第八十三話 願いを肩代わりする腕輪
エルネストは、弟の願いを叶えてやりたかった。
弟のリオは、病弱だった。生まれつき肺が弱く、季節の変わり目には熱を出す。走ることも長く歩くことも難しい。窓辺の椅子に座り、通りを行く子どもたちを眺める時間が多かった。
エルネストは、弟が何かを欲しがる顔が苦手だった。
外へ行きたい。市場を見たい。川沿いを歩きたい。友だちと石を投げたい。馬車に乗って北門の外まで行きたい。
リオはわがままを言わない。言わないからこそ、エルネストには分かった。言葉にしない願いほど、部屋の中で大きくなる。
兄として、叶えてやりたい。
そう思うのは自然なことだった。
最初に満願堂で買ったのは、旅の絵葉書だった。
「表の棚の願具です」
リゼットは、古い風景画のような絵葉書を出した。
「眺めると、描かれた場所の空気を少しだけ感じられます」
「弟に見せたいんです」
「よいと思います。ただし返りとして、実際に行きたい気持ちが少し強くなることがございます」
「それは困りますね」
エルネストは苦笑した。
「でも、見せたい」
絵葉書はリオを喜ばせた。
リオは絵葉書を宝物のように扱った。
港の絵葉書は枕元へ置き、雪の村の絵葉書は窓に立てかけた。砂色の街の絵葉書を見た夜には、砂は本当に熱いのかと何度も聞いた。エルネストは行ったことのない場所について、知っているふりをして答えた。
「きっと熱い」
「靴の底も?」
「たぶんな」
「じゃあ、厚い靴がいるね」
そんな会話をしている時、リオの顔は本当に明るかった。
エルネストはその顔を見るたび、自分が正しいことをしたと思った。弟が外へ出られないなら、せめて外の気配を部屋へ運んでやればいい。
だが、数日後、リオは窓の外を以前より長く見るようになった。
絵葉書で知った港や雪や砂の街は、彼の中で現実の外へ繋がっていた。小さな部屋は、前より少し広くなった。けれど、広くなった分だけ、出られない壁もはっきりした。
「兄さん」
ある夕方、リオは言った。
「港って、匂いも違うのかな」
エルネストは答えられなかった。
絵葉書は、匂いまでは運んでくれなかった。
港の風。雪の村。遠い橋。砂色の街。リオは絵葉書を両手で持ち、目を輝かせた。ほんの少しだけ、部屋の中へ外の空気が入ったようだった。
だが、返りも来た。
リオは以前よりも外を見たがるようになった。窓を開けて、長く通りを眺める。熱がある日でも、今日は空が青いね、と言う。
エルネストは苦しかった。
見せなければよかったのだろうか。だが、あの笑顔を知らないままにしておくこともできなかった。
再び満願堂へ行くと、リゼットは奥の棚から銀色の腕輪を出した。
「願いを肩代わりする腕輪です。魔願具にあたります」
「肩代わり」
「近しい方の願いを、身につけた方が少し引き受けます。願っていた方は、その願いの重さから少し楽になります」
エルネストは腕輪を見た。
細い銀の輪だった。内側に小さな月環の模様が刻まれている。派手ではない。けれど、手首につけると外れにくそうな形だった。
リゼットは返りについても告げた。願いを預けられた者は楽になる。けれど、そのぶん本人が願う力も少し薄れるという。
「それで弟が苦しまなくなるなら」
「エルネストさん」
リゼットは静かに言った。
「願いは、苦しみでもありますが、生きる向きでもございます」
「分かっています」
エルネストは答えた。
本当は分かっていなかった。
ただ、弟の窓辺の横顔を見るのがつらかった。
納願帳に書いた。
弟の願いを、少しでも自分が背負いたい。
モルが腕輪を嗅いだ。
「ふたりのにおい」
少しして、耳を伏せる。
「でも、ひとりになる」
腕輪は効いた。
最初に入ってきたのは、風への憧れだった。
エルネストは朝、仕事へ向かうために外へ出ただけで、胸の奥が妙に騒ぐのを感じた。通りの端を吹き抜ける風が、いつもより明るい。市場の方から聞こえる声が、彼を呼んでいるように思える。川沿いへ行けば、水面が光っているはずだ。北門の外の道は、今日きっと乾いて歩きやすい。
それらはエルネスト自身の願いではなかった。
彼はもともと、仕事が終われば家へ戻る男だった。遠くへ出たいと思ったことは少ない。だが腕輪をつけてから、彼の足は外へ向かった。
弟の願いを背負っている。
そう思うと、胸が熱くなった。
市場で見た果物をリオへ話す。川沿いの小石を拾って帰る。北門の外の土を靴につけたまま、弟の部屋へ入る。リオは最初、本当に喜んだ。
けれど、エルネストが話せば話すほど、リオは聞く人になっていった。
願う人ではなく、兄の旅の報告を聞く人に。
