第八十七話 リゼットのない場所
ロイは、翌日も満願堂へ配達に行った。
昨夜のことがなかったように、逓便局の鞄には普通便が入っている。茶葉の包み、古書の修繕依頼、菓子屋からの小箱。黒い紐も暗い赤の封蝋もない。いつも通りの仕事だった。
いつも通りに扉を開け、いつも通りに言う。
「逓便局です。お届け物です」
リゼットはいつも通り迎えた。
「ありがとうございます、ロイさん」
その声に怒りはない。冷たさもない。だからこそ、ロイは少し苦しくなった。
昨夜、自分は踏み込みすぎた。そう思っていた。だが、リゼットが何もなかったように振る舞えば振る舞うほど、あの問いは店のどこかに置き去りにされたままのように感じられた。
モルはカウンターの上で受け取り印を押した。
「ロイ、かたい」
「仕事中だ」
「いつもより」
「……そうか」
モルはじっと見上げた。
「昨日、言った」
ロイは咳き込んだ。
リゼットは受け取り帳へ署名しながら、少しだけ目を伏せた。
「モル」
「うん」
「お客様に余計なことを言わないように」
「ロイ、おきゃくさま?」
「逓便局の方です」
「じゃあ、言う」
リゼットは小さく息を吐いた。困ったような、少し笑っているような息だった。
その息に、ロイはほんの少し救われた。
配達を終えて帰るべきだった。
ロイは昨夜からずっと、その問いを胸の中で持ち歩いていた。
逓便局で伝票を仕分ける時も、馬車の車輪を確認する時も、ココに「顔が難しいです」と言われた時も、頭の隅にリゼットの一文があった。
すべての願いに、行き着く場所をあげたい。
その願いに自分自身が含まれないのなら、それはあまりに寂しい。けれど、含まれるのだとしたら、誰がリゼットの願いを受け取るのか。
満願堂が受け取るのか。納願帳が受け取るのか。モルが嗅ぎ分けるのか。
ロイには分からなかった。
分からないまま、聞くしかなかった。
だが、足が動かなかった。
「リゼットさん」
「はい」
「昨日のことですが」
「お気になさらず」
「気にします」
言ってから、ロイは自分で驚いた。
リゼットも少しだけ目を上げる。
ロイは深く息を吸った。
「俺は、リゼットさんを困らせたいわけではありません」
「はい」
「満願堂を否定したいわけでもありません」
「分かっております」
「でも、聞きたいんです」
ロイはカウンターの木目を見た。直接リゼットの目を見ると、言葉が揺れそうだった。
「リゼットさんは、どこへ行きたいんですか」
店内が静かになった。
その問いは、昨日よりまっすぐだった。
リゼットは少しの間、何も言わなかった。それから、いつもの答えを返す。
「私は、満願堂におります」
ロイは頷いた。
「それは、満願堂の管理人としての場所です」
リゼットの指先が、カウンターの上で止まる。
「リゼットさん自身の行き先ではありません」
その言葉は、店内のどこにもぶつからなかった。ただ静かに沈んだ。
リゼットは、困ったように微笑んだ。
「私自身、と申しますと」
「管理人ではないリゼットさんです」
ロイは言った。
「紅茶を淹れる人でも、願具を説明する人でも、奥の扉の前に立つ人でもなくて」
そこで言葉が詰まった。
では、何なのか。
ロイ自身にも分からない。リゼットが満願堂から離れた姿を、彼はほとんど知らない。彼女はいつも店の中にいる。紅茶の香りと古書の匂いと、納願帳とモルの鍵のそばにいる。
それでも、それだけではないはずだった。
「リゼットさんが、行きたいと思う場所です」
ようやくそう言った。
リゼットは目を伏せた。
長い沈黙だった。
その間に、窓の外を馬車が通り過ぎた。カップが棚の中でかすかに鳴った。モルの尻尾が一度だけ揺れた。
「分かりません」
リゼットは言った。
声は小さくなかった。けれど、いつものように客へ差し出す声ではなかった。
「考えたことが、ないのです」
ロイは胸の奥が痛んだ。
考えたことがない。
その一言が、どれほど長い返りの上にあるのか、彼にはまだ全部分からない。だが、分からないと言ったリゼットの顔を見て、これ以上問い詰めてはいけないことだけは分かった。
「すみません」
「いいえ」
リゼットは首を横へ振る。
「ロイさんが謝ることではございません」
「でも」
「聞かれなければ、私はきっと、考えないままでした」
その言葉は、ロイには少しだけ怖かった。
