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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第三章 奥の部屋で待つもの

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第七十八話 納願帳

月環の堂が満願堂へ変わるまでには、長い時間がかかった。


一夜で看板がかかったわけではない。翌朝には紅茶の香りが満ちていた、というわけでもない。願いが澄んだからといって、世界がすぐ形を整えるわけではない。


最初に変わったのは、帳面だった。


リゼットが「すべての願いに、行き着く場所をあげたい」と書いた後、帳面は納め台のそばから離れにくくなった。鞄へ入れて持ち帰ろうとすると、表紙が重くなる。月環の堂から出ると、文字のいくつかが薄く見える。戻ってくると、また読みやすくなる。


まるで帳面自身が、ここを自分の置き場所だと決めたようだった。


リゼットは、それを無理に持ち出さなくなった。


代わりに、月環の堂の中へ小さな机を置いた。机の上に帳面を広げる。ペンを置く。持ち込まれた願い物について書く。納められたもの、納められなかったもの、持ち帰られたもの、壊した方がよいと判断されたもの。


処分場の帳面とは違い、ここでは品名だけでは足りなかった。


なぜなら、月環の堂には壊す手順がない。


持ち主が願いを口にしなければ、何を納めるのか分からない。願いが澄んでいるのか、迷っているのか、ただ捨てたいだけなのかも分からない。


リゼットは、問いを少しずつ整えた。


何を望まれますか。


何を手放したいのですか。


何を、まだ失いたくないのですか。


その問いに答えられる人ばかりではなかった。


怒る人もいた。泣く人もいた。黙って帰る人もいた。願い物を置いて逃げようとする人もいた。


リゼットはそのたびに、帳面へ書いた。


返答なし。


まだ言葉にならず。


捨てたい願い強し。


納める時ではない。


やがて、その帳面はただの記録ではなくなった。


願いが迷子にならないための帳面。


納める前に、願いの形を一度置く場所。


リゼットはそれを、納願帳と呼ぶようになった。


納願帳が生まれると、月環の堂の中に分類が必要になった。


すべての願い物を同じ場所に置くことはできない。軽い願いもあれば、深く染みた願いもある。使えばすぐに返りが出る品もあれば、まだただの古道具に近いものもある。


リゼットは最初、処分場で覚えた危険度の分類を使おうとした。


壊しやすいもの。壊しにくいもの。壊してはいけないもの。触れる前に手袋が必要なもの。返りが周囲へ滲みやすいもの。


けれど、月環の堂ではそれだけでは足りなかった。


ここは壊す場所ではない。


願いがどれほど危険かではなく、その願いがどこまで品と結びついているかを見る必要があった。


願いを少し手伝うもの。


願いに強く寄り添うもの。


願いと一つになり、持ち主を仕上げるもの。


リゼットはそれぞれを、願具、魔願具、満願具と呼ぶようになった。


名をつけることで、扱い方が決まる。


願具は表へ置ける。誰かが手に取り、説明を聞き、軽い返りを知ったうえで使える。晴れを少し借りる人形や、探し物を見つけやすくする栞のようなもの。


魔願具は奥の棚へ。勝手に触れさせない。効果も返りも強いが、まだ根付かない。納めれば止められる。ただし、使った分の返りは残る。


満願具は、奥の部屋へ。


それは売り物ではない。選ばせるものでもない。願いが澄み、扉が開き、本人が進む時だけ触れるもの。


そうした分類が整うにつれ、月環の堂の中に棚が増えた。


最初は簡単な木棚だった。近所の職人に頼んだものもあれば、リゼットが古道具を直したものもある。表の棚、奥の棚、黒布をかけた台。古い金庫に近い場所は、自然と満願具のための空間になった。


白いものは、棚が増えるたびに場所を変えた。


最初は納め台の下。次に奥の棚の前。その次はリゼットの机のそば。やがてカウンターのような台ができると、その上で丸くなるようになった。


まだモルという名前はない。


まだ言葉もない。


けれど、願いの匂いを嗅ぎ、納まるもののそばで丸まり、危ういものの前で動かなくなる。その存在は、月環の堂にとって欠かせなくなっていた。


変わったのは、品の置き場所だけではなかった。


リゼットは、来る人々の顔を見るようになった。


月環の堂へ来る人々は、たいてい緊張していた。恐れている人もいた。願い物を抱えている人の手は、固い。目は疲れている。何かを手放しに来たのに、手放す準備ができていない人が多かった。


処分場では、そういう人たちへ炉の順番を告げていた。


月環の堂では、違うものが必要だった。


座る場所。


手を温めるもの。


願い物をすぐに台へ置かずに済む時間。


最初に置いた椅子は一脚だけだった。


古い木の椅子。足が少し短く、座るとわずかに揺れる。リゼットはそれを直し、納め台から少し離れた場所に置いた。


次に、小さな卓を置いた。


その上に湯を置いた。最初は白湯だった。旅人や老人が、冷えた手を温めるためだけのもの。


やがて、リゼットは茶葉を置くようになった。


紅茶を出すと、人は少しだけ話しやすくなった。


願いの話をする前に、今日の天気を話す。道が混んでいたことを話す。持ってきた品の包みが雨に濡れなかったかを話す。そんな遠回りが、願いを言葉にする助けになった。


古書が置かれたのも、同じ理由だった。


待つ時間に、ただ願い物だけを見つめていると、人は願いに飲まれやすい。頁をめくる音があれば、少し呼吸ができる。本の中の他人の言葉が、自分の願いを直接見つめる怖さを和らげる。


