その夜は不思議とちょうどよかった。


足元にいれば、モルはいつものようにリゼットのそばにいる。けれど上にいれば、リゼットがどこへ座るのかを見られる。どこにも座れず立っていることも、隠れずに見える。


「モル」


「うん」


「見張っているのですか」


「見てる」


「同じでは?」


「ちがう」


モルは真面目に言った。


「見張るは、だめ。見るは、いる」


リゼットは少し考えた。


願いを見張れば、閉じ込めることになる。願いを見るだけなら、そばにいられる。


モルは昔から、そうしてきたのかもしれない。


オルスはその話を聞いて、工具袋を肩にかけ直した。


「見張るのと見るのは違う、か」


「ええ」


リゼットが答える。


「職人も似たようなもんだ」


オルスは棚の脚を軽く叩いた。


「壊れそうな椅子を見て、すぐ手を出すと余計に壊すことがある。どこが軋むのか、どれくらい持つのか、まず見る。直すのはその後だ」


「願いも、そうでしょうか」


「知らん」


オルスは即答した。


「だが、あんたはすぐ納めようとしすぎる時がある」


リゼットは目を瞬いた。


オルスは気まずそうに視線をそらす。


「悪い意味だけじゃない。だが、置いとく時間も修理のうちだ」


モルが頷く。


「置いとく」


リゼットはその言葉を、そっと胸の中へ置いた。


抜け落ちたものを見張らず、ただ見ていた。


リゼットも、自分の空白を見張るのではなく、見ていればいいのだろうか。


「今日はそこなのですね」


「うん」


「なぜ?」


「リゼット、立ってるから」


「私が座れば、足元へ来ますか」


「うん」


リゼットは店内を見回した。


自分の席は、まだない。


けれど、探してもいい。


そう思うだけで、満願堂の椅子が少し違って見えた。


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