第八十六話 すべての願い
古い納願帳は、時々勝手に頁を開く。
風のせいではない。満願堂の窓は閉じている。モルが前足でめくることもあるが、その日は違った。閉店後、リゼットが茶器を拭いている時、カウンターの端に置かれた古い納願帳が、ぱらりと小さく音を立てた。
モルが顔を上げる。
「起きた」
「そうですね」
リゼットは布巾を置き、帳面へ近づいた。
古い納願帳は、今の客が書く帳面とは少し違う。表紙は深い茶色で、角は擦れている。開かれた頁には、インクが薄れた文字が並んでいた。古く、けれどリゼットには見慣れた筆跡。
自分の字だった。
その筆跡を見た瞬間、リゼットの中でいくつもの時間が重なった。
処分場の隅で、灰の匂いに咳き込みながら書いた夜。月環街へ向かう旅の途中、宿の小さな机で帳面を開いた朝。月環の堂の納め台の前で、白いものがじっと見ているそばで書いた日。
字は少しずつ変わっていた。
最初は急いでいた。壊される前に、忘れられる前に、少しでも多く残したかったから。やがて丁寧になった。願いを聞くことが、処分の前の余計な作業ではなく、自分の仕事だと思うようになったから。
今開いている頁の字は、その中間にあった。
まだ若い。けれど、もう戻れないところまで来ている字だった。
リゼットは、その字を書いた時の自分を完全には思い出せない。
ただ、胸の奥に残る熱だけは覚えていた。
それは現代のリゼットの字ではない。もっと若く、少し硬い。処分場で願いを書き留めていた頃の名残がある字だった。
リゼットはしばらく頁を見つめた。
そこには、断片ではなく、はっきりと一文が残っていた。
すべての願いに、行き着く場所をあげたい。
ロイが来たのは、その直後だった。
本来なら閉店後に訪ねる時間ではない。だが、逓便局で預かった普通便の中に満願堂宛ての急ぎの茶葉が混じっていたらしく、明朝まで待つと香りが落ちるかもしれないと判断したのだ。
「すみません、遅い時間に」
「ありがとうございます、ロイさん」
リゼットはいつも通り受け取った。
ロイは帰ろうとして、開かれた納願帳に目を止めた。
読んではいけないものだと分かっていた。分かっていたのに、その一文は目に入ってしまった。字がこちらへ向いていたわけではない。それでも、読めてしまった。
すべての願いに、行き着く場所をあげたい。
ロイは息を止めた。
リゼットは帳面を閉じようとした。だが、ロイが声を出す方が早かった。
「それは、リゼットさんの願いですか」
店内が静かになった。
モルはカウンターの上で尻尾を動かさない。奥の棚も、黒鉄の扉も、何も音を立てなかった。
リゼットはゆっくりとロイを見た。
「古い記録です」
「記録でも、願いですよね」
ロイは自分の声が震えないようにした。
「すべての願いに、行き着く場所をあげたい」
言葉にすると、それは満願堂そのもののようだった。
表の棚も、奥の棚も、奥の部屋も、納め物も、納願帳も、リゼットの説明も、モルの匂いも。全部が、その願いから伸びているように思えた。
リゼットは否定しなかった。
「はい」
それだけだった。
ロイは続けた。
「なら、リゼットさんの願いも含まれるんじゃないですか」
リゼットは答えなかった。
その沈黙は、今までロイが見てきたどの沈黙とも少し違った。リゼットは客の願いに向き合う時、静かに待つ。言葉を選ぶ。相手が自分で扉を開けるまで、一歩退く。
だが今の沈黙は、待っている沈黙ではなかった。
答えがない沈黙だった。
「私は」
リゼットは言いかけた。
そこから先が続かない。
モルが小さく言う。
「リゼットの願い」
リゼットは納願帳へ視線を落とした。
「満願堂は、その願いから仕上がりました」
「はい」
「ですから、私の願いはここにあります」
「満願堂としては、そうかもしれません」
ロイは言葉を選んだ。
ここで踏み込みすぎれば、ただの無礼になる。けれど、引けば、この問いはまた納願帳の奥へ閉じられてしまう気がした。
「でも、リゼットさん自身の願いは、どこへ行くんですか」
リゼットは微笑んだ。
いつもの笑みだった。
「私は、満願堂におります」
その言葉は、何度も聞いた。行き先のない地図の時も、同じように答えた。
ロイは胸の奥が少し痛くなった。
「満願堂にいることと、願いが行き着くことは、同じですか」
リゼットは、今度こそ何も言わなかった。
エリアスが窓際にいた。
エリアスは、その一文を読もうとはしなかった。
読めたかもしれない。けれど、視線を落としたまま、自分の詩集の栞を整えている。変わらない人は、他人の変わり始める場所に不用意に触れないのかもしれなかった。