エルネストが腕輪をつけると、リオは少し穏やかになった。外へ行きたいと口にする回数が減った。窓の外を見ても、以前ほど苦しそうではない。
代わりに、エルネストの中へ弟の願いが入ってきた。
市場の匂いを嗅ぎたい。川沿いを歩きたい。北門の外の道を見たい。子どもたちが石を投げる音の中に入りたい。
エルネストはそれらを叶えようとした。
一人で市場へ行く。弟の代わりに果物を買う。川沿いを歩く。北門の外へ出る。見たものを弟へ話す。リオは笑って聞いた。
最初は、それでよかった。
弟が楽になり、自分が代わりに外を見てくる。兄として、これ以上のことはないように思えた。
だが、日が経つにつれて、リオの質問は減っていった。
「市場はどうだった?」と聞かなくなった。
「川の水は冷たかった?」とも聞かない。
エルネストが土産を持ち帰っても、リオは穏やかに礼を言うだけだった。
「兄さんが楽しそうでよかった」
その言葉を聞いた時、エルネストは初めて冷たくなった。
弟の願いを叶えているつもりだった。
けれど、いつの間にか自分が弟の願いを持ち歩き、弟本人は願う場所から離れていた。
ある日、リオの体調が少し良かった。
医師は、家の前の通りを短く歩くくらいならよいと言った。エルネストは喜び、外套を用意した。
「リオ、少し歩こう」
弟は窓辺で首を傾げた。
「兄さんが行ってきて」
「今日はお前も行けるんだ」
「僕はいいよ」
「どうして」
リオは困ったように笑った。
「外へ行きたいって、どんな感じだったか、少し分からなくなった」
エルネストは腕輪を掴んだ。
銀の輪は冷たかった。
満願堂へ駆け込むと、リゼットは彼をすぐに奥の席へ案内した。
「これを納めます」
エルネストは腕輪を外そうとした。だが、手が震えてうまく外れない。リゼットが手を添え、静かに留め具を開いた。
「はい。魔願具ですので、納めることはできます」
「弟の願いは戻りますか」
「少しずつ、ご本人の場所へ戻るでしょう。ただし、預けた時間は残ります」
「俺は、弟を楽にしたかっただけなんです」
「はい」
「でも、楽にすることと、願わなくさせることは違った」
リゼットは腕輪を黒布に置いた。
「叶えて差し上げることと、願う場所を奪わないことは、とても近く、とても違います」
その言葉を言ったあと、リゼットはほんの少しだけ黙った。
ロイはその場にいなかった。けれど、もし見ていれば気づいただろう。リゼットの言葉は、エルネストへ向けられたものだけではなかった。
すべての願いに、行き着く場所をあげたい。
その願いは、誰かの願いの行き先を大切にするものだ。だが、もし一人で全部背負い続ければ、願う場所そのものを誰かから奪ってしまうことはないのか。
モルが腕輪を嗅いだ。
「ふたり、ほどけた」
「戻るかな」
エルネストが聞くと、モルは首を傾げた。
「歩くなら」
「誰が」
「ふたり」
数日後、エルネストはリオと家の前の通りを歩いた。
距離は短い。市場へも川へも行けない。門の外など遠すぎる。けれど、リオは自分の足で三軒先の角まで歩いた。
途中で息が上がった。エルネストは何度も手を貸そうとした。
リオは笑って言った。
「少し待って」
エルネストは待った。
代わりに歩くのではなく、隣で待った。
角まで着いた時、リオは通りの先を見た。
「兄さん」
「何だ」
「市場まで、どのくらい?」
その声に、願いが少し戻っていた。
エルネストは泣きそうになりながら答えた。
「今日は無理だ」
「うん」
「でも、いつか行こう」
リオは頷いた。
それは、兄が代わりに叶える願いではなかった。
二人で、遠いまま持つ願いだった。
その日から、エルネストは外の話を少し変えた。
以前のように、弟の代わりに全部を見てきてやる、とは言わなくなった。市場へ行けば、リオが見たいと言った果物を一つだけ買う。川沿いへ行けば、小石ではなく水の音をどう説明すればいいか考える。北門の外へ行きたい衝動が来ても、それが本当に自分の足から出たものか、弟の願いの残り香なのかを確かめる。
リオも、すぐに元通り願えるようになったわけではない。
「行きたい」と言うまでに時間がかかる。言った後で、疲れたように黙る日もある。
それでも、願いは弟の中へ少しずつ戻っていた。
エルネストは、願いが戻ることの重さを初めて知った。
楽にしてやりたいと思った相手が、また苦しそうに願う。
それを見守る方が、代わりに歩くよりずっと難しかった。
満願堂の奥の棚で、銀の腕輪は静かにしている。
誰かのために願いを背負おうとする人は、きっとまた来る。
その時リゼットは、同じ説明をするだろう。
けれど、その声の奥には、ほんの少しだけ自分自身への問いも混じるようになっていた。




