表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第三章 奥の部屋で待つもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

82/97

第八十二話 みんなを幸せにする鐘

セシリアは、泣く声が苦手だった。


自分が泣くことも、人が泣くことも苦手だった。涙が嫌いなのではない。泣いている人の前で、何をすればいいのか分からなくなるのが嫌だった。


彼女は月環街の南区で、小さな下宿屋を切り盛りしている。住んでいるのは、学生、職人見習い、旅人、夫を亡くした婦人、夜勤の多い薬草師など、皆それぞれに事情を抱えた人々だった。


下宿屋には、毎日のように小さな不満が起きる。


誰かが台所の火を消し忘れる。誰かが洗濯紐を独占する。誰かの足音が夜中に響く。誰かが故郷からの手紙を読んで泣く。誰かが仕事を失い、食卓で黙り込む。


セシリアは、それらすべてを丸くしたかった。


皆が穏やかでいてほしい。


誰にも怒ってほしくない。誰にも悲しんでほしくない。自分の下宿屋では、せめて温かい食事と静かな夜だけがあってほしい。


最初に満願堂で買ったのは、和みの卓布だった。


「表の棚の願具です」


リゼットは、淡い生成りの卓布をカウンターへ置いた。


「食堂の机に掛けると、その場の空気が少しやわらぎます」


リゼットは返りについても告げた。言いたかった不満が、少し遅れて出ることがあるという。


セシリアは笑った。


「遅れるくらいなら、きっと助かります」


卓布はよく効いた。


和みの卓布を掛けた最初の夜、下宿屋の食堂では珍しく誰も大きな声を出さなかった。


学生の二人が、共同の机を使う時間で揉めかけた。普段なら、片方が椅子を鳴らし、もう片方が食器を乱暴に置く。だが生成りの布を挟んだ食卓では、二人は顔を見合わせ、まあ明日にしようと言った。


セシリアはほっとした。


その小さな平和が嬉しかった。誰かが怒らずに済むだけで、夜の皿洗いまで軽くなる。食堂の空気が尖らないだけで、彼女の肩は少し下がった。


けれど、翌朝になっても学生たちは机の問題を解決していなかった。


一人は早朝に起きてこっそり使い、もう一人は昼に戻って眉をひそめた。声は荒げない。荒げないまま、二人の間に薄い膜ができた。


セシリアは、その膜に気づきながら、見ないふりをした。


大きな喧嘩になっていないなら、まだ大丈夫。


そう思いたかった。


食堂に掛けると、口論が減った。台所の片づけをめぐる小さな喧嘩も、誰かが故郷を恋しがって泣く夜も、少しだけ早く静まるようになった。


セシリアは安心した。


自分の下宿屋は、少し良い場所になったのだと思った。


だが、不満は消えたわけではなかった。


言葉にならなかった不満は、廊下の隅や、食器棚の奥や、閉め切った部屋の中に沈んでいった。誰も怒鳴らない。誰も大声で泣かない。けれど、笑い声も少しずつ小さくなった。


ある夜、下宿人の一人が言った。


「ここは静かすぎる」


責める声ではなかった。疲れた声だった。


セシリアは眠れなかった。


もっと強いものがあれば、皆を本当に楽にできるのではないか。


そう思い、満願堂へ戻った。


リゼットは奥の棚から、小さな卓上鐘を出した。


真鍮でできた、手のひらほどの鐘だった。表面には細い花模様が彫られている。持ち手は丸く、鳴らせば澄んだ音がしそうだった。


「みんなを幸せにする鐘です。魔願具にあたります」


「名前が、少し怖いですね」


セシリアはそう言って笑おうとした。


リゼットは微笑まなかった。


「鳴らすと、その場にいる方々の不満や悲しみが少し薄れます」


「薄れるだけですか」


「はい。なくなるわけではございません」


リゼットは返りについても静かに告げた。悲しむべきこと、怒るべきこと、変えるべきことまで、遠く感じられるようになることがあるという。


セシリアは鐘を見た。


怒るべきこと。


悲しむべきこと。


変えるべきこと。


そんなものが、毎日の暮らしに本当に必要なのだろうか。誰かが怒っても、皿は割れる。誰かが泣いても、夜は長くなる。変えようとしても、皆が傷つく。


「少しだけ使います」


セシリアは納願帳へ書いた。


皆が穏やかでいられますように。


モルが匂いを嗅いだ。


「やわらかいにおい」


少し間を置いて、顔をしかめる。


「でも、息しにくい」


鐘は、卓布よりもよく効いた。


下宿屋の食堂で鳴らすと、空気がすっと丸くなる。誰かが文句を言いかけても、まあいいか、と笑う。泣きそうな人も、涙を飲み込んで食事を続ける。夜勤明けの薬草師が足音に苛立つことも、学生が仕送りの遅れに机を叩くことも減った。


