第七十九話 管理人の返り
リゼットが自分の返りに気づいたのは、満願堂が形を取り始めてからしばらく経った頃だった。
最初は、疲れだと思った。
月環の堂を満願堂へ変えるには、多くの仕事があった。納願帳の整理、棚の分類、願具の扱い、魔願具の管理、満願具を奥へ納める手順。紅茶を淹れ、古書を選び、看板を作り、来る人の話を聞く。
一日が終わる頃には、体は重かった。
だから、どこかへ帰りたいと思えないのは、疲れているせいだと思った。
けれど、疲れが取れても変わらなかった。
満願堂の二階には、小さな部屋があった。寝台と机と、窓が一つ。そこで眠ることはできる。食事もできる。手紙を書くこともできる。
だが、その部屋を自分の場所だと思えなかった。
満願堂の中にいる時、リゼットは迷わない。
表の棚には願具を置く。奥の棚には魔願具を休ませる。奥の部屋には満願具を納める。納願帳を開き、客の願いを聞き、返りを説明し、必要なら断る。
誰かの願いには、行き着く場所を探せる。
けれど、自分がどこへ行けばいいのかだけが、分からなかった。
ある日、近所の老婆がリゼットに尋ねた。
「あなたは、休みの日にはどこへ行くの」
その頃、満願堂にはまだ明確な定休日がなかった。それでも、店を早く閉める日くらいはあるだろうと、老婆は軽い気持ちで聞いたのだ。
リゼットは答えようとした。
そして、言葉が出なかった。
行きたい場所がない。
行きたくない場所もない。
外の街が嫌いなわけではない。月環街の市場も、川沿いの道も、古書市も、花屋も、どこも悪くない。けれど、自分のためにそこへ行くという感覚がなかった。
「私は、ここにおります」
リゼットはそう答えた。
老婆は笑った。
「働き者ね」
その言葉は褒め言葉だった。
だが、リゼットの胸には小さな空白が残った。
働き者だから、ここにいるのではない。
ここ以外の行き先が、思いつかないのだ。
返りは、罰ではない。
リゼットは何度も客へそう説明してきた。願いが進むことで、願いに不要なものが落ちる。美しさへ向かう人から生活の雑さが落ちる。正しさへ向かう人から曖昧さが落ちる。誰にも見つかりたくない人から、名前や関係が落ちる。
なら、自分の願いの返りは何か。
すべての願いに、行き着く場所をあげたい。
その願いに不要なものは何か。
答えは、少しずつ明らかになった。
自分自身の行き着く場所。
すべての願いの行き先を探すなら、自分の行き先は後回しになる。誰かの願いを納める場所になるなら、自分がどこへ納まるかは必要なくなる。
その返りは、静かだった。
痛みではない。記憶を失うわけでもない。体が崩れるわけでもない。だから、周囲には分からない。リゼット自身も、長く気づかなかった。
ただ、自分のために休むことができない。
自分のために出かけることができない。
満願堂を閉めるという発想が、心の中で形にならない。
それは、責任感とは少し違った。
責任感なら、誰かに任せる方法を考えられる。疲れなら、眠ればいい。義務なら、休む日を決めることもできる。
リゼットには、その前提がなかった。
満願堂が開いている。
だから、リゼットはいる。
それが自然で、それ以外の形が分からない。
最初にその匂いに気づいたのは、白いものだった。
その頃には、白いものは少しずつリゼットの近くにいる時間が増えていた。言葉はまだ持たない。けれど、願いの匂いに反応する。
ある夜、リゼットが納願帳を閉じた後、白いものは彼女の足元で長く鼻をひくつかせた。
「どうしましたか」
もちろん、返事はない。
白いものは、満願堂の奥へ行った。黒鉄の扉の前で止まり、リゼットを見た。それから、外の扉へ向かう。店の表の扉。その前でまた止まる。
リゼットはついて行った。
白いものは、外へ出なかった。
ただ、扉の前で丸くなった。
まるで、そこから先の匂いがリゼットにないことを確かめるように。
リゼットはその時、初めて小さく笑った。
「私は、出られないのではありません」
白いものは動かない。
「出る場所が、分からないだけです」
言葉にすると、それは思っていたよりも寂しかった。
白いものは、その寂しさを返してはくれなかった。返りで落ちたものを戻す存在ではない。ただ、そこにあるものとないものを嗅ぎ分ける。
白いものは、リゼットに行き先がないことを知っていた。
やがて白いものはモルと呼ばれるようになり、言葉を覚えた。
最初に言えた言葉は多くない。
おきゃくさま。
におい。
ここ。
だいじ。
そして、ある日。
「リゼット」
初めて名前を呼ばれた時、リゼットは少しだけ泣きそうになった。
名前を呼ばれると、そこへ行ける。
けれど、モルが呼ぶリゼットの場所は、いつも満願堂の中だった。
それで十分だと思った。
長い間、本当にそう思っていた。
現代の満願堂で、ロイはリゼットの過去を聞きながら、胸の奥に重いものを感じていた。
リゼットは疲れていないわけではない。けれど、問題は疲れではない。休みたいのに休めないという単純な話でもない。
休むという行き先が、彼女の中にない。
それは、ロイが想像していたよりずっと深い返りだった。
「リゼットさんは」
ロイは言いかけて、止まった。
まだ、言葉にするには早い気がした。
リゼットはいつものように紅茶を注いでいる。手つきは静かで、乱れはない。カップを置く位置も正確だ。何十年、あるいはそれ以上、同じように繰り返してきた動き。
