第八十八話 モルが持たないもの
モルは、失ったものを返せない。
かつて、モルにそれを頼んだ人がいた。
満願具で仕上がった者を見た家族だった。美しさだけが残った人。拍手の中へ行った人。正しい子になった子。優しい終わりへ近づきすぎた医師。残された者たちは、時々モルを見る。
この白いものなら、抜け落ちたものを嗅ぎ分けられるのなら、戻してくれるのではないか。
そう願う目を、リゼットは何度も見た。
モルはそのたびに、ただ鼻を鳴らした。
「ない」
「ここにない」
「戻らない」
短い言葉は、時にリゼットの説明より残酷だった。
だが、嘘はなかった。
モルは慰めるために匂いを言い換えない。あるものはある。ないものはない。まだ迷っているものは、まだ、と言う。
だからこそ、リゼットはモルを信じてきた。
そして、少し怖れてもいた。
それはリゼットがよく知っている事実だった。
モルは願いを叶えない。願具を動かすわけでもない。奥の扉を開ける鍵を持っているが、誰を通すかを決めているのは鍵だけではなく、願いそのものでもある。
モルにできるのは、嗅ぎ分けることだった。
あるもの。ないもの。迷っているもの。根付きかけているもの。納められるもの。まだ持ち主の手の中にあるべきもの。
モルは、それらを匂いで知る。
だが、返すことはできない。
その日、満願堂には客が少なかった。
雨でも晴れでもない、薄い曇りの日だった。店の光は柔らかく、紅茶の香りもいつもより静かに広がっている。エリアスは窓際の席で本を読み、オルスはカウンターの端で工具袋の留め具を直していた。配達の時間にはまだ早い。
リゼットは奥の棚を整えていた。
願いを閉じる箱。願いを肩代わりする腕輪。みんなを幸せにする鐘。行き先のない地図の写し。それらはすべて、最近納められたものだ。
棚を整える手はいつも通りだった。
けれど、モルはカウンターの上からその手を見ていた。
「リゼット」
「はい」
「さがす?」
リゼットの手が止まる。
「何をでしょう」
「いきさき」
オルスが工具をしまう手を止めた。
エリアスも頁をめくるのを少し遅らせた。
リゼットはモルを見た。
「モル」
「うん」
「私に、ないものは何ですか」
店内の空気がわずかに変わった。
問いは静かだった。だが、満願堂でリゼットが自分について尋ねることは珍しい。モルはしばらくリゼットを見上げ、それからカウンターを降りて彼女の足元へ来た。
鼻をひくつかせる。
いつものように、願具や納め物を嗅ぐ時とは違う仕草だった。もっと近く、もっと古い匂いを探すように、モルはリゼットの足元を一周した。
「紅茶のにおい」
「はい」
「本のにおい」
「はい」
「黒い扉のにおい」
「ええ」
「納願帳のにおい」
「はい」
モルはそこで顔を上げた。
「リゼットのいきさき、ない」
それは、覚悟していた言葉だったはずなのに、実際に聞くと少し息が止まった。
リゼットはこれまで、多くの「ない」を聞いてきた。痛みがない。声がない。名前がない。怒りがない。帰る場所がない。それらはすべて、誰かの返りとして満願堂へ届いた。
けれど、自分について「ない」と言われることには慣れていなかった。
管理人としての役目はある。満願堂という場所はある。紅茶を淹れる手順も、納める棚も、開ける扉もある。
それでも、行き先はない。
役目があることと、行き先があることは違う。
リゼットはその違いを、モルの短い言葉で初めて体の中に入れられた気がした。
言葉は短かった。
だが、店内に深く沈んだ。
オルスは何も言わなかった。エリアスも本を閉じない。ただ、静かに聞いている。
リゼットは頷いた。
「そうですか」
「うん」
「それは、返せますか」
モルはすぐに首を横へ振った。
「モル、返さない」
「返せない、ではなく?」
「返さない。返せない」
モルは少し考えた。
言葉を選んでいるのだと、リゼットには分かった。
「モル、あるの、わかる。ないの、わかる。まよってるの、わかる。でも、ないもの、ぽんって、できない」
「ええ」
「返りで落ちたもの、ぜんぶ戻したら、願いもぐちゃぐちゃ」
オルスが低く呟いた。
「道理だな」
モルはオルスを見た。
「どうり?」
「壊れた形にも意味があるってことだ」
「うん」
モルは納得したように尻尾を揺らした。
リゼットは棚に置かれた腕輪を見た。願いを肩代わりする腕輪。弟の願いを兄へ移し、弟自身の願う力を薄めた品。
失われたものをただ返せば、すべてが元通りになるわけではない。返りで落ちたものは、願いが進んだ結果でもある。戻すことは、願いの道筋そのものを乱すことにもなる。
だから満願堂は、返さない。
納める。休ませる。記録する。見送る。
それでも、リゼット自身の行き先がないと言われると、胸の奥が少しだけ空いた。
