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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第三章 奥の部屋で待つもの

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第八十一話 金貨百枚の客

満願堂に、金の音がした。


それは扉の鈴より先に届いた。石畳を踏む靴音、護衛らしき男たちの気配、重い革袋が抱え直される音。満願堂の扉が開くと、紅茶と古書の匂いの中へ、硬い金属の匂いが混じった。


入ってきた男は、月環街の者ではなかった。


年は四十を少し過ぎた頃だろう。毛皮の縁取りがある外套を羽織り、指には宝石の指輪をいくつもはめている。恰幅はよく、顔つきも悪くない。ただ、どこか店の空気を見ていない。棚も、席も、紅茶の香りも、そこにいる人の顔も、すべてを値段に変えるために眺めているような目だった。


「ここが満願堂か」


男はカウンターの前へ立ち、革袋を置いた。


袋の口がわずかに開き、中で金貨が重なった。軽やかな音ではない。もっと沈むような、床板まで重くする音だった。


「店ごと買いたいわけではない」


男は笑った。


「奥の品を一つ譲ってほしい」


リゼットはいつものように頭を下げた。


「いらっしゃいませ。まずはお席へどうぞ」


「茶を飲みに来たのではない」


「満願堂では、まずお話を伺います」


「話なら早い。満願具が欲しい」


その言葉で、店内の空気が少しだけ低くなった。


窓際で本を読んでいたエリアスが、頁をめくる手を止める。カウンターの上で丸くなっていたモルが顔を上げる。ちょうど茶葉の納品に来ていたロイは、受け取り帳を持ったまま動きを止めた。


男はそれを、店側が恐れ入ったのだと勘違いしたらしい。


「金貨百枚ある」


革袋の隣に、もう一つ袋を置く。


「足りなければ増やす。人から聞いた。この店には、人を特別なものに仕上げる品があるそうだな」


「満願具のことでしょうか」


「そうだ。美しくなるものでも、名が残るものでも、権力を得るものでもいい。私にふさわしいものを出せ」


リゼットは男の顔を見た。


責める目ではない。嘲る目でもない。ただ、静かに見ていた。


「お断りします」


男の笑みが止まった。


「聞こえなかったか。金貨百枚だ」


「金額のお話ではございません」


リゼットの声は穏やかだった。


その穏やかさが、かえって男の苛立ちを招いた。


「私が払えないとでも?」


「いいえ。金貨百枚をお持ちなのは分かります」


「ならばなぜ断る」


「満願具は、願いが澄んだ方にしかお渡しできません」


「願いならある。特別になりたい。誰にも侮られない私になりたい。私を見下した者たちを黙らせたい。私の名を残したい。私が持つにふさわしい品を寄越せ」


男は言葉を重ねた。


重ねるほど、その願いは輪郭を失っていくようだった。特別になりたい。見下されたくない。名を残したい。勝ちたい。買いたい。持ちたい。どれも強い。けれど、どれが男の中心なのかは見えない。


モルがカウンターから降り、男の足元を一周した。


「おもい」


男は眉をひそめた。


「何だ、この獣は」


「モルと申します」


リゼットが答える。


モルは男の革袋の匂いを嗅いでから、首を傾けた。


「でも、からっぽ」


男の顔色が変わった。


「無礼だな」


ロイが一歩前へ出かけたが、リゼットが目だけで止めた。


「お客様」


リゼットは静かに続けた。


「満願具は、願いを叶える品ではございません。願いと一つになり、持ち主をその願いへ仕上げるものです」


「それを望んでいると言っている」


「何へ仕上がりたいのかが、まだ定まっていらっしゃいません」


「金ならある」


「はい」


「地位もある。人脈もある。家も、船も、土地もある」


「はい」


「だから足りないものを買いに来た」


リゼットはわずかに目を伏せた。


「足りないものを買うために満願具を求める方は、たいてい、何が足りないのかをまだ見ていらっしゃいません」


男は革袋を掴んだ。


「説教を聞きに来たのではない」


「では、紅茶はいかがでしょう」


「茶もいらん」


男は椅子を引くこともなく、金貨の袋を持ち上げた。


「噂ほどの店ではないな」


「そうかもしれません」


リゼットは微笑んだ。


「満願堂は、どなたにとっても都合のよい店ではございませんから」


男は最後に奥の通路を見た。


そこへ続く空気に、何かがあることだけは感じたのだろう。だが、どれほど睨んでも、奥の扉は見えなかった。願いが澄んでいない者に、奥の部屋はただの店の影にすぎない。


男は満願堂を出て行った。


護衛の一人が、出ていく間際に少しだけ振り返った。


彼は主人ほど派手な服を着ていない。腰には短い剣を下げていたが、目つきは荒くなかった。むしろ、満願堂の中に残る紅茶の香りを惜しむような顔をしていた。


「失礼しました」


小さな声だった。


男の主人には聞こえなかっただろう。リゼットはその護衛へも静かに頭を下げた。


金貨百枚を持つ者の願いは、店の中に入れなかった。けれど、その後ろに従う者の小さな疲れは、確かに扉の内側へ一瞬だけ届いていた。


ロイはその背中を見送った。


あの護衛にも願いはあるのだろうか。主人に従い、金貨の袋を持ち、無礼な言葉の後始末をする人間にも、どこかへ行きたい場所はあるのかもしれない。けれど彼は何も言わず、ただ「失礼しました」とだけ置いていった。


