第八十五話 願いを閉じる箱
願うことに疲れた人は、静かな顔をしている。
リゼットは、そのことをよく知っていた。
泣き叫ぶ人や、怒りながら願具を求める人は、まだ願いの熱が外へ出ている。だが、本当に疲れた人は、声を荒げない。欲しいものを問われても、少しだけ笑う。もう何もいらないと言う。
その日、満願堂へ来た女もそうだった。
名をユリアといった。年は三十前後。服はきちんとしているが、色の選び方にどこか力がない。紅茶を頼んだものの、カップにはほとんど口をつけず、湯気が消えるのを見ていた。
「願わなくて済む品はありますか」
しばらくして、ユリアはそう言った。
リゼットはすぐには答えなかった。
「何を、願わなくなりたいのでしょう」
「全部です」
ユリアは穏やかに言った。
「仕事で認められたいとか、母に分かってほしいとか、昔の友人に謝りたいとか、誰かに好かれたいとか。そういうものが、もう全部疲れました」
彼女の声に激しさはない。
だからこそ、モルは椅子の下から出てこなかった。白い毛だけが、椅子の影で少し揺れている。
「願うから、苦しくなるんです」
ユリアは続けた。
「叶わないなら、最初から願わない方がいい」
リゼットは表の棚を見た。
願いを軽くする香草。気持ちを整える小瓶。眠りを助ける茶葉。いくつかの品は、ユリアを少し休ませることができるかもしれなかった。
だが、ユリアが求めているのは休息ではなかった。
願いそのものを閉じたいのだ。
リゼットは奥の棚から、小さな箱を取り出した。
黒でも白でもない、灰色の箱だった。手のひらに乗るほどの大きさで、蓋には何の模様もない。鍵もない。ただ、閉じるためだけにあるような箱だった。
「願いを閉じる箱です。魔願具にあたります」
ユリアは初めて少しだけ目を動かした。
「どう使うんですか」
「願いを思い浮かべながら蓋を閉じます。すると、その願いは痛みにくくなります」
「消えるんですか」
「消えるわけではございません。遠くなります」
リゼットは返りについても告げた。願っていたことが遠くなる分、自分が何へ向かっていたのかも、少し分かりにくくなるという。
ユリアは箱を見た。
「それでいいです」
「よろしいのですか」
「向かう場所なんて、もういりません」
その言葉で、リゼットの胸の奥に灰の匂いが戻った。
処分場の炉。壊される前の願具。忘れたいという声。もう苦しいから壊してください、と言った人々。壊した後に、何を失ったのか分からない顔で戻ってきた人々。
願いを閉じる箱は、処分場の火とは違う。
壊さない。燃やさない。願いを完全になかったことにするわけでもない。
それでも、リゼットには似ているように見えた。
痛むから遠ざける。苦しいから閉じる。忘れたいから蓋をする。
それを否定することはできない。人は、全部を抱えたまま生きられるわけではない。リゼット自身、壊さなければならなかった願いをいくつも知っている。
だからこそ、怖かった。
納願帳に、ユリアは書いた。
もう願いたくない。
文字は乱れていなかった。整っていた。整いすぎていた。
モルがようやく椅子の下から出てきて、帳面を嗅いだ。
「とじるにおい」
それから、リゼットを見た。
「リゼット、こわいにおい」
ユリアが少し驚いたように顔を上げる。
リゼットは微笑んだ。
「モルは、時々正直です」
「怖いんですか」
ユリアが尋ねた。
「はい」
リゼットはそう答えた。
自分でも、口にしたことに少し驚いた。
「願いを閉じることが?」
「願ったことまで、なかったことにしてしまうことが」
ユリアは箱を受け取った。
「私は、なかったことにしたいです」
「そうでしょう」
リゼットは否定しなかった。
「ですから、お渡しします。ただし、閉じる前に、何を閉じるのかだけは見てください」
ユリアは箱を持って帰った。
ユリアはまず、母に分かってほしいという願いを閉じた。
小さな部屋で、灰色の箱を膝に置く。母へ言えなかった言葉は、いくつもあった。仕事を続けたいこと。結婚だけが幸せではないと思っていること。母の心配が愛情だと分かっていても、その愛情で息が詰まる日があること。
それらを思い浮かべ、蓋を閉じる。
音はしなかった。
ただ、胸の中で張り詰めていた糸が一本、遠くへ移動したような感じがした。
楽だった。
ユリアは久しぶりに深く息をした。
次に、職場で認められたい願いを閉じた。上司の目。競う同僚。誰かに「よくやった」と言われたい気持ち。箱の中へ入れると、翌朝の仕事は驚くほど軽かった。
失敗しても、それほど痛まない。褒められなくても、胸が沈まない。
楽だった。
