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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第一章 表の棚に並ぶもの

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第九話 痛みを移す包帯

リディアの妹は、よく泣く子だった。


痛い時に泣く。怖い時に泣く。薬が苦い時に泣く。夜になって熱が上がると、声も出せずに涙だけをこぼした。


妹の名はミアという。


小さな手を持つ子だった。指は細く、熱がある日は、骨だけになってしまいそうに見える。その手がリディアの袖をつかむたび、リディアは自分の体のどこかを差し出したくなった。


この痛みが、こちらへ来ればいいのに。


そう思うのは、毎晩だった。


医者は優しかった。薬草師も親切だった。近所の人々も、ミアに小さな果物や柔らかい布を届けてくれた。


けれど、優しさで熱は下がらない。


祈りで痛みは消えない。


夜が深くなると、ミアは決まって息を浅くした。胸の奥で小さな笛が鳴るような音がして、そのたびにリディアは背中をさすった。


「お姉ちゃん」


「いるよ」


「痛い」


「うん」


「ごめんね」


その言葉が、リディアには一番つらかった。


どうしてこの子が謝るのだろう。


痛いのはこの子なのに。苦しいのはこの子なのに。泣いているのはこの子なのに。


リディアは何度も言った。


「謝らなくていいよ」


けれど、ミアは熱の中でまた謝った。


ごめんね。


ごめんね。


それは、痛みよりも深くリディアの胸に残った。


満願堂を訪れたのは、雨上がりの午後だった。


ミアが少し眠れた日で、リディアは薬を買いに出た帰りだった。月環街の路地裏に、温かな明かりが見えた。文字のない看板。ティーポットと古書と鍵の紋章。


古書と紅茶の店だと聞いたことはあった。けれど、願いに応える品を扱っているという噂も聞いていた。


扉を開けると、鈴が鳴った。


最初に届いたのは、紅茶の香りだった。次に古い紙と木の匂い。ステンドグラスの淡い光が床に落ちている。静かな店だった。


カウンターの奥で、黒髪の女性が顔を上げた。


「いらっしゃいませ」


声はやわらかく、丁寧だった。


リディアは、喫茶席へ行く前に言った。


「痛みを和らげる品はありますか」


リゼットは少しも驚かなかった。


「ございます」


出されたのは、小さな香草の包みだった。


「痛みを和らげる香草です。眠る前に焚くと、痛みが少し遠のきます。表の棚の願具です」


「少しだけですか」


「はい」


「もっと強いものはありませんか」


リゼットはリディアを見た。


責めるような目ではなかった。止めるような目でもない。ただ、言葉の奥にあるものを見るような静かな目だった。


「奥の棚にございます」


カウンターの上で丸くなっていた白い長毛の魔獣が、顔を上げた。


「痛いにおい」


リディアは息を詰めた。


「モル」


リゼットが静かに呼ぶと、モルは尻尾だけを揺らした。


リゼットはカウンター奥のガラスケースから、白い手袋を取り出した。


薄い革で作られた手袋だった。指先は細く、手首の部分には淡い銀糸で月環の模様が縫われている。清潔で、柔らかそうだった。けれど、ただの手袋には見えない。誰かの手を握るために、ずっと待っていたような形をしていた。