その美しさが、少し怖かった。
モルがカウンターの上で言った。
「リゼットのいきさき、ない」
店内が静かになった。
リゼットはモルを見た。
「モル」
「ない」
モルは繰り返した。
「でも、リゼット、いる」
その言葉は慰めにはならなかった。
けれど、嘘でもなかった。
リゼットは満願堂にいる。誰かの願いを受け取り、納め、見送る場所にいる。そこにいることは間違いではない。彼女の願いは、その場所を作った。
ただ、その願いの返りとして、リゼット自身の行き着く場所だけが抜け落ちている。
ロイは、ようやく少しだけ分かった。
彼がリゼットに惹かれたのは、美しさや穏やかさだけではない。彼女がいつも誰かの願いの行き先を見ているのに、自分の行き先だけを見ていないように感じたからかもしれない。
そのことを、今の彼はまだ言えない。
けれど、いつか言わなければならないと思った。
リゼットは静かに微笑んだ。
「モルは、よく分かりますね」
「におい」
「ええ」
「返せない」
「はい」
リゼットは頷いた。
「返りは、簡単には戻りません」
その声には、自分自身にも同じルールを向けている厳しさがあった。
ロイはその厳しさが、少しだけ苦しかった。
もし誰かが同じように願い、自分の行き先をなくしたなら、リゼットはきっと言うだろう。
返りに気づいた後も、リゼットは誰かへ助けを求めることができなかった。
それは、彼女が強かったからではない。
助けてほしいという行き先もまた、彼女の中から抜け落ちていたからだ。
困っている客が来れば、椅子を勧められる。紅茶を淹れられる。願具の返りを説明できる。納める方法を考えられる。断るべき時には断れる。
けれど、自分が困っている時に、どこへ座ればいいのか分からない。
誰に何を言えばいいのか分からない。
「休んではどうですか」と言われれば、微笑んで答えた。
「お気遣いありがとうございます」
それで話は終わった。
相手もそれ以上は踏み込まない。リゼットが穏やかに見えるからだ。満願堂はいつも開き、紅茶はいつも温かく、モルはいつもカウンターで丸くなっている。誰も、それが返りだとは気づかない。
ただ、エリアスだけは時々、じっとリゼットを見ることがあった。
仕上がった者は、仕上がりの匂いに敏いのかもしれない。
「あなたは、いつも同じ場所にいるのね」
ある日、エリアスが言った。
リゼットは答えた。
「満願堂の管理人ですから」
エリアスは少し考え、紅茶を飲んだ。
「そう」
それ以上は言わなかった。
言わなかった言葉の方が、長く残ることもある。
その日の夜、リゼットは初めて、満願堂の外へ出る夢を見た。
夢の中で、彼女は扉の前に立っている。外には道がある。けれど、どの道も白く、行き先が書かれていない。歩き出そうとすると、足元に納願帳が開く。
頁には何も書かれていなかった。
目が覚めた時、モルが寝台の端にいた。
「リゼット、ないにおい」
それが何を指すのか、リゼットにはもう分かっていた。
モルが言葉を覚えてからも、リゼットは自分の返りを誰にも説明しなかった。
説明すれば、誰かが心配する。心配されれば、自分のために何かをしなければならない。しかし、自分のために何をすればいいのか分からない。
だから、彼女はいつものようにした。
紅茶を淹れ、帳面を開き、願いを納めた。
そうしている限り、何も間違っていないように見えた。
実際、間違ってはいなかった。
満願堂は必要だった。リゼットは管理人としてよく働いた。多くの願いがここへ辿り着き、納められ、あるいは持ち帰られた。救われた人もいる。仕上がった人もいる。痛みを抱えたまま歩き出した人もいる。
そのすべては、確かに意味があった。
だからこそ、リゼット自身の空白は見えにくかった。
善い仕事は、時々、人を閉じ込める。
誰かのためになっている限り、自分がどこへ行きたいのかを問わずに済む。
リゼットはそのことを、長い間知らないふりをしていた。
知らないふりもまた、願いの返りの一部だったのかもしれない。
現在のロイにとって、その話は他人事ではなかった。
彼にも、満願堂へ行く理由がある。配達。仕事。納め物。けれど、それだけではないことを自分で知っている。
リゼットに会いたい。
その願いはまだ、願具を生むほど深くはない。少なくとも、ロイはそう思っている。けれど、満願堂へ足が向くたび、自分の中で何かが少しずつ形を持っていることは分かる。
だからこそ、リゼットの行き先がないという言葉が怖かった。
自分が彼女へ向かうことは、彼女の行き先を増やすことなのか。それとも、管理人としての満願堂へさらに縛ることなのか。
ロイには分からない。
分からないまま、彼はカップを見つめた。
リゼットはいつものように紅茶を注ぐ。モルはいつものように匂いを嗅ぐ。満願堂はいつものように静かだ。
けれど、いつものものが、少し違って見え始めていた。
リゼットの返りを知った後では、彼女がそこにいることの意味が変わる。
ロイはまだ何もできない。
ただ、いつか言うべき言葉があることだけは、少しずつ分かってきていた。
戻せないものは戻せない。けれど、今からできることを探しましょう、と。
では、リゼット自身には誰がそれを言うのか。
その問いは、まだ満願堂の奥で静かに閉じていた。




