第八話 正しさを測る眼鏡
グレン・オルタは、嘘が嫌いだった。
月環街公報局の記録係として、彼は毎日、人の言葉を書き写している。
役所からの告示。商会からの申請。寄付金の報告。紛争の裁定記録。劇場の上演許可。店主たちが出す営業届。紙の上には、街の正しさが積み重なっていく。
だから、文字は正しくなければならない。
グレンはそう思っていた。
けれど、文字に残るものほどよく嘘をつく。
寄付金を少なく届けておきながら、多く出したように書く商人。
失敗を下働きの責任にする役人。
浮気をしていないと言い張る夫。
慈善のためと言いながら、自分の名を広めたい婦人。
見習いの失敗を隠す工房主。
逆に、師匠の失敗を自分のせいにされた見習い。
皆、笑う。
皆、言葉を整える。
皆、いかにも正しそうな顔をして、公報局へ紙を持ってくる。
グレンはそれが嫌いだった。
正しいものは、正しくあるべきだ。
悪いものは、悪いものとして見えるべきだ。
汚れたものが、清らかな顔をして歩いていることが、彼には耐えられなかった。
その日、グレンは昼の休憩中に満願堂を訪れた。
月環街の路地裏にある、古書と紅茶の店。願いに応える品を扱う店。公報局にも、満願堂へ納め物を届ける逓便局の記録は残っている。噂は聞いていた。
願いに応える品がある。
返りもある。
それでも、グレンは足を向けた。
扉を開けると、鈴が鳴った。
中は静かだった。
紅茶の香り。古い本の匂い。ステンドグラスの淡い光。喫茶席には数人の客がいて、窓際には白い服の女が静かに紅茶を飲んでいる。カウンターの上では、白い長毛の魔獣が丸くなっていた。
黒髪の管理人が顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
声は柔らかかった。
グレンはカウンターの前に立った。
「人の嘘を見抜ける品はあるか」
リゼットは少しも驚かなかった。
「ございます」
「完全に見抜けるものがいい」
「まずは、表の棚の願具からご案内いたします」
リゼットが棚から取ったのは、片眼鏡だった。
細い銀縁。透明な硝子。鎖の先に小さな留め具がついている。見た目はただの装飾品に近かった。
「嘘見の片眼鏡です」
「効果は」
「相手の言葉に混じる小さな嘘を、少しだけ見分けやすくなります」
「少しでは意味がない」
グレンは即座に言った。
「完全に見抜けなければ、正しさではない」
リゼットは片眼鏡を棚へ戻した。
「奥の棚に、もう少し強い品がございます」
「それを」
「そちらは魔願具です。表の願具より効き目が強く、返りもはっきり現れます」
「返りは聞く」
グレンは短く言った。
「だが、嘘を放置するよりはましだ」
リゼットはカウンター奥のガラスケースを開けた。
取り出したのは、眼鏡だった。
銀色の細い縁。丸くも角張ってもいない、どこか古い形。硝子は透明に見える。だが、机の上に置かれると、周りの音が少しだけ遠くなる気がした。
「罪の色を見る眼鏡です」
「罪の色?」
「嘘や後ろ暗さが、色や汚れのように見えることがあります」
グレンは眼鏡を見た。
欲しい、と思った。
人は言葉を整える。記録も取り繕う。だが色なら見える。汚れなら隠せない。
「返りは」
「見なくてもよいものまで、見えるようになります」
「見なくてもよい罪などない」
グレンは笑った。
リゼットは責めなかった。
ただ、納願帳を出した。
「こちらへ、願いをお納めください」
グレンはペンを取る。
悪い人間を見分けたい。
そう書いた。
書き終えた時、カウンターの上からモルが降りてきた。白い毛が床の上でふわりと揺れる。モルは納願帳に鼻を寄せた。
「するどいにおい」
それから、グレンを見上げた。
「いたそう」
「何がだ」
「におい」
モルはそれ以上言わなかった。
リゼットは眼鏡を黒い布に包み、グレンへ差し出した。
「扱いにはお気をつけください」
「正しく使う」
「正しさは、とても鋭いものです」
「鈍いよりいい」
グレンは眼鏡を受け取った。
指先が少し冷えた。
その日から、月環街は少しずつ正しくなった。
少なくとも、グレンにはそう見えた。
眼鏡をかけると、人の周りに色が見えた。
薄い灰。濁った黄色。黒ずんだ赤。水に油を落としたような鈍い膜。
色は言葉ではなかった。声でもない。ただ、その人が隠している後ろ暗さを、布の染みのように浮かび上がらせた。
最初に見つけたのは、寄付金をごまかした商人だった。
慈善会へ銀貨十枚を出したと記録に書かれていた。だが、商人の手元に残った帳簿の端に、濁った黄色が見えた。
調べると、実際に渡したのは七枚だった。