「痛みを受け取る手袋です。魔願具にあたります」


「手袋……」


「表の願具より効き目が強く、返りもはっきり現れます」


「何ができますか」


「これをはめて相手の手に触れると、その方の痛みの一部を受け取ることができます」


リディアは手袋を見た。


「全部ではないんですね」


「魔願具ですので」


「返りは?」


「受け取った痛みは、リディアさんの中にも残ります。疲労も残ります。けれど、この手袋を納めれば止めることはできます。根付きはしません」


止められる。


戻れる。


その言葉を聞いて、リディアは少しだけ安心した。


リゼットは納願帳を開く。


「願いを、こちらへお納めください」


リディアはペンを持った。


書くべき言葉は、ずっと胸の中にあった。


妹の痛みを代わってあげたい。


文字にすると、思ったよりも小さく見えた。


たったこれだけの願いで、あの子の夜が少しでも楽になるなら、安いものだと思った。


モルが納願帳に鼻を近づける。


「やわらかいにおい」


それから、リディアを見上げた。


「でも、痛い」


リディアは手袋を受け取った。


その夜、リディアは手袋をはめた。


白い革は、思ったより冷たくなかった。指先にぴたりと馴染み、手首の月環模様が、灯りの下でかすかに白く見えた。


ミアは寝台の中で、浅い息を繰り返していた。


「お姉ちゃん?」


「いるよ」


リディアはミアの細い手を握った。


何も起こらない。


そう思った瞬間、胸の奥に痛みが来た。


鋭い痛みではなかった。湿った布を肺の中に詰められたような、重く、逃げ場のない痛み。息を吸うたび、体の内側が擦れる。


リディアは寝台の端を握った。


「お姉ちゃん、痛い?」


「大丈夫」


「ほんと?」


「ほんと」


嘘だった。


けれど、ミアの顔から力が抜けていくのが分かった。浅かった息が少しだけ深くなる。額の皺がゆるみ、涙で濡れた睫毛が静かに下りる。


ミアは眠った。


その寝顔を見て、リディアは自分の痛みを少しだけ好きになった。


手袋はよく効いた。


ミアの痛みは軽くなった。夜に眠れる日が増えた。朝に少しだけ笑うようになった。


その代わり、リディアの体は重くなった。


胸が痛む。関節がきしむ。眠っても疲れが取れない。朝、起き上がるまでに時間がかかる。けれど、ミアが笑うたび、そのすべては小さくなる。


痛い。


でも、よかった。


苦しい。


でも、この子が苦しむよりはいい。


リディアは手袋を使い続けた。


ある夜、ミアが強い発作を起こした。


これまでの痛みとは違った。小さな体が震え、息が詰まり、目だけが助けを求めるようにリディアを見ていた。


リディアは手袋をはめ、ミアの手を握った。


痛みの一部が移ってくる。


足りない。


ミアの体はまだ震えている。涙がこぼれている。声も出せないまま、細い指が布団をつかんでいる。


半分では足りない。


少し楽になるだけでは意味がない。


翌朝、リディアは満願堂へ行った。


リゼットはいつものように迎えた。


「いらっしゃいませ、リディアさん」


リディアは白い手袋を差し出した。


「あの子の痛みを、全部私にください」


リゼットは手袋を見た。


「それは、おすすめ致しません」


「どうして」


「痛みだけではございません」


リゼットの声は、やわらかかった。


「あの方が抱えるものは、痛みだけではありません。孤独、恐怖、眠れない夜、未来への不安。そういったものも、リディアさんへ渡ることがございます」


「それでもいい」


「妹さんは、それを望まれますか」


リディアは黙った。


ミアは望まないだろう。


優しい子だから。


自分の痛みを姉に渡すくらいなら、泣きながら我慢すると言うだろう。謝らなくていいと何度言っても謝る子だ。きっとまた、ごめんねと言う。


だから、聞かない。


聞いたら、止められてしまう。


「あの子が笑えるなら、私のものは全部いらない」


リゼットは、静かにその言葉を聞いていた。


それから、納願帳を開く。


「こちらへ、もう一度お書きください」


リディアはペンを取った。


あの子の痛みを、全部私にください。


最後の一文字を書き終えた時、リゼットはそっと帳面に手を添えた。


文字は震えていなかった。


「たいへん澄んでいますね」


モルは何も言わなかった。


ただ、カウンターから降りて、リゼットの足元へ来た。首元の鍵が、リボンの下で小さく揺れている。


リゼットは頷いた。


「こちらへどうぞ」


満願堂の最奥。


黒鉄の両開き扉。


リゼットが鍵を扉の中央へかざす。光はない。呪文もない。ただ、鉄の奥で何かが目を覚ますように、ガチャリと重い音がした。


リゼットは一歩退く。


「開けるのは、貴方様です」


リディアは両手を扉についた。


重かった。


妹のために迷いはない。そう思っていた。けれど、扉へ触れた瞬間、怖さが残っていることが分かった。


痛いのは怖い。


