第八十四話 どこにも続かない道
その地図は、折り目の多い古い紙だった。
持ち込んだのは、月環街の外から来た旅人である。彼はもう何年も各地を歩いていると言い、鞄の中には方位磁石、乾いたパン、針と糸、いくつもの通行証が入っていた。
「この地図は、人の行き先を示します」
旅人はカウンターでそう言った。
「迷った時に開くと、次に向かうべき道が浮かぶ。村の名前だったり、橋だったり、誰かの家だったり。便利な品でした」
「でした、ということは」
リゼットが尋ねると、旅人は困った顔で地図を広げた。
紙面は白かった。
古い紙の色はある。折り目も、端の擦れもある。だが、道も山も川も、地名も何も描かれていない。
「最近、何も示さなくなったんです」
旅人は言った。
「壊れたのかと思って、満願堂なら分かるかと」
モルがカウンターへ上がり、地図の匂いを嗅いだ。
「道のにおい」
それから、少し困ったように首を傾ける。
「でも、待ってる」
リゼットは地図の端に触れた。
その瞬間、紙面に細い線が浮かんだ。満願堂の店内を示すような、小さな線だった。入口、カウンター、窓際の席、奥の棚。だが、線はすぐに消えた。
「まだ願具です」
リゼットは言った。
「人の行き先を示す地図ですね。旅をする方には心強い品でしょう」
「直りますか」
「壊れてはいないようです」
旅人は眉を寄せた。
「では、どうして白紙に?」
「地図が示すべき行き先を、持ち主がまだ受け取れない時には、白紙になることがございます」
旅人は黙った。
長く旅をしているうちに、どこへ行きたいのか分からなくなることはある。次の町、次の宿、次の仕事。行き先はいつもあった。だが、そのすべてが本当に自分の行きたい場所だったのかと聞かれると、答えられない。
リゼットは地図を畳み、旅人へ返した。
「しばらく、ご自身で道を選んでみてはいかがでしょう」
「願具を使わずに?」
「はい」
「迷います」
「迷うことも、行き先の一部です」
旅人は少し笑った。
「不便な助言ですね」
「ええ」
リゼットも微笑んだ。
「満願堂は、便利なことばかり申し上げる店ではございません」
旅人は地図を鞄へ戻し、紅茶を一杯飲んで帰った。
帰り際、旅人は満願堂の扉の前で一度だけ地図を開いた。
リゼットは見ないふりをした。モルだけが足元から覗いていた。
紙面には、ほんの少しだけ線が浮かんだ。
満願堂から大通りへ出る道ではない。旅人がいつも選ぶ近道でもない。線は店の前で少し迷い、それから月環街の小さな広場へ向かっていた。広場には、旅人がまだ訪れたことのない古い井戸がある。
「近いな」
旅人は苦笑した。
「次の町ではなく、広場ですか」
リゼットは答えた。
「遠い場所だけが、行き先とは限りません」
旅人は地図を畳んだ。
「しばらく、この街を歩いてみます」
彼はそう言って出て行った。
地図が直ったわけではない。ただ、白紙になる前に、近くを見ることを少しだけ思い出したのだろう。
リゼットはその背中を見送りながら、遠い行き先ばかりを行き先と呼ばなくてもいいのかもしれないと思った。
その思いは、すぐに自分へ返ってきて、胸の奥で止まった。
その時までは、それだけの話だった。
問題は、その後だった。
カウンターに残った地図の匂いを、モルがまだ嗅いでいた。
「リゼット」
「はい」
「見て」
モルは前足で、旅人が使っていた地図の写しを押した。リゼットは旅人の許可を得て、地図の構造を確認するため、薄い写しを一枚取っていた。
リゼットがその写しを開く。
紙面は白かった。
完全な白紙だった。
旅人が触れた時には、かすかに線が浮かんでいた。リゼットが願具として確認した時にも、満願堂の店内が一瞬見えた。
だが今、リゼットが改めて見ると、何も浮かばない。
モルが言った。
「ない」
リゼットは静かに紙を見ていた。
ちょうどその時、ロイが普通便を届けに来た。
「逓便局です。お届け物です」
彼は荷物を置き、受け取り帳を開いた。いつもの手順で済むはずだった。だが、カウンターの上の白紙に目が止まる。
「地図ですか」
「ええ」
リゼットは写しを畳もうとした。
ロイは言った。
「何も描かれていませんね」
「そういう地図なのです」
「リゼットさんが見ると、ですか」
その問いに、リゼットの手が止まった。
ロイは自分が踏み込みすぎたことを悟った。だが、もう言葉は戻せない。
「すみません」
「いいえ」
リゼットは穏やかに答えた。
「その通りです」
「リゼットさんには、行き先がないんですか」
言った瞬間、店内が少し静かになった。