グレンは記録を訂正させた。公報掲示板にも訂正を出した。商人は顔を赤くし、言い訳をしたが、誰も聞かなかった。
街の人々は言った。
「よく見つけた」
「こういう不正は許してはいけない」
「公報局にも、まともな人間がいるんだな」
その声は心地よかった。
次は、役人だった。
書類の遅れを下働きのせいにしていたが、実際には自分が酒場で飲んでいた。役人の袖口に、黒ずんだ赤がにじんでいた。
それも暴いた。
次は、妻に嘘をついていた男。
次は、慈善の名を使って自分の評判を上げようとした婦人。
次は、安い材料を高級品として売った工房。
悪いものが見える。
見えるなら、書くべきだ。
書かれたものは残る。
残るものこそ、正しさだ。
グレンは働いた。
公報局の同僚は、最初こそ感心していた。
「最近、よく見抜くな」
「調べれば分かることだ」
「それにしたって、よく見えるものだ」
グレンは眼鏡を押し上げる。
「見る気があるかどうかだ」
それは半分だけ本当だった。
やがて、グレンは小さな色まで見えるようになった。
パンを一つ多く受け取った貧しい母親。
失敗を師匠に黙っていた見習い。
友人を褒めながら、内心で嫉妬していた娘。
老いた父に優しい言葉をかけながら、早く眠ってほしいと思っていた息子。
客の前では笑いながら、裏でその客を面倒だと言った店員。
どれも色があった。
薄く、小さく、取るに足らないような色。
だが、罪は罪だ。
小さいから見逃すというなら、正しさとは何なのか。
グレンは書いた。
公報局の掲示板に、街の小さな不正が並ぶようになった。
最初、人々はそれを読んだ。
次に、少しずつ目を逸らすようになった。
ある日、同僚の一人が言った。
「グレン、そこまで書く必要はないだろう」
「なぜだ」
「相手はまだ子どもだ。パンひとつだぞ」
「盗みだ」
「でも」
「正しくないものを見逃せと言うのか」
同僚はそれ以上言わなかった。
だが、その沈黙の周りにも、薄い灰色が見えた。
グレンは気づいた。
正しさを恐れる者は、皆どこかに汚れを持っている。
だから見られるのを嫌がるのだ。
彼はさらに書いた。
謝罪しても足りない。返金しても足りない。泣いても足りない。
罪は、見える形で裁かれるべきだ。
誰の目にも触れる場所で。
ある朝、公報局の前に人が集まっていた。
掲示板に貼り出した記録を、何人もが読んでいる。そこには、ある若い娘が仕立屋の代金をごまかそうとした件が書かれていた。金額は小さい。だが、嘘は嘘だ。
娘は掲示板の前で泣いていた。
母親らしい女が、周囲に頭を下げている。
グレンはそれを窓から見下ろした。
胸の奥が、静かに熱くなった。
正しさが、形になっている。
その時、同僚が言った。
「お前、嬉しそうだな」
グレンは振り返った。
「何だと」
「正しいからやってるんだろう。でも、今のお前は、相手が壊れるのを見て嬉しそうだった」
「ふざけるな」
「眼鏡を外してみろよ」
グレンは眼鏡に手をかけた。
外す理由がない。
正しさを見るためのものを、なぜ外す必要がある。
同僚の周りには灰色が濃く見えた。
「お前にも色がある」
グレンは言った。
同僚は黙った。
それで十分だった。
その日の夕方、グレンは満願堂へ戻った。
リゼットはいつものように迎えた。
「いらっしゃいませ、グレンさん」
「もっと強いものがあるはずだ」
リゼットは彼の眼鏡を見た。
「何をお望みですか」
「罪ある者は、隠れていてはいけない」
グレンは言った。
「すべての汚れは見えるべきだ。誰も、何も、隠せない世界が正しい」
リゼットは静かに目を伏せた。
「それは、おすすめ致しません」
「なぜ」
「正しさ以外のものが落ちていきます」
「それでいい」
グレンは迷わなかった。
「正しくないものはいらない」
リゼットは、そこで初めて微笑んだ。
喜びとも、悲しみとも違う。
何かがぴたりと合った時のような、静かな微笑みだった。
「たいへん澄んでいますね」
モルは何も言わなかった。
モルはカウンターの縁からするりと降り、奥の通路へ向かった。リボンの下で、古い鍵だけが小さく揺れている。
リゼットはそれを見て、静かに頷いた。
「こちらへどうぞ」
満願堂の最奥。
黒鉄の両開き扉。
鍵穴はない。中央には、閉じた一つ目の意匠がある。根にも、蔦にも、瞼にも見える古い模様。
リゼットがモルの首元の鍵を、その目へかざした。
光はない。
呪文もない。
ただ、扉の目が薄く開いたように見えた。
鍵を見たのか。
グレンを見たのか。
分からない。
ガチャリ、と重い音がした。
リゼットは一歩退く。
「開けるのは、貴方様です」
グレンは両手を扉についた。
重かった。
彼は眉をひそめる。
迷いなどないはずだった。
