第七話 金にならないもの
バルド・ガレンは、金にならないものが嫌いだった。
はじめから、そうだったわけではない。
父の商会を継いだ時、店は傾いていた。古い取引先は離れ、倉庫には売れ残りの布と、錆びた金具と、誰が買うのか分からない古い飾り箱ばかりが積まれていた。
父は人が良すぎた。
職人が困っていると言えば、相場より高く買った。貧しい客が待ってほしいと言えば、代金の支払いを待った。古い友人が頼みに来れば、損になると分かっていても断らなかった。
その結果、何も残らなかった。
父の葬儀の日、客はたくさん来た。職人も来た。昔助けたという者たちも来た。皆、父は良い人だったと言った。
だが、その誰一人として、商会の借金を肩代わりしてはくれなかった。
人の良さは、帳簿には載らない。
バルドはその日、そう学んだ。
だから彼は、金になるものだけを選ぶことにした。
職人からは少しでも安く買う。客には少しでも高く売る。時間を食うだけの付き合いは断る。恩義という言葉に甘える相手には、契約書を出す。損になる約束はしない。
それで商会は持ち直した。
店先には新しい品が並び、倉庫には売れるものだけが残った。帳簿の赤い数字は少しずつ減り、やがて黒い数字が増えた。
妻は、昔のあなたはもっと笑ったと言った。
息子は、約束した日に帰ってこない父を待つのをやめた。
古い友人は、店の前を通っても寄らなくなった。
だが、金は残った。
金がなければ守れない。
金がなければ、誰も自分を認めない。
金があれば、失ったものも、いずれ取り戻せる。
バルドはそう思っていた。
満願堂へ来たのは、商談の帰りだった。
月環街の路地裏にあるその店を、彼は以前から知っていた。古書と紅茶と、不思議な品を扱う店。願いに応える品があると聞いていた。
商人仲間の中には、あの店はやめておけと言う者もいた。気味が悪い、返りがある、納め物になって戻る者もいる。そんな話を、酒の席で聞いたこともある。
バルドは、そういう話を半分も信じていなかった。
だが、役に立つものがあるなら、使わない理由はない。
文字のない看板を見上げる。ティーポットと古書と、小さな鍵の紋章。古い木の扉。中からは、紅茶の香りがした。
扉を開けると、鈴が鳴った。
店内は、噂よりもずっと静かだった。
古書の並ぶ壁。ステンドグラスから落ちる淡い光。磨かれた木の床。喫茶席には数人の客がいて、窓際の席には白い服の美しい女が本を読んでいた。
カウンターの奥から、黒髪の女性が顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
声は柔らかく、丁寧だった。
青みを帯びた黒髪。色白の肌。琥珀色の目。生成りのエプロンと、濃紺のドレス。胸元には、月環をかたどった小さなペンダント。
美しい女だった。
だが、バルドは美しいものに見惚れるために来たわけではない。
「金を増やす品はあるか」
カウンターの前に立ち、単刀直入に聞いた。
黒髪の管理人は、少しも驚かなかった。
「ございます」
「早いものがいい」
「まずは、表の棚の願具からご案内いたします」
リゼットは表の棚へ歩いた。
出されたのは、小さな貯金箱だった。
丸い腹をした陶器の箱で、上に細い投入口がある。色は深い緑。見た目は、子どもの玩具にも見える。
「返しの貯金箱です」
「返し?」
「入れた小銭が、一月後に少し増えて戻ります。返りは、戻るまでその金を使えないことです」
「一月?」
「はい」
「遅い」
バルドは鼻で笑った。
「子どもの小遣いか」
足元から、白い長毛の魔獣が顔を出した。
「かたい声」
バルドは眉を寄せた。
「何だ、これは」
「モルです」
リゼットは穏やかに言った。
「満願堂の手伝いをしてくれています」
「喋るのか」
「少しだけ」
「かたい声」
モルはもう一度言った。
バルドはモルを見下ろす。
「金の話をしている」
「金、かたい」
「モル」
リゼットが静かに呼ぶと、モルは尻尾を揺らして引っ込んだ。
バルドは小さく息を吐く。
「もっと早いものはないのか」
「奥の棚にございます」
「それを見せろ」
「奥の棚の品は、魔願具です。表の願具より効き目が強く、返りもはっきり現れます」
「説明はいい」
「説明は必要です」
リゼットの声は、相変わらず柔らかかった。
だが、譲る気配はなかった。
バルドは舌打ちしたいのを堪えた。
「なら説明しろ」
リゼットはカウンター奥のガラスケースを開けた。