考えないままでいられること。考える場所がないこと。それは、願いを閉じる箱よりも静かな喪失のように思えた。
モルがカウンターの上を歩いてきた。
「リゼット」
「はい」
「行く?」
「どこへでしょう」
「わからない」
「私も分かりません」
「じゃあ、まだ」
モルはいつものように短く言った。
まだ。
満願堂では、その言葉が時々、救いにも怖さにもなる。
ロイは受け取り帳を鞄へしまった。
「今日は戻ります」
「お気をつけて」
「はい」
扉の前で、彼は一度だけ振り返った。
リゼットはカウンターの内側に立っている。いつもの場所。いつもの姿。けれど、どこへ行きたいのか分からないと言った後の彼女は、ほんの少しだけ店の景色から浮いて見えた。
満願堂の管理人ではないリゼット。
その輪郭を、ロイはまだうまく見つけられない。
だが、見つけたいと思った。
その夜、リゼットは一人で紅茶を淹れた。
閉店後の満願堂は、客がいる時よりも広く感じる。
椅子は同じ数だけある。棚も、カウンターも、奥の扉も同じ場所にある。それなのに、誰のためにも用意されていない時間になると、店内の輪郭が少し変わる。
リゼットはこれまで、その時間を片づけに使ってきた。
茶器を洗う。棚を整える。納願帳を閉じる。奥の棚の黒布を掛け直す。明日の茶葉を選ぶ。そうしていれば、閉店後の満願堂にも役目があった。
だが、自分のために紅茶を淹れると決めた途端、何をすればよいのか分からなくなった。
客のための所作なら、指が覚えている。自分のための所作は、どこにも記録されていなかった。
客のためではない。エリアスのおかわりでも、ロイへの礼でも、ココへの菓子でもない。自分のために淹れようと思った。
湯を注ぎ、茶葉を開かせ、カップへ注ぐ。
手順はいつもと同じだった。
けれど、カップを自分の前へ置いた時、リゼットは少し戸惑った。
自分のための紅茶は、どの席で飲めばよいのだろう。
カウンターの内側では仕事の続きになる。エリアスの席はエリアスの席だ。ロイが座ることの多いカウンター近くの席も、ニナやルーシャが座った窓際も、それぞれ誰かの記憶がある。
リゼット自身の席は、満願堂にはなかった。
彼女は結局、カウンターの端に立ったまま紅茶を飲んだ。
冷める前に飲み切った。味はいつも通りだった。
それなのに、少しだけ分からない味がした。
モルが足元で見上げる。
「立ってる」
「ええ」
「座らない?」
「どこに座ればよいのか、少し分からなくて」
モルは店内を見回した。
席はいくつもある。椅子も、長椅子も、窓際もある。だが、モルはすぐに答えなかった。
「リゼットの席、ない」
「そうですね」
リゼットは静かに笑った。
その笑みは、いつもより少しだけ寂しかった。
「いつか、作りましょうか」
翌朝、リゼットは開店前に一つだけ椅子を動かしてみた。
窓際の席でも、カウンター前でも、エリアスの席でもない。棚と棚の間にある、小さな丸椅子。普段は本を取る時の踏み台のように使っているものだった。
そこへカップを置く。
座ろうとして、やめた。
あまりに不自然だった。店内の動線を邪魔するし、客が来ればすぐに立たなければならない。自分の席を作るということが、こんなにも難しいのかと、リゼットは少しだけ可笑しくなった。
モルが丸椅子に前足を乗せる。
「ここ?」
「違うようです」
「じゃあ、まだ」
「ええ」
リゼットは椅子を戻した。
失敗ではない。
その小さな試みを、エリアスだけは見ていた。
開店してから、彼女はいつもの席で本を開きながら言った。
「椅子を動かしていたのね」
リゼットは少しだけ驚いた。
「見ていらしたのですか」
「ええ。いつもの席から、少しだけ見えたわ」
「お恥ずかしいところを」
「どうして?」
エリアスは首を傾ける。
「席を探すのは、恥ずかしいことではないでしょう」
その言葉は、リゼットの中で思ったより長く残った。
エリアスは変わらない人だ。いつもの席、いつもの本、いつもの紅茶を選び続けている。その彼女が、席を探すことを恥ずかしいとは言わなかった。
リゼットは、自分がほんの少し救われたことに気づいた。
探してみた、というだけのことだった。
モルは首を傾げた。
「作れる?」
「分かりません」
「じゃあ、さがす」
リゼットはカップを見下ろした。
行き先が分からない。
自分の席も分からない。
けれど、探すという言葉だけは、少しだけ胸のどこかに残った。




