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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第三章 奥の部屋で待つもの

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第八十話 店になる日

月環の堂が満願堂として仕上がった日を、リゼットははっきり覚えていない。


満願具の仕上がりは、時に一瞬で訪れる。扉が開く。品に触れる。願いが根付く。何かが落ちる。持ち主は、その願いへ行き着く。


けれど満願堂の仕上がりは、もっと長かった。


一つ棚が増えた日。初めて紅茶を出した日。古書を置いた日。納願帳にその名を書いた日。白いものに名前をつけた日。黒鉄の扉が今の形で閉じた日。逓便局が納め札の荷を正式に満願堂へ届けるようになった日。


どの日も、満願堂が仕上がった日だった。


そして、どの日も、まだ途中だった。


最初の看板は、月環街の小さな彫り師に頼んだ。


文字は入れなかった。


彫り師は不思議そうな顔をした。


「店の名を入れないんですか」


「ええ」


「茶房ですよね」


「茶房でもあります」


その頃には、リゼットもそう答えるようになっていた。


看板には、ティーポットと古書と小さな鍵を刻んでもらった。


彫り師は鍵の持ち手に少し凝った模様を入れた。月環の輪に似た線。中心には、ただの飾りのようにも見える細い刻み。見ようによっては閉じた目にも見える。


リゼットはそれを見て、何も言わなかった。


白いものは看板の下で丸くなっていた。まだモルとは呼ばれていない。けれど、鍵の模様を見た時だけ、耳らしきものを少し動かした。


店内には、表の棚ができた。


軽い願具が並ぶ。晴れを少し借りる人形。探し物の栞。眠りを誘う香草。小さな喝采の鈴。どれも、願いを少し手伝うもの。返りも軽い。説明すれば、普通の客でも扱える。


奥の棚には、魔願具を置いた。


ガラスケースに入れ、黒布を敷き、勝手に触れさせない。願いに強く寄り添う品々。戻れるが、返りは残る。リゼットは一つ一つの扱いを納願帳に記した。


さらに奥には、黒鉄の扉があった。


古い金庫の扉は、月環の堂にあった頃よりも深く、重くなっていた。中央には閉じた一つ目の意匠。鍵穴はない。白いものの首元には、いつの間にか古い鍵が下がるようになっていた。


誰がリボンを結んだのか、リゼットは覚えている。


自分だった。


白いものが店内を歩くようになり、客が驚くようになった頃、リゼットは小さな布で首元にリボンを結んだ。迷子の魔獣ではなく、満願堂の者だと分かるように。鍵は、古い金庫のそばにあったものだった。白いものがいつもそれを前足で押さえていたので、リゼットはリボンに通してやった。