それでも、彼女は静かに言った。
「リゼットさん」
「はい」
「私も、変わらない場所をいただいているわ」
リゼットはエリアスを見た。
「でも、それをいただいたからといって、あなたの場所まで使っているつもりはないの」
エリアスの声は柔らかい。
「いつもの席は、私の席。でも、満願堂の全部ではないでしょう」
ロイはその言葉に少しだけ救われた。
エリアスは仕上がり済みの人だ。変わらない日々を選んだ人だ。その彼女でさえ、自分の席とリゼットの場所を同じものとは思っていない。
リゼットは何も答えなかった。
だが、その沈黙には先ほどより少しだけ揺れがあった。
閉店間際まで本を読んでいた彼女は、白い表紙の詩集に栞を挟む。会話に割り込むことはしない。ただ、静かに二人を見ていた。
「ロイさん」
リゼットの声は穏やかだった。
「満願堂には、行き着けない願いも参ります。迷い、混ざり、壊れかけ、忘れられかけた願いも。私は、それらを納める場所を守っています」
「はい」
「それで十分です」
ロイはその言葉を聞いて、十分ではないと思った。
だが、十分ではないと断言する権利が自分にあるのか分からなかった。彼は逓便局員で、満願堂へ荷物を届ける者だ。リゼットの過去をすべて知っているわけではない。願いがどれほど重いものか、すべて知っているわけでもない。
それでも。
「リゼットさん」
ロイは頭を下げた。
「無礼を承知で言います」
リゼットは彼を見た。
「すべての願いに行き着く場所をあげたいなら、リゼットさんの願いだけを例外にしないでください」
モルの耳が動いた。
エリアスは目を伏せる。
リゼットは、まるで遠い鐘の音を聞いたような顔をした。
その表情はすぐに消えた。彼女はいつものように帳面を閉じ、茶葉の包みを棚へ置いた。
「遅くまでありがとうございました、ロイさん」
それは、会話の終わりだった。
ロイはそれ以上言わなかった。頭を下げ、満願堂を出た。
外の空気は冷たかった。
石畳の路地に立ち、彼は自分の手を見る。震えてはいない。だが、言いすぎたのではないかという不安があった。
それでも、言わなければならなかった。
店内では、リゼットが閉じた納願帳に手を置いていた。
モルが隣に座る。
「リゼット、怒った?」
「いいえ」
「かなしい?」
「いいえ」
「じゃあ、なに?」
リゼットは少しだけ考えた。
「分かりません」
モルは目を丸くした。
リゼットが分からないと言うことは、珍しい。
「リゼット、わからない」
「ええ」
「じゃあ、まだ」
「何がでしょう」
モルは納願帳の上に前足を置いた。
「まだ、いきさき」
リゼットはその小さな前足を見た。
すべての願いに、行き着く場所をあげたい。
その一文は、満願堂を作った。けれど、その中に自分が含まれているかどうかを、リゼットは今まで考えたことがなかった。
考えなかったのではない。
考える場所が、なかったのかもしれない。
その夜、納願帳はもう開かなかった。
リゼットはしばらく、閉じた帳面に触れたままでいた。
すべての願い。
その言葉は、自分が書いたものなのに、今は少し見知らぬ言葉のようだった。すべて、という時、人はどこまでを思い浮かべるのだろう。目の前の客。納められた品。奥の部屋。壊された願い。これから来る誰か。
そこに、自分を入れていなかった。
入れていなかったことに、気づいていなかった。
それは献身ではなく、返りだったのかもしれない。
願いが進んだ結果、自分自身の行き先を考える場所が落ちた。
その空白を、今さら見つけてしまった。
リゼットは灯りを落としながら、初めてその空白を怖いと思った。
翌朝、リゼットはいつもより早く店を開けた。
早く開ければ、昨日の問いから少し離れられる気がしたのだ。茶器を並べ、棚を払う。手を動かしていれば、管理人としての自分に戻れる。
けれど、開店前の静けさの中で、納願帳は閉じたままそこにあった。
見ないようにしても、そこにある。
願いを記した帳面は、リゼットの仕事道具であり、満願堂の中心であり、彼女自身の願いの証でもある。そこに自分の行き先だけがないことを、一度知ってしまうと、知らなかった頃には戻れなかった。
エリアスが最初の客として来た時、リゼットはいつもの席へ紅茶を置いた。
エリアスは一口飲んで、静かに言った。
「今日は、少し熱いわ」
リゼットは初めて、自分の手元が乱れていたことに気づいた。
だが閉じた表紙の下で、古い文字がまだ静かに残っている気がした。