下宿屋は評判になった。


あそこは居心地がいい。皆が穏やかだ。揉め事がない。


セシリアは誇らしかった。


だが、ある日、若い職人見習いが出て行った。


理由を聞くと、彼は困ったように言った。


「ここにいると、怒れなくなるんです」


「怒らない方が、楽ではありませんか」


「最初はそうでした」


彼は荷物を抱え直した。


「でも、親方にひどい扱いをされても、まあいいかと思ってしまう。賃金が遅れても、仕方ないと思ってしまう。それが怖くなりました」


セシリアは何も言えなかった。


次に、夫を亡くした婦人が部屋で泣かなくなった。


それ自体は良いことのように思えた。だが、彼女は夫の話もしなくなった。命日の花も買い忘れた。食堂で穏やかに笑っているのに、どこか大切な部屋の鍵を失くしたような顔をしていた。


悲しみが薄れることは、いつも救いではない。


そのことに、セシリアはようやく気づき始めた。


ある晩、食堂で小さな火事が起きた。


台所の布に火が移ったのだ。大事には至らなかった。だが、火を消したあと、本来なら誰かが怒るべきだった。誰が火を残したのか。どうすれば繰り返さずに済むのか。そう話し合うべきだった。


しかし鐘を鳴らしてしまった後の食堂では、皆が穏やかに言った。


「大事にならなくてよかった」


「次は気をつけましょう」


「誰にでも間違いはあります」


その優しい言葉に、セシリアは冷えた。


誰も責めない。誰も怒らない。けれど、何も変わらない。


翌日、彼女は満願堂へ鐘を持ってきた。


その夜、セシリアは鐘を食堂の中央に置いたまま、長く見つめていた。


鳴らせば、皆は穏やかになる。火事の責任をめぐって、誰かが誰かを責めることもない。自分が間に立って、言葉を選び、誰かを泣かせることもない。


セシリアの指は、何度も持ち手へ伸びた。


けれど、手を止めた。


責めるためではなく、変えるために話すこともあるのではないか。怒りはすべて醜いものではなく、危ないことを危ないと言うために必要な火なのではないか。


そう思った瞬間、セシリアは自分がずっと火を恐れていただけなのだと気づいた。


台所の火も、人の怒りも、同じように。


どちらも扱いを間違えれば燃える。けれど、完全に消してしまえば、温かい食事も作れない。


セシリアは鐘を布に包んだ。


明日の朝、満願堂へ行こう。


そう決めると、食堂の静けさが少しだけ本当のものになった。


「納めます」


リゼットは両手で鐘を受け取った。


「はい。魔願具ですので、納めることはできます」


「私は、皆に幸せでいてほしかっただけなんです」


「はい」


「悲しむ顔を見るのがつらかった。怒る声も、泣く声も。下宿屋くらい、穏やかであってほしかった」


「ええ」


リゼットは責めなかった。


それが、セシリアにはかえって苦しかった。


「でも、怒らないと変わらないこともあるんですね」


「ございます」


「悲しまないと、失ったことが分からないことも」


「はい」


セシリアは目元を押さえた。


「皆を幸せにするなんて、私には大きすぎました」


リゼットは鐘を黒布に包む。


「皆様の悲しみや怒りには、それぞれの行き先がございます」


その言葉を言った時、リゼットの声はいつもより少しだけ遠かった。


ロイは、ちょうど普通便を届けに来ていた。セシリアの背中を見送りながら、リゼットの横顔を見た。


すべての願いに行き着く場所をあげたい。


それは優しい願いだ。


だが、すべての悲しみや怒りにも行き先があるなら、リゼットはそれらも全部見送ってきたのだろうか。


モルが鐘の包みに鼻を寄せる。


「しあわせ、しずか」


「ええ」


「でも、ちょっと、くるしい」


「そうですね」


リゼットは奥の棚へ鐘を納めた。


棚の奥で、鐘は鳴らなかった。


鳴らない沈黙の中に、下宿屋へ戻っていく不満や悲しみの気配が少しだけあった。


セシリアの下宿屋では、その後、喧嘩が少し増えた。


泣く夜も戻った。食堂で言い合いになることもあった。セシリアはそのたびに胃が痛くなった。


けれど、火の扱いについては皆で決まりを作った。夫を亡くした婦人は、命日に花を買った。職人見習いは親方に賃金のことを言い、下宿に戻ってきた。


穏やかではない日々だった。


それでもセシリアは、食堂の壁へ、小さな木札を掛けた。


言いたいことは、食事の前に一つずつ。


それは魔願具ではない。


その決まりを作る時、セシリアは初めて下宿人たちを集めた。


今までなら、彼女一人で決めていた。角が立たない言葉を選び、誰も不満を言わないように貼り紙をする。それが管理人の仕事だと思っていた。


だが、その日は違った。


「台所の火のことを、皆で決めたいんです」


そう言うと、食堂は少しざわついた。


学生は面倒そうな顔をし、薬草師は眠そうに目をこすり、夫を亡くした婦人は黙って椅子に座った。意見はすぐにまとまらなかった。誰かが言いすぎ、誰かが黙り込み、セシリアは何度も鐘に手を伸ばしたくなった。


けれど、鐘はもうない。


だから彼女は、一つずつ聞いた。


聞いている間、食堂は穏やかではなかった。だが、生きている場所の音がした。


ただの決まりだった。


けれど、下宿屋には前より少し、人の声が戻った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