モルはリゼットを見上げる。エリアスは窓際で本を閉じる。
リゼットは微笑んだ。
「私は、満願堂におります」
「それは、分かっています」
ロイは伝票を握りしめた。
「でも、この地図が示す行き先と、満願堂にいることは、同じなんですか」
リゼットは答えなかった。
その沈黙が、ロイには答えのように感じられた。
扉の鈴が鳴ったのは、その時だった。
入ってきたのはベアトだった。以前、選ばれる赤い靴を納めた娘だ。今は柔らかな茶色の靴を履き、髪には淡い青のリボンを結んでいる。赤い靴の頃より、ずっと地味だった。けれど、足元はしっかりしていた。
「こんにちは。紅茶をいただけますか」
「いらっしゃいませ、ベアトさん」
リゼットはいつもの声で迎えた。
ベアトはカウンターの白紙に気づいた。
ベアトは以前より、満願堂へ来る足取りが軽くなっていた。
軽いといっても、浮かれているわけではない。赤い靴を履いていた頃のように、誰かの視線を探す歩き方でもない。茶色の靴は石畳をきちんと踏み、少し疲れれば立ち止まることを許してくれる。
彼女は最近、夜会よりも朝市へ行くことが増えたという。
「踊る場所ではないんですけど」
ベアトは笑った。
「歩いていると、誰かに選ばれるかどうか以外のことを考えられるんです。今日はどの道を通ろうとか、どの店のパンが焼きたてかとか」
その話を聞いていたロイは、リゼットを見る。
リゼットは穏やかに聞いていた。けれど、白紙の地図を前にした彼女には、ベアトの何気ない言葉が少しずつ積もっているようだった。
行き先が分からない時、人は大きな答えを求める。
だが、朝市へ行く靴を選ぶことも、行き先の始まりになるのかもしれない。
「地図ですか?」
「行き先を示す地図です」
ロイが答えた。
「でも、今は白紙で」
ベアトは少し考え、自分の靴を見下ろした。
「どこへ行くか決める前に、歩ける靴を履く日もあります」
何気ない言葉だった。
誰かを励まそうとしたわけではない。説教でもない。ただ、彼女自身が赤い靴を納めた後、歩くための靴を選んだことから出た言葉だった。
リゼットはその言葉を聞いて、白紙の地図を見た。
行き先がない。
そう言われれば、その通りかもしれない。
けれど、行き先が分からないからといって、立っているしかないわけではない。歩ける靴を履く日もある。どこへ行くか決める前に、歩く準備だけをする日もある。
モルがベアトの靴を嗅いだ。
「歩くにおい」
「まだ?」
ベアトが笑うと、モルは頷いた。
「まだ歩く」
リゼットは白紙の写しを畳んだ。
「この地図は、しばらく私が預かりましょう」
ロイが尋ねる。
「何か見えるまでですか」
「いいえ」
リゼットは少しだけ考えてから言った。
「見えないことを、覚えておくために」
その言葉は穏やかだったが、ロイには重く聞こえた。
行き先がないことを、なかったことにしない。白紙の地図を閉じて捨てるのではなく、白紙のまま預かる。
それは、満願堂らしい選択だった。
だが同時に、ロイは思った。
預かるだけでは、いつか足りなくなるのではないか。
ベアトは紅茶を飲みながら、窓の外を見た。
「私、まだどこへ行きたいのか、よく分からないんです」
「そうなのですか」
リゼットが言う。
「でも、この靴だと、分からないまま歩けるんです」
ベアトは笑った。
「赤い靴の時は、誰かの手がないと動けなかったから」
リゼットは静かに頷いた。
その日の閉店後、リゼットは白紙の地図の写しを納願帳の間に挟んだ。
白紙を挟むことに、少し迷いはあった。
納願帳には、これまで多くの願いが書かれてきた。美しくなりたい。忘れたい。待ちたい。選ばれたい。終わらせてあげたい。言葉になった願いは、どれほど危うくても頁の上に形を持つ。
だが、この白紙は何も言わない。
行き先がないことは、願いなのだろうか。願い以前の空白なのだろうか。
リゼットには分からなかった。
それでも挟んだ。
分からないものを、分からないからといって外へ出してしまえば、処分場の灰と同じ場所へ行ってしまう気がした。
分からないものを、分からないまま預かる。
満願堂には、そういう頁も必要なのかもしれなかった。
モルがその上に前足を置く。
「リゼット、白い」
「ええ」
「こわい?」
「少し」
リゼットは正直に答えた。
モルは驚いたように目を丸くした。
それから、白紙の上で丸くなった。
「じゃあ、モル、ここにいる」
「ありがとうございます」
リゼットは灯りを落とした。
白紙の地図は、何も示さない。
けれど、その白さはもう、ただの空白ではなかった。




