第七十七話 行き着く場所
月環の堂に通ううち、リゼットの帳面はまた変わり始めた。
処分場にいた頃、帳面は失われた願いを少し思い出させる願具だった。やがて、壊す前に迷わせる魔願具になりかけた。リゼット自身はそれを望んだわけではない。ただ、書き続けた結果、帳面が願いを覚えてしまった。
月環の堂へ来てから、その帳面は別のものに近づいていった。
納め台のそばで開くと、頁が勝手にめくれることがある。古い金庫の前で名前を読むと、文字の上に薄い影が落ちることがある。白いものが帳面の上で眠ると、翌朝、書きかけだった記録が少しだけ整っていることもあった。
リゼットは、帳面を恐れた。
願具処分の家に生まれた彼女は、願具が強くなっていく危うさを知っていた。願いが品に染み、品が願いを引き寄せるようになる。やがて、持ち主が品を使っているのか、品が持ち主の願いを進ませているのか分からなくなる。
自分の帳面も、そうなるのではないか。
それでも、彼女は書くのをやめなかった。
ある日、月環の堂に親子が来た。
母親と、まだ幼い少年だった。少年は小さな袋を抱えている。中には、欠けた土笛が入っていた。少年の父が作った笛だという。父は遠くへ働きに出たまま戻らず、笛だけが残った。
笛は、夜になると父の吹いた歌を鳴らした。
母親はそれを納めたいと言った。戻らない人の歌を聞き続けるのは苦しいから。少年は嫌だと言った。歌がなくなれば、本当に父が帰ってこない気がするから。
二人は納め台の前で、長く言い争った。
リゼットは口を挟まなかった。
納めるかどうかは、彼女が決めることではない。月環の堂も、無理には受け取らない。ただ、台があり、金庫があり、白いものがそばにいるだけだ。
やがて、母親は笛を置こうとした。
少年はそれを止めた。
袋が床に落ち、土笛が転がった。
欠けた笛は、小さく鳴った。
それは父の歌ではなかった。もっとかすれた、息だけのような音だった。
母親は泣いた。少年も泣いた。
リゼットは、帳面を開いた。
そこには、まだ何も書いていない頁があった。
彼女は尋ねた。
「その笛のことを、書いてもよろしいですか」
母親は驚いた。
「書いて、どうなるのですか」
「分かりません」
リゼットは正直に答えた。
「ですが、納めるにしても、持ち帰るにしても、願ったことがどこかに残ります」
少年は涙を拭きながら聞いた。
「父さんの歌も?」
「歌そのものは、残せないかもしれません」
「じゃあ、だめだ」
「けれど、あなたが歌を残したかったことは、書けます」
少年はしばらく黙った。
それから、小さく頷いた。
リゼットは書いた。
欠けた土笛。戻らない父の歌。母は苦しみから離れたい。子は歌が消えれば父が本当に遠くなると思っている。二人とも、父をなくしたくない。
書き終えた時、土笛はまだ床にあった。
納め台には置かれていない。
だが、白いものが土笛のそばで丸くなった。
母親はその姿を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
「今日は、持って帰ります」
「はい」
リゼットは頷いた。
「また来ても、いいですか」
「もちろんです」
その親子が帰った後、リゼットは帳面の頁を見つめた。
納めることだけが救いではない。壊さないことだけが正しいわけでもない。持ち帰ることが苦しみを伸ばす日もあれば、持ち帰る時間が必要な日もある。
処分場には、壊す手順があった。
月環の堂には、納め台があった。
しかし、どちらにも足りないものがある。
人が願いを口にする場所。
願いを急かされずに置ける場所。
納める前に、紅茶を飲むように息を整える場所。
リゼットの中で、長く名前のなかった思いが、少しずつ澄んでいった。
捨てる場所ではなく、納める場所を作りたい。
壊して終わらせるのではなく、行き着かせたい。
願ったことを、なかったことにしたくない。
その思いは、処分場を出た時からあった。月環の堂に辿り着いた時にもあった。だが、まだ形が定まっていなかった。
その夜、リゼットは古い金庫の前に座った。
白いものは納め台の下にいる。月環の堂には誰もいない。外では夜風が石畳を撫でている。
リゼットは帳面を開いた。
新しい頁ではなかった。これまで書いたすべての頁の間にある、どこでもない場所が開いたように見えた。
彼女はペンを持った。
手は震えなかった。
願いが澄む時、人は必ず激しくなるわけではない。叫ぶわけでも、泣くわけでもない。むしろ、静かになることがある。迷いが落ち、言葉が一つの形に沈んでいく。
リゼットは書いた。
すべての願いに、行き着く場所をあげたい。
文字を書き終えた瞬間、古い金庫が鳴った。
大きな音ではない。
遠くの鍵が一つ、内側から動いたような音だった。
納め台の傷が、ゆっくりと深くなった。木目の奥に、これまで置かれてきた願い物の気配が重なる。白いものが顔を上げた。帳面の頁が、風もないのに静かにめくれる。
リゼットは息を止めた。
自分の願いが、月環の堂に触れている。
そう分かった。
それは恐ろしいことでもあった。
願いが澄むということは、返りもまた澄むということだ。リゼットはそれを知っている。願具処分の家で育った彼女は、願いが強いほど何かが落ちることを知っていた。