満願堂に入る願いは、いつも大きな声をしているわけではない。


むしろ大きな声の後ろで、小さな願いが息を潜めていることもある。


リゼットは扉が閉じた後、少しだけその方角を見ていた。


「今の方は」


ロイが言いかけると、リゼットは微笑んだ。


「まだ、ご自身の願いを持っていらっしゃるだけです」


「満願堂に来るほどではない?」


「来るかもしれませんし、来ないかもしれません」


それ以上は言わなかった。


ロイは、リゼットが大きな金貨の音よりも、小さな謝罪の声の方をよく聞いていたことに気づいた。


金の音が遠ざかると、店内に紅茶の香りが戻ってきた。


ロイはまだ扉を見ていた。


「本当に、金貨百枚でも駄目なんですね」


「ええ」


リゼットはカウンターの上の受け取り帳へ署名する。


「満願具に値札はございません」


「でも、あれだけ願っているように見えました」


「たくさん欲しがることと、願いが澄むことは違います」


ロイはその言葉を覚えておこうと思った。


満願堂では、強い声が正しいとは限らない。重い金が深い願いとは限らない。欲しいものを並べるほど、中心が見えなくなることもある。


モルは男が立っていた場所をもう一度嗅いだ。


「お金のにおい、いっぱい」


「そうですね」


「願い、ばらばら」


「ええ」


モルは少し考えた後、リゼットを見上げた。


「リゼットは、わかる」


「何をでしょう」


「人のいきさき」


リゼットの手が、一瞬だけ止まった。


ロイはそれを見た。


ほんの一瞬だった。ココなら気づかなかったかもしれない。けれどロイには見えた。リゼットは他人の願いの行き先を見定めることができる。澄んでいるか、迷っているか、奥へ通すべきか、断るべきか。


だが、モルの言葉に一瞬だけ止まった。


リゼット自身の行き先については、まるで言葉が触れてはいけない場所へ触れたように。


「すべて分かるわけではございません」


リゼットはすぐにいつもの声へ戻った。


「だから、お話を伺うのです」


エリアスが窓際で静かに笑った。


「金貨百枚で紅茶を買えば、何杯飲めるのかしら」


モルが耳を動かした。


「いっぱい」


「そうね。いっぱいね」


ロイは少しだけ笑い、受け取り帳を閉じた。


その日、金貨百枚は満願堂に何も残さなかった。


ただ、リゼットの手が一瞬止まったことだけが、ロイの中に残った。


願いが澄んでいない客は、奥へ通されない。


翌日、月環街にはすぐに噂が広まった。


満願堂は金貨百枚を断ったらしい。愚かな店だと言う者もいた。さすが満願堂だと面白がる者もいた。金貨百枚という額だけがひとり歩きし、実際に何が断られたのかを知る者は少なかった。


ココは逓便局でその噂を聞き、満願堂へ来るなり耳を揺らした。


「金貨百枚って、本当ですか?」


「本当だ」


ロイが答える。


「すごいですね。金貨百枚あったら、馬車ごと買えますかね」


「馬車どころじゃない」


「じゃあ、モルさん用の大きなクッションも買えますね」


「それは金貨一枚でも余るだろう」


モルは真剣な顔で聞いていた。


「大きなクッション」


「買いませんよ」


リゼットが言うと、モルは少し残念そうにした。


その何気ないやり取りで、店内の重さが少しほどけた。


けれどロイの中には、金貨百枚の客のことが残っていた。満願具は値段では買えない。だが、値段で買えないものを、人はどうやって求めればよいのだろう。


その問いもまた、満願堂の奥へ続く細い道のように思えた。


数日後、その護衛だけが満願堂へ来た。


主人の使いではないと言い、帽子を脱いで入口の近くに立った。名をレムという。金貨の袋を運んでいた男だった。


「紅茶を一杯、いただけますか」


リゼットは何も尋ねず席へ案内した。


レムはカップを両手で持ち、しばらく湯気を見ていた。願具を求めることも、主人の非礼を改めて詫びることもしなかった。ただ、最後に言った。


「金で買えないものがあると、あの方はお怒りでした」


「そうですか」


「私は、少し安心しました」


レムは苦笑する。


「何でも買える方に仕えていると、買えないものがあるだけで、世界が少し残っている気がします」


リゼットは静かに頷いた。


レムは紅茶代として銅貨を置いて帰った。金貨ではない。ごく普通の紅茶一杯分の代金だった。


その銅貨の音は、金貨百枚より軽かった。


けれどロイには、その日の満願堂に残った音はこちらの方だったように思えた。


では、誰かの願いの行き先を与え続けている人自身が、自分の行き先を失っているなら。


その問いは、まだ声にはならなかった。


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