けれど、昼過ぎになると、書類の端を揃える手が少し止まった。
どうでもいい。
そう思ったのだ。
その言葉の軽さに、ユリアは少しだけ怖くなった。
三つ目の願い、昔の友人に謝りたい気持ちを閉じた夜、彼女は眠れた。
眠れたが、翌朝、なぜ謝りたかったのかを思い出すのに時間がかかった。
数日後、彼女は再び満願堂へ来た。
箱を持つ手は、前より安定していた。
だが、安定しすぎているようにも見えた。痛みが薄れた人の手ではなく、何かを感じる前に距離を取ることを覚えた手だった。
リゼットはその手を見て、処分場で見た人々を思い出した。
壊してください、と言って品を差し出す人々。壊された後、少し楽になった顔で礼を言う人々。その何人かは、後から戻ってきた。何を失ったのか分からないまま、ただ胸に穴があると訴えた。
ユリアはまだ、その手前にいる。
だからこそ、戻ってこられた。
リゼットはそう思った。
顔色は少し良くなっていた。紅茶にも口をつけた。だが、目の奥の光は以前より遠かった。
「楽になりました」
彼女は言った。
「母に分かってほしい気持ちも、職場で認められたい気持ちも、昔の友人に謝りたい気持ちも、全部遠くなりました」
「そうですか」
「でも、朝、起きる理由も少し遠いです」
カップの中で、紅茶が小さく揺れた。
「不思議ですね。苦しい願いばかりだと思っていたのに、私を起こしていたのも、あれだったのかもしれません」
ユリアは箱を差し出した。
「納めます」
リゼットは両手で受け取った。
「はい。魔願具ですので、納めることはできます」
「閉じた願いは、戻りますか」
「箱を納めれば、これ以上遠ざかることは止まります。けれど、閉じた間に遠くなった分は、すぐには戻りません」
「そうですか」
ユリアは少しだけ笑った。
「では、少しずつ近づいてみます」
「何にでしょう」
「まだ分かりません」
その答えは、以前の彼女なら言えなかったかもしれない。
分からないままでも、閉じ切らない。遠くなったものを、少しずつ見に行く。そういう時間が必要なのだろう。
リゼットは箱を黒布に包んだ。
モルが近づき、鼻を寄せる。
「まだ、とじてる」
「ええ」
「でも、すこし、すきま」
「そうですね」
リゼットは奥の棚へ箱を納めた。
その夜、彼女は処分場のことを長く思い出した。
壊された願具。灰になった布。割れた鈴。折れた杖。遠くなった声。思い出せなくなった歩き方。
すべてを閉じてしまえたら、どれほど楽だっただろう。
だが、リゼットはそうしなかった。
壊す前に書いた。忘れられる前に記した。願ったことを、なかったことにしたくなかった。
それが自分の願いだった。
ならば。
リゼットは納願帳を開きかけて、手を止めた。
自分の願いは、どこへ行くのだろう。
その問いは、まだ頁に書けなかった。
モルは足元で丸くなり、眠っているふりをしていた。
「リゼット」
「はい」
「こわいの、まだある」
「ええ」
「とじない?」
リゼットは少しだけ笑った。
「閉じないように、してみます」
箱は奥の棚で静かにしている。
ユリアはその後、月に一度ほど満願堂へ来るようになった。
願具は買わない。箱を返してほしいとも言わない。ただ、紅茶を飲み、時々手帳を開く。そこには、閉じてしまった願いを思い出すための短い言葉が並んでいた。
母。職場。友人。謝る。認められたい。腹が立った。会いたい。
どの言葉も、まだ遠い。
ある日、ユリアは母へ短い手紙を書いた。
分かってほしい、と迫る手紙ではなかった。なぜ分かってくれないのかと責める手紙でもない。ただ、最近は朝に窓を開けるようにしていること、仕事の帰りに花屋の前で立ち止まったこと、まだ何を話せばいいのか分からないことを書いた。
書き終えてから、彼女はその手紙をすぐには出さなかった。
願いを閉じる前のユリアなら、返事を恐れて破っていたかもしれない。箱を使っていた頃なら、出す意味さえ遠く感じただろう。
今は、封筒の上に手を置いて、しばらく迷った。
迷えるくらいには、願いが戻ってきている。
そう思えたことが、彼女にとって小さな変化だった。
けれど、遠くにあると分かるだけで、完全に失くしたわけではないとユリアは言った。
リゼットはその手帳を見るたび、自分の納願帳を思った。
願いは閉じることもある。遠ざかることもある。それでも、言葉の形で少し残しておけば、いつか近づく道になるのかもしれない。
願いを閉じることは、悪ではない。
けれど、閉じたままでは、どこへも行けない願いもある。
リゼットはそのことを、自分自身に言い聞かせるように、灯りを落とした。