こうして、月環の堂は少しずつ、古書茶房の形を取っていった。


看板に文字はつけなかった。


文字で名を掲げれば、願いを求める人だけが来る。願いを持っていることに気づいていない人は、入れない。だから、看板にはティーポットと古書と小さな鍵だけを刻んだ。


知らない人には茶房に見える。


必要な人には、少し違う匂いがする。


それでよかった。


いつから満願堂と呼ばれるようになったのか、リゼット自身もはっきり覚えていない。


誰かがそう呼んだのかもしれない。


納願帳の満の字から来たのかもしれない。


願いが満ちて、行き着く堂だからかもしれない。


月環の堂という古い名は、奥へ沈んでいった。


消えたわけではない。黒鉄の扉、納願帳、紋章の奥に残っている。ただ、表には紅茶と古書の香りが重なった。


現代の満願堂で、ココは表の棚を見回して言った。


「じゃあ、紅茶は後からなんですね」


「ええ」


リゼットは茶葉の缶を閉じる。


「満願堂が満願堂になる途中で、必要になりました」


「おいしいから?」


モルが聞く。


「それもございます」


「大事」


「ええ。たいへん大事ですね」


ロイはカウンターの上の納願帳を見た。


それはただの帳面ではない。処分場の娘が書き始めた記録であり、壊された願いを思い出させた願具であり、壊す手を止めた魔願具であり、月環の堂とつながって満願堂の形を整えたものでもある。


「重いですね」


思わず言うと、リゼットは少しだけ微笑んだ。


「はい」


「一人で書いているんですか」


「今は、そうですね」


その言葉に、ロイは小さな違和感を覚えた。


今は。


では、いつかは違うのだろうか。


あるいは、本当は一人で書くには重すぎるのではないか。


彼はまだ、その問いを口にしなかった。


モルが納願帳の横で丸くなる。


「帳面、ねむい」


「今日はよく働きましたから」


納願帳という名を決めるまで、リゼットは何度も迷った。


記録帳では足りない。処分帳では違う。願いの帳、と呼ぶには少し軽い。納めるための帳面。願いを迷子にしないための帳面。


ある時、老婆が納め台に手紙箱を置きに来た。まだ納まらなかったあの老婆だ。何度目かの来訪で、彼女はようやく箱を台へ置き、しばらく黙っていた。


「この箱のこと、書いてくれるのね」


老婆はリゼットの机を見て言った。


「はい」


「それなら、少し安心するわ。私が忘れても、ここに納まるでしょう」


その言葉が、リゼットの中で残った。


書くことは、覚えるためだけではない。願いを無理に引き留めるためでもない。手放した後、その願いが迷わないようにするためでもある。


納めるための帳。


納願帳。


名が決まると、帳面は少しだけ落ち着いた。表紙の色が深くなり、頁の端に月環の薄い模様が浮かぶようになった。リゼットが名を呼ぶと、開くべき頁が少し分かりやすくなった。


名をつけることは、縛ることではない。


少なくとも、リゼットはそう思った。


名があるから、呼べる。呼べるから、戻れることがある。


後に白いものへモルと名付けた時も、同じことを少しだけ思い出していた。


紅茶を出すようになってから、来る人の話し方は少し変わった。


いきなり願具を差し出して「これをどうにかしてくれ」と言う人が減った。まず席に座る。カップを持つ。湯気を見る。すると、願い物の話へ入る前に、その日の靴が濡れたことや、道に迷ったことや、家を出る時に誰にも言わなかったことを話す人がいた。


その遠回りは、無駄ではなかった。


願いは、まっすぐ出すと鋭すぎることがある。


少し湯気の中を通した方が、自分でも見つめやすくなる。


リゼットは、紅茶を淹れることを願具の扱いと同じくらい大切にした。


茶葉の濃さ。カップの温度。話し始めるまでの間。沈黙を埋めすぎないこと。急かさないこと。必要なら、ただのお茶だけで帰してよいこと。


満願堂が茶房でもある理由は、そこにあった。


願いだけを見つめる場所は、人を追い詰める。


本や紅茶や焼き菓子があることで、願いは少しだけ生活の中に戻る。


その生活の中でなお消えないものだけが、納願帳へ書かれていく。


満願堂の分類は、最初から完璧だったわけではない。


願具だと思って表に置いたものが、思ったより深く願いを覚えていて、慌てて奥の棚へ移したこともある。魔願具として預かった品が、持ち主の手を離れた途端に静まり、ただの記念品に戻ったこともある。


リゼットはそのたびに、納願帳へ追記した。


分類は、裁きではない。


扱い方を間違えないための仮の名。


この考えは、処分場で育った彼女にとって大切だった。処分場では、処分するか否かが重かった。けれど満願堂では、表、奥、さらに奥という距離がある。いきなり壊すのでも、いきなり仕上げるのでもない。


距離を置くことができる。


それは、人にとっても願いにとっても必要だった。


だから、満願堂の棚は単なる収納ではない。


願いとの距離を測るための場所だった。


表に置ける願い。奥で休ませる願い。扉の向こうでしか納まらない願い。


リゼットはその距離を、毎日少しずつ覚えていった。


リゼットはそう言って、黒布をそっと掛けた。


満願堂は、願いをすぐに奥へ連れていかないために生まれた。


紅茶と古書は、そのための優しい遠回りだった。


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