「大事なのですね」


白いものは答えなかった。


ただ、鍵を離さなくなった。


やがて、リゼットは名をつけた。


「モル」


理由は、はっきり言葉にしなかった。


白く、丸く、そこにいるもの。納め台の下で丸くなり、カウンターの上で丸くなり、願いのそばで丸くなるもの。


「モル」


そう呼ぶと、白いものは最初、反応しなかった。


二度目に呼ぶと、耳を動かした。


三度目に呼ぶと、ゆっくり振り返った。


名前を呼ぶと、来る。


その小さな出来事も、満願堂が仕上がっていく一部だった。


モルが言葉を覚えたのは、それからずっと後だった。


最初は、真似だった。


おきゃくさま。


紅茶。


はんこ。


いいにおい。


リゼット。


一つずつ覚え、少しずつ自分の言葉にした。


モルが初めて「おきゃくさま」と言った日、満願堂にいた老婦人は驚いてカップを落としかけた。リゼットはそれを受け止め、モルは得意そうに胸を張った。


それもまた、満願堂が今の形へ近づく日だった。


逓便局との関係も整っていった。


最初、納め物は人づてに届いた。誰かが持ち込み、誰かが預かり、時には道の途中で紛れた。黒い紐も、暗い赤の封蝋も、今ほど決まってはいなかった。


願い物が迷わないように、納め番の古い役目を引き継ぐ形で、逓便局が関わるようになった。


月環。扉。閉じた目。


紋章は、逓便局の中に残った。


やがて納め札が整い、黒い紐が使われ、暗い赤の封蝋に古式の紋章が押されるようになった。


満願堂は、店の中だけで成り立つものではなくなった。


届ける者がいる。直す者がいる。記録する者がいる。待つ者がいる。納められたものを見送る者がいる。


けれど、リゼットは長い間、自分がその中心にいるのだと思っていた。


中心というより、器だった。


願いが来る。納願帳へ書く。願具を説明する。魔願具を納める。満願具を奥へ導く。納め物を受け取る。モルの言葉を聞く。紅茶を淹れる。


その繰り返しの中で、満願堂は満願堂であり続けた。


そして、リゼット自身の行き先は、少しずつ遠くなっていった。


現代。


第二部の長い語りを終えた夜、満願堂は静かだった。


ロイとココはすでに帰っている。ヴェルナーから預かった記録は納願帳のそばに置かれ、オルスが直した棚の金具はまだ新しい光を残していた。


エリアスはいつもの席で、白い表紙の詩集を閉じた。


「昔の満願堂は、紅茶がなかったのね」


「ええ」


リゼットは答えた。


「今では考えにくいわ」


「私も、そう思います」


エリアスは少し微笑んだ。


「変わらないように見えるものも、昔は違ったのね」


その言葉は、彼女が言うと少し不思議だった。


変わらない願いで仕上がったエリアスが、満願堂の変化を静かに受け取っている。


リゼットは紅茶を注ぎ足した。


「満願堂も、初めから今の形ではありませんでした」


「でも、今はいつもの満願堂ね」


「はい」


「それなら、変わったあとも、いつものものになれるのかもしれないわ」


リゼットの手が、ほんの少し止まった。


エリアスはそれ以上言わず、紅茶を飲んだ。


モルがカウンターの上で丸くなり、眠そうに言う。


「満願堂、できた」


「ええ」


リゼットは微笑んだ。


「長い時間をかけて」


「でも、リゼットは?」


店内の空気が、静かに沈んだ。


その問いは、モルが何気なく言ったようでいて、長い間ずっとそこにあったものだった。


満願堂はできた。


月環の堂は形を変え、納願帳が生まれ、棚が整い、紅茶と古書の香りが満ちるようになった。モルは名前を持ち、言葉を覚え、逓便局は納め物を届ける。オルスは願具になりかけた品を見つけ、エリアスはいつもの席に座る。ロイとココは満願堂の扉を叩く。


満願堂は仕上がっている。


では、リゼットは。


リゼットはモルを見た。


「私は、ここにおります」


それは、長い間使ってきた答えだった。


嘘ではない。


彼女はここにいる。満願堂の管理人として、願いの行き着く場所を守る者として。


だが、ロイが聞けば、きっと気づくだろう。


その答えには、リゼット自身の行き先が含まれていない。


エリアスは何も言わなかった。


モルも、それ以上は聞かなかった。


ただ、カウンターの上で丸くなり、首元の鍵を小さく揺らした。


リゼットは閉店の支度をした。


表の棚を整え、奥の棚の黒布を確認し、納願帳を閉じる。黒鉄の扉は静かに閉じている。店の外では、月環街の夜が石畳を青くしていた。


満願堂は、いつものように明日も開く。


そのことに疑いはなかった。


けれど、エリアスの言葉がリゼットの中に残っていた。


変わったあとも、いつものものになれるのかもしれない。


それはまだ、願いにもなっていない小さな考えだった。


リゼットは灯りを落とし、最後に扉の札を見た。


満願堂が仕上がった後も、街の人々はすぐには変化に気づかなかった。


昨日まで月環の堂と呼ばれていた場所が、今日から満願堂になったわけではない。最初は、月環の堂に紅茶が出るようになった、と言われた。次に、願具を置く茶房と呼ばれた。そのうち、誰かが満願堂と言い始めた。


名前は、街の口の中で少しずつ馴染んでいった。


リゼットはそれを急がなかった。


願いにも、名にも、馴染む時間がいる。


逓便局が納め物を届けるようになった頃、満願堂はようやく街の中に根を下ろした。


黒い紐。暗い赤の封蝋。月環と扉と閉じた目の紋章。納め札。


それらが整うと、願いは少し迷いにくくなった。誰かの家から離れた願具が、荷の形で満願堂へ帰ってくるようになった。持ち主が来られなくても、家族が言葉を持てなくても、逓便局がその行き先を守る。


リゼットは初めて納め物を受け取った日のことを覚えている。


若い納め番の手は震えていた。モルはまだ受け取り印を押せなかった。リゼットは黒い紐を見て、長い時間を経て月環の堂が街の仕組みの中へ入ったのだと思った。


満願堂は、閉じた場所ではなくなった。


店の外に道ができた。


届ける者がいるということは、願いが一人で歩かなくてよいということだった。


その道が、後にロイやココへつながっていく。


そのことを、当時のリゼットはまだ知らなかった。


そして、店の中には、いつもの席が生まれた。


最初はただの窓際の席だった。日差しが柔らかく、本を読むのにちょうどよい。やがてエリアスがそこに座るようになる。変わらない願いで仕上がった彼女が、同じ席で同じ本を読み、同じ紅茶を飲む。


仕上がった願いも、満願堂の中では客でいられる。


その事実は、リゼットにとって小さくない意味を持った。


満願堂は、願いを終わらせる場所ではない。


仕上がった後も、その人がそこにいる場所でありうる。


それは、リゼット自身にはまだ向けられていない考えだった。


リゼットは時々、満願堂が本当に仕上がったのか分からなくなることがあった。


奥の部屋には満願具が並んでいる。表の棚には軽い願具があり、奥の棚には魔願具が休む。納願帳には数えきれない願いが記されている。モルは鍵を下げ、客のにおいを嗅ぎ、時々はんこも押す。逓便局は納め物を届ける。


形は整っている。


けれど、願いは毎日新しく来る。


昨日までなかった痛みが、今日誰かの胸に生まれる。昨日まではただの櫛だったものが、今日から願いを覚えることがある。満願堂がどれだけ整っても、願いの方は決して整いきらない。


だから、満願堂の仕上がりは完成ではなく、続けられる形を得たことなのかもしれない。


リゼットはそう考えるようになった。


満願堂は、終わったから仕上がったのではない。


続けられる形になったから、仕上がった。


その考えは、後にリゼット自身へ返ってくる。


人もまた、終わることだけが仕上がりではない。


続け方が変わることも、仕上がりの一つなのだと。


まだその時のリゼットは、そこまで考えていなかった。


ただ、いつものように札を返し、店を開けていた。


満願堂は仕上がった。


けれど、まだすべてが終わったわけではない。


むしろ、これからようやく、リゼット自身の願いが問われるのだと、店の奥で納願帳が静かに知っているようだった。


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