自分は正しい。正しさを望んでいる。罪を隠さない世界を望んでいる。何も迷っていない。
それなのに、扉は重かった。
少し押すたびに、胸の奥で何かが軋む。
誰かを暴くことは、気持ちがよかった。
その事実が、扉を重くしていた。
グレンは歯を食いしばった。
それでも押した。
気持ちよかったとして、それが何だ。正しいことが快いのは当然だ。悪いものが暴かれ、清められるなら、その快さまで罪にする必要はない。
扉は、ゆっくり開いた。
地下へ続く石階段が現れる。
黒鉄と石の匂いがした。
地下は美術館のようだった。
そこは倉庫ではなく、願いの行き着いた形を静かに置いておく場所だった。台座や棚の上で、いくつもの品が暗がりに沈んでいる。
そのほとんどは、グレンの目に入らなかった。
ただ一つだけ、見えた。
天秤だった。
白い金属で作られている。細い支柱。磨かれた横木。けれど、皿は片方しかない。片方の皿だけが、静かに吊られている。
おかしな形だった。
天秤なら、二つの皿があるはずだ。
けれど、グレンは見た瞬間に分かった。
これでいい。
正しさに、釣り合うものなどいらない。
リゼットが言う。
「白裁きの天秤です」
「これだ」
グレンは呟いた。
「これがあれば、正しさだけが残る」
リゼットは納願帳を開いた。
グレンは書いた。
すべての罪を見えるようにしたい。
正しくないものはいらない。
その文字を書いた時、手は震えなかった。
「グレン様の願いには、こちらの品がよく合うかと」
天秤は根付いた。
最初に見えたのは、他人の罪だった。
眼鏡など必要なかった。
人の顔を見るだけで分かる。手を見るだけで分かる。声を聞くだけで分かる。隠した言葉、濁った欲、見なかったふりをした卑怯さ。
どれも、白い世界の上に黒い染みのように浮かぶ。
グレンは書いた。
書いて、書いて、書いた。
掲示板には、人の罪が並んだ。
最初は街の者たちも読んだ。次に、掲示板の前を避けるようになった。やがて、公報局へ来る者が減った。
それでもグレンは書いた。
正しくないものが、目に入る。
見えるなら、書くべきだ。
見逃すことは、汚れに加担することだ。
夜になっても、彼は書き続けた。
灯りの下でペンを走らせる。紙の上に、罪が残る。残れば、隠せない。
その時だった。
机の上の水差しに映った自分の手が見えた。
黒かった。
グレンは動きを止めた。
手だけではない。
袖口。喉元。目の奥。胸の内側。
そこに色があった。
黒ずんだ赤。濁った黄。ねっとりとした灰。
他人を裁く快感。
見下し。
称賛を欲しがる心。
悪を暴く者として、誰よりも正しくありたいという虚栄。
正義ではなく、誰かが壊れるところを見たいという欲。
全部、見えた。
グレンは立ち上がった。
椅子が倒れる。
「違う」
声が出た。
違わなかった。
見えているのだから。
罪は裁かれなければならない。
ならば、自分も裁かれなければならない。
グレンは自分の罪を書いた。
他人を見下した。
人が泣くのを見て満足した。
正しさを利用して、自分の快楽を満たした。
書き終えた瞬間、その文字の上にも汚れが見えた。
なぜなら、自分を裁く自分が、まだどこかで自分を正しいと思っていたからだ。
その自分も裁かなければならない。
だが、その自分を裁く自分も、また汚れている。
正しさは終わらなかった。
翌朝、公報局の同僚がグレンの机を見つけた。
机の上には紙が積まれていた。
同じ字で、何度も何度も書かれている。
裁かなければならない。
裁く者も裁かなければならない。
裁く者を裁く者も裁かなければならない。
グレンはいなかった。
ただ、机の上に片皿の天秤が置かれていた。
皿には何も載っていない。
それなのに、少しだけ傾いている。
数日後、満願堂に納め物が届いた。
黒い紐。暗い赤の封蝋。封蝋には、月環と扉、それから閉じた目に見える古い紋章が押されている。
箱の脇には、納め札が下がっていた。
箱を開けると、白裁きの天秤が入っていた。
片方しかない皿が、静かに揺れている。
リゼットはそれを黒布の上へ置いた。
モルが覗き込む。
「あれ、まだ裁いてる」
「ええ」
リゼットは天秤を見つめた。
皿には何もない。
けれど、見えない何かが載っているように傾き続けている。
「たいへん澄んだ正しさです」
モルは首を傾けた。
「しずかじゃない」
「ええ」
「いたい?」
「きっと」
モルは天秤の周りを一周した。
「奥?」
「ええ。奥の部屋へ納めましょう」
リゼットは天秤に布をかけた。
布の下でも、かすかに皿が揺れている気配がした。
それはもう、誰かを裁くための道具ではなかった。
裁きそのものが、終わらない形になったものだった。