中から取り出したのは、深い緑の革でできた財布だった。小ぶりで、手のひらに収まる大きさ。金具は古いが、丁寧に磨かれている。派手ではない。だが、見た瞬間、バルドは目を離せなかった。
財布だ。
ただの財布に見える。
それなのに、自分の手にあるべきものだと思った。
「金を呼ぶ財布です」
「効果は」
「中に入れた金が、少しずつ金を呼びます。商談がまとまりやすくなり、損失を避けやすくなるでしょう。思わぬ収入が入ることもございます」
「いいな」
「返りもございます」
「何だ」
「金にならない縁が、薄くなります」
バルドは眉をひそめた。
「縁?」
「友人との約束。家族との時間。恩義。信頼。趣味。休息。そういったものが、少しずつ軽くなることがございます」
「軽くなるなら、むしろ助かるな」
リゼットは財布を黒い布の上に置いた。
「魔願具は、根付きません。納めることも、使うのをやめることもできます」
「なら問題ない」
「ただし、使った分の返りは残ります」
「金は残るんだろう」
「財布が呼んだものは、持ち主のものになります」
「なら構わん」
「代金は金貨二枚です」
リゼットがそう告げると、バルドは財布から金貨を二枚取り出した。普通の家なら、しばらく暮らせる額だった。
「安いな」
バルドは本気でそう言った。金を呼ぶ財布なら、すぐに取り戻せる。むしろ、この程度で買えるなら得だと思った。
リゼットはカウンターの下から古い帳面を取り出した。
深い茶色の表紙には、満願堂の紋章が押されている。
「こちらは納願帳です」
「契約書か」
「契約ではございません。お客様の願いを、迷子にしないためのものです」
バルドはペンを取った。
迷うことはなかった。
金を増やしたい。
そう書いた。
モルが椅子の下から顔を出し、帳面の匂いを嗅いだ。
「かたいにおい」
それから、首を横へ振る。
「まだ奥じゃない」
「奥?」
バルドが聞くと、リゼットは微笑んだ。
「今は、奥の棚の品で十分かと」
十分。
その言い方は気に食わなかった。
だが、財布は気に入った。
そのうえで、バルドは金貨を三枚、財布に入れた。
革の内側で、金属が小さく鳴る。
それはひどく良い音だった。
財布は、すぐに効いた。
翌週、滞っていた商談がまとまった。
相手はこれまで値下げに応じなかった男だった。こちらが少し強く出ると、なぜか向こうから譲歩した。さらに別の取引先では、予定していた品が手に入らなくなった代わりに、もっと良い品が安く流れてきた。
倉庫の奥に残っていた古い金具にも買い手がついた。
以前なら損切りするしかなかったものが、思わぬ値で売れた。
金が金を呼んだ。
バルドは忙しくなった。
忙しくなるほど、金にならないものが邪魔になった。
古い友人が相談に来た。父の代からの付き合いだから少しだけ待ってほしいと言った。バルドは断った。待つ理由がない。
妻が、夕食だけでも家で一緒にと言った。バルドは商談相手との会食を優先した。食卓で交わす話より、酒席で決まる契約の方が価値がある。
息子が、今度の休みに市場へ連れて行ってほしいと言った。バルドは忘れた。市場へ連れて行っても、銅貨が減るだけだ。
職人が値上げを頼みに来た。子どもが増えた、材料費が上がった、今の値では暮らせないと言う。バルドは他の職人を探すと言った。
職人は黙った。
昔なら、その沈黙が少し気になったかもしれない。
今は気にならなかった。
財布の中で金貨が鳴る。
その音の方が、ずっと分かりやすかった。
妻は、あまり話さなくなった。
息子も、父を待たなくなった。
それでも、金は増えた。
増えた金を見るたび、バルドは安心した。
金があれば、あとからどうにでもなる。
金があれば、妻にも息子にも、もっと良い暮らしをさせられる。
金があれば、失った縁も戻る。
ある朝、息子が熱を出した。
妻は、医者を呼んでほしいと言った。
バルドは大きな商談へ向かうところだった。相手は遠方の商会で、この機会を逃せば次はない。今日の取引がまとまれば、倉庫を一つ増やせる。
「医者なら、お前が呼べばいい」
「あなたが頼んだ方が早いの」
「今日は無理だ」
「一日くらい、仕事を後にできないの?」
できない。
できるはずがない。
息子の熱は心配だ。だが、金がなければ医者も薬も呼べない。良い医者を呼ぶにも金が要る。薬草も、看病の人手も、すべて金だ。
ならば、今やるべきことは一つだった。
商談は成功した。
過去最高の利益だった。