苦しいのは怖い。


眠れない夜は怖い。


自分が戻れなくなるのは怖い。


それでも、押した。


少しずつ扉が開いた。


地下から、冷たい空気が上がってくる。


リディアは石階段を降りた。


黒鉄と石に囲まれた地下は、冷たいのに不思議と息苦しくはなかった。台座に置かれた満願具たちが、誰かの願いの終点として静かに並んでいる。


その中で、リディアにはひとつだけが見えた。


白い包帯だった。


台座の上に、静かに置かれている。


布というより、ほどけない祈りのようだった。


リディアは、それが自分のものだと分かった。


「身代わりの包帯です」


リゼットが言った。


「満願具は、願いを根付かせます。根付いた願いは、仕上がりまで止まりません」


「はい」


「それでも、お望みですか」


「望みます」


リゼットは納願帳を開いた。


リディアは書いた。


あの子の痛みを、全部私にください。


モルが隣で鼻を鳴らす。


「やさしいにおい」


リディアは包帯に触れた。


冷たくも温かくもなかった。


ただ、自分の手の形に、最初から馴染んでいた。


「リディア様の願いには、こちらの品がよく合うかと」


包帯は根付いた。


ミアは元気になった。


最初は、皆が奇跡だと言った。熱が下がり、夜に眠れるようになり、朝には自分で起き上がった。食事を美味しいと言い、庭へ出たいと言い、花の名前を覚え始めた。


リディアは寝台から起き上がれなくなった。


体中が痛い。息が重い。夜になると、ミアがかつて怖がっていた暗闇が、そっくりそのまま胸の中に来る。


未来が怖い。


朝が来るのが怖い。


夜が終わらないのが怖い。


自分が邪魔になっているのではないかと怖い。


生きているだけで、誰かに謝りたくなる。


それは、ミアの痛みだった。


痛みだけではなかった。


リゼットの言葉は正しかった。


それでも、ミアが笑うと幸せだった。


「お姉ちゃん、今日は庭に出たよ」


「よかったね」


「花が咲いてた」


「うん」


「今度、一緒に見ようね」


リディアは笑った。


「そうだね」


行けないと分かっていた。


けれど、それでもよかった。


やがて、ミアは気づいた。


自分が元気になるほど、リディアが弱っていくことに。


自分が眠れる夜ほど、リディアが眠れなくなることに。


自分が笑うたび、リディアが痛みで指を握りしめていることに。


「お姉ちゃん、私のせいなの?」


「違うよ」


「嘘」


「嘘じゃない」


「私の痛いの、お姉ちゃんが持ってるの?」


リディアは答えなかった。


ミアは泣いた。


「返して」


「駄目」


「返してよ」


「駄目」


リディアはミアの手を握った。


細くなった手で、強く。


「これは、私の願いなの」


ミアは首を振った。


「私、そんなの嫌だよ」


「うん」


「私の痛いのなら、私に返して」


「駄目」


「どうして」


「あなたが笑えるから」


リディアは微笑んだ。


痛みで顔は歪んでいた。けれど、たしかに笑っていた。


「私は、それでいいの」


ミアは声をあげて泣いた。


リディアはその泣き声を聞きながら、胸の奥に少しだけ安らぎを覚えてしまった。


この子は泣けるほど元気になった。


それが、嬉しかった。


数日後、満願堂へ小さな包みが届いた。


黒い紐ではない。


暗い赤の封蝋も、納め札もない。


逓便局の普通便として届けられた、白い紙の包みだった。


「差出人がありません」


ロイは伝票を見ながら言った。


「けれど、満願堂宛てです」


リゼットは包みを受け取った。


中には、白い包帯の端が入っていた。


切れ端のはずなのに、どこか遠くへ続いているように見える。布の端は動かない。けれど、じっと見ていると、かすかに呼吸しているようにも見えた。


モルが匂いを嗅ぐ。


「まだ、つながってる」


リゼットは頷いた。


「ええ」


「納め物?」


「いいえ」


リゼットは包帯の端を丁寧に黒布へ置いた。


「これは、仕上がりではございません」


モルは首を傾けた。


「じゃあ、なに?」


「途中のしるしです」


リゼットは納願帳を開いた。


リディアの頁に、細い文字で書き足す。


身代わりの包帯。根付き継続。痛みの移行、進行中。


モルは包帯の端を見つめた。


「痛い?」


「ええ」


「でも、いいにおい」


「そうですね」


リゼットは窓の外を見た。


月環街の路地に、春の光が薄く差している。


「とても澄んだ、優しい願いです」


包帯の端は、黒布の上で静かに沈んでいた。


その先にいるリディアは、今日も痛みを抱えているのだろう。


その先にいるミアは、今日も庭の花を見ているのだろう。


どちらが救われたのか。


それは、満願堂の帳面には書かれなかった。

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