それでも、ペンを離さなかった。
すべての願いに、行き着く場所をあげたい。
その中には、愚かな願いもある。誰かを傷つける願いもある。自分勝手な願いも、優しすぎて人を壊す願いもある。叶わない方がよい願いもある。納められない願いもある。
それでも、願ったことをなかったことにはしたくない。
リゼットの帳面が、金庫の影へゆっくり沈むように見えた。
消えたわけではない。焼けたわけでもない。むしろ、帳面の背が少しだけ厚くなり、古い金庫の奥に見えない頁が増えたような感覚があった。
白いものが、初めてリゼットの膝に前足を置いた。
軽かった。
けれど、その軽さが合図のようだった。
月環の堂は、その夜から少しずつ変わり始めた。
現代の満願堂で、リゼットは納願帳の古い頁を撫でた。
ロイはその手元を見ていた。
「すべての願い、ですか」
「ええ」
「本当に、すべて?」
リゼットは少しだけ笑った。
「そう願ってしまいました」
その言い方は、後悔ではなかった。けれど、軽くもなかった。
ロイは言葉を探したが、まだ何も言えなかった。
すべての願い。
その中に、リゼット自身の願いは含まれているのだろうか。
その問いは、今はまだ口にできなかった。
モルが帳面を覗き込み、短く言った。
「ここから、満願堂のにおい」
リゼットは頷いた。
「ええ」
「でも、まだ、紅茶ない」
願いが澄んだ夜、リゼットは自分が何を失うのかを少しだけ予感していた。
処分場で見てきたからだ。
強い願いは、必ず何かを落とす。落ちるものは、願いにとって不要なものだ。けれど、持ち主にとって本当に不要とは限らない。
美しさへ向かった人からは、食べることの喜びが落ちることがある。正しさへ向かった人からは、人を許す曖昧さが落ちることがある。忘れたい人からは、愛していた手触りまで薄れることがある。
では、すべての願いに行き着く場所をあげたいと願う自分からは、何が落ちるのか。
リゼットはその答えを、まだ知らなかった。
それでも、願いを引っ込めることはできなかった。
彼女の帳面には、処分場で壊された願いがあった。月環の堂へ届かなかった願いがあった。納め台で迷い、持ち帰られた願いがあった。誰にも言えず、品の中で濁っていった願いもあった。
そのすべてを救うなどとは思っていない。
叶えることも、正すことも、痛みを消すこともできない。
ただ、行き着く場所がほしかった。
願いが願いだったことを、どこかに置ける場所。
その思いが、リゼットの中でそれ以上削れない形になった。
ペン先が紙を離れた時、彼女は泣かなかった。
ただ、長く息を吐いた。
その息が、月環の堂の冷たい空気に混じり、古い金庫の方へゆっくり流れていった。
その願いが澄むまで、リゼットは何度も別の言葉を書きかけた。
壊された願いを残したい。
納められない願いを助けたい。
処分場ではない場所を作りたい。
どれも本当だった。
けれど、どれも少し狭かった。
壊された願いだけではない。納められない願いだけでもない。処分場に関わる願いだけでもない。人は、毎日の中で願いを生む。小さな願いも、大きな願いも、みっともない願いも、本人だけが命綱のように握っている願いもある。
それら全部を叶えたいわけではない。
全部を肯定したいわけでもない。
ただ、願ったことをなかったことにはしたくない。
それが最後に残った。
すべての願いに、行き着く場所をあげたい。
書いた瞬間、リゼットは少しだけ怖くなった。
すべて、という言葉は広すぎる。人が抱えるには広すぎる。そこには、きっと自分が理解できない願いも含まれる。受け入れたくない願いもある。断らなければならない願いもある。
それでも、行き着く場所という言葉だけは変えなかった。
叶える場所ではない。
許す場所でもない。
行き着く場所。
その違いが、後の満願堂を支えることになる。
願いを書いた後、リゼットはしばらく何も起こらない時間を過ごした。
金庫が鳴り、納め台が息をし、帳面が変わった。それでも、翌朝になれば床を掃かなければならない。湯を沸かし、訪れる人を迎え、納め台に残った品を確認しなければならない。
願いが澄んでも、日々は続く。
それが少し不思議だった。
満願具に触れた人々の中には、一瞬で仕上がっていく者もいる。けれど、リゼットの願いは一つの店を変える願いだった。だから、仕上がりは日々の中に滲んでいった。
その日、最初に来た客は、靴紐を結び直しながら入ってきた若い男だった。持っていたのは、母のために買った小さな櫛。まだ願具でも何でもない品だった。
男は言った。
「これ、母が死んだら願具になりそうで怖いんです」
リゼットは少しだけ驚いた。
願具になってから来る人ばかりではない。願いが宿りそうなことを恐れて来る人もいる。
その時、彼女は思った。
満願堂は、願いが仕上がってからだけの場所では足りない。
願いになりかけの不安も、ここへ座らせなければならない。
すべての願い、という言葉の広さを、彼女はその日から少しずつ知っていく。
「そうですね」
リゼットは少しだけ微笑んだ。
「紅茶は、もう少し後です」