「では、私はどうすればよいのでしょう」
リゼットは誰にともなく言った。
モルは前足を揃えた。
「さがせる」
「探せる」
「うん。ないもの、ぽんってできない。でも、さがすのは、できる」
エリアスが静かに顔を上げた。
「探す場所が分からない時は?」
モルは少し困った顔をした。
「歩く」
オルスが鼻で笑った。
「だいぶ雑だな」
「オルス、なおす。モル、さがす」
「俺は探し物屋じゃない」
「でも、壊れてるところ、さがす」
オルスは言い返しかけて、やめた。
「まあ、探すな」
そのやり取りに、リゼットは少しだけ笑った。
笑えたことに、自分で驚いた。
行き先がない。
それは怖い言葉だった。けれど、探せると言われると、同じ空白が少し違って見えた。ないものを取り戻すのではない。新しく作るのでもない。まず、探す。
探している間は、まだ行き着いていない。
けれど、それは迷っているだけではないのかもしれない。
「モル」
「うん」
「探すというのは、願いでしょうか」
モルは首を傾けた。
「たぶん」
「曖昧ですね」
「リゼットのまね」
オルスが少し笑った。
エリアスも、ほんの少しだけ目を細めた。
リゼットは納願帳を見た。
自分のために願いを書くことは、まだできない。何を望むのか、どこへ行きたいのか、答えはない。
けれど、探す時間がほしい。
そうなら、書けるかもしれない。
その日の午後、ロイが配達に来た。
モルは開口一番に言った。
「ロイ、リゼット、ない」
ロイは固まった。
「何がですか」
「いきさき」
「モル」
リゼットが少し強めに呼ぶ。
モルは尻尾を揺らした。
「でも、さがせる」
ロイはリゼットを見た。
リゼットは困ったように微笑んだ。
「今日、モルにそう言われました」
「探せる、と」
「はい」
ロイは少しだけ息を吐いた。
安心したのか、余計に心配になったのか、自分でも分からなかった。
「俺に手伝えることはありますか」
リゼットはすぐには答えなかった。
以前なら、きっと「お気持ちだけで」と言っただろう。満願堂のことは満願堂の中で納める。リゼットはそうしてきた。
だが今は、少しだけ違った。
「まだ、分かりません」
「はい」
「分かりましたら、お願いするかもしれません」
ロイは背筋を伸ばした。
「はい」
その返事は、逓便局員としてのものではなかった。
モルは二人を見比べ、満足そうに言った。
「さがす、ふえた」
「増えるものなのか」
オルスが呟く。
モルは自信ありげに頷いた。
「ふえる」
リゼットは奥の棚を閉じた。
願具は願いを手伝う。魔願具は願いに寄り添う。満願具は願いと一つになる。
では、探す時間は何なのだろう。
まだ分からない。
けれど、分からないものを分からないまま置いておくことも、満願堂には必要なのかもしれない。
その夜、モルはリゼットの足元ではなく、カウンターの上で丸くなった。
モルがカウンターの上にいると、リゼットから少し距離がある。
その距離が、その夜は不思議とちょうどよかった。
足元にいれば、モルはいつものようにリゼットのそばにいる。けれど上にいれば、リゼットがどこへ座るのかを見られる。どこにも座れず立っていることも、隠れずに見える。
「モル」
「うん」
「見張っているのですか」
「見てる」
「同じでは?」
「ちがう」
モルは真面目に言った。
「見張るは、だめ。見るは、いる」
リゼットは少し考えた。
願いを見張れば、閉じ込めることになる。願いを見るだけなら、そばにいられる。
モルは昔から、そうしてきたのかもしれない。
オルスはその話を聞いて、工具袋を肩にかけ直した。
「見張るのと見るのは違う、か」
「ええ」
リゼットが答える。
「職人も似たようなもんだ」
オルスは棚の脚を軽く叩いた。
「壊れそうな椅子を見て、すぐ手を出すと余計に壊すことがある。どこが軋むのか、どれくらい持つのか、まず見る。直すのはその後だ」
「願いも、そうでしょうか」
「知らん」
オルスは即答した。
「だが、あんたはすぐ納めようとしすぎる時がある」
リゼットは目を瞬いた。
オルスは気まずそうに視線をそらす。
「悪い意味だけじゃない。だが、置いとく時間も修理のうちだ」
モルが頷く。
「置いとく」
リゼットはその言葉を、そっと胸の中へ置いた。
抜け落ちたものを見張らず、ただ見ていた。
リゼットも、自分の空白を見張るのではなく、見ていればいいのだろうか。
「今日はそこなのですね」
「うん」
「なぜ?」
「リゼット、立ってるから」
「私が座れば、足元へ来ますか」
「うん」
リゼットは店内を見回した。
自分の席は、まだない。
けれど、探してもいい。
そう思うだけで、満願堂の椅子が少し違って見えた。