相手の商人は笑顔で握手を求め、バルドは力強く握り返した。財布の中で、金貨が鳴ったような気がした。
夕方、家に戻る。
家の中は静かだった。
息子の熱は、悪化していた。命に関わるほどではない。医者も来ていた。薬も飲ませたという。
だが、息子はバルドを見なかった。
寝台のそばに座る妻の目が、ひどく冷えていた。
「あなたにとって、私たちは金にならないのね」
その言葉は、怒鳴り声ではなかった。
だからこそ、胸に残った。
バルドは言い返そうとした。
お前たちのために働いている。
金がなければ守れない。
この商談がどれだけ大事だったか分かっていない。
いくらでも言葉はあった。
だが、妻の目を見た瞬間、それらがひどく安く思えた。
翌日、バルドは満願堂へ行った。
財布をカウンターに置く。
「これを納める」
リゼットは両手で財布を受け取った。
「はい。魔願具ですので、納めることはできます」
その言葉に、バルドは少しだけ息を吐いた。
戻れる。
そう思った。
「これで元に戻るんだな」
「財布の効き目は止まります」
「だから、元に戻るんだろう」
「薄くなった縁が、すぐ元通りになるわけではありません」
バルドは顔をしかめた。
「縁だの何だのはいい。金は残るんだろう」
「はい」
リゼットは静かに言った。
「財布が呼んだものは、バルドさんのものです」
バルドは安堵した。
金が残るなら、それでいい。
妻にも息子にも、あとからいくらでも償える。贈り物を買えばいい。もっと良い医者を呼べばいい。家を広くすればいい。息子には、前に欲しがっていた木馬を買ってやればいい。
取り戻せる。
金があれば。
モルが財布の匂いを嗅いだ。
「かたいにおい」
そして、首を傾げる。
「でも、ちょっと、からっぽ」
バルドは苛立った。
「何が分かる」
「からっぽ」
モルはそれ以上言わなかった。
バルドは店を出た。
家に戻ると、妻はいなかった。
息子もいなかった。
食卓の上に、手紙が一通置かれていた。
実家へ帰ります。
息子は熱が下がりました。ご安心ください。
医者代は、あなたの机の引き出しから払いました。
あなたはきっと、それが一番気になるでしょうから。
最後に、短い一文があった。
金では買えない時間があると、あなたにもいつか分かりますように。
バルドは手紙を握りつぶした。
財布はもうない。
だが、金庫の中には金が残っている。
金は確かに残っている。
金貨の音だけが、家の中でやけにはっきり響いた。
満願堂では、リゼットが財布を黒い布の上に置いていた。
見た目は、ただの財布だった。
深い緑の革。古い金具。少し使い込まれた角。光ることも、重くなることもない。だが、その前を通ると、ほんの少しだけ音が硬くなるように感じられた。
モルが鼻を寄せる。
「奥?」
「奥の棚ですね」
リゼットは黒布で財布を包んだ。
「けれど、満願具にはまだ遠い」
「まだ?」
「ええ。あの方には、まだ失いたくないものが残っています」
モルは少し考えるように尻尾を揺らした。
「残ってるのに、落とした?」
「そうですね」
リゼットは奥の棚へ財布を納めた。
「落ちたものを、拾える方もいらっしゃいます」
モルは財布を見た。
「ひろう?」
「ええ」
リゼットは静かに言った。
「金貨では拾えないでしょうけれど」
その日、満願堂の閉店間際に、ひとりの少年が店の前を通った。
熱の引いた顔はまだ少し青白い。母親に手を引かれ、ゆっくり歩いている。
少年は満願堂の窓辺に飾られた小さな貯金箱を見た。
丸い腹をした、深い緑の願具。
「お母さん、あれ」
「見てはいけません」
母親は少し強い声で言い、少年の手を引いた。
少年は一度だけ振り返った。
店内では、白い毛玉のような魔獣が窓辺に座っていた。
モルは少年を見て、首を傾けた。
「まだ、ちいさい」
リゼットは灯りを落としながら、静かに答えた。
「ええ」
「金のにおい、する?」
「少しだけ」
「いや?」
「いいえ」
リゼットは窓の外を見た。
母親と少年の姿は、もう路地の角へ消えている。
「生きていれば、誰でも少しは持っている匂いです」
モルは窓辺で丸くなった。
「じゃあ、ふつう」
「ええ。普通です」
リゼットは微笑んだ。
「普通でいられるうちは、まだ大丈夫です」
お読みいただきありがとうございます。
また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。




