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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第一章 表の棚に並ぶもの

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第十話 誰にも見つからない部屋

 クラリスは、いつも見つけられていた。


 貴族の娘として生まれた時から、彼女は誰かの目の中にいた。


 美しい服を着れば褒められた。礼儀を間違えれば注意された。笑えば意味を探され、黙れば機嫌を読まれた。好きな色を選べば家名に合わないと言われ、嫌いな相手にも微笑めば大人になったと喜ばれた。


 彼女は、見られることに慣れていた。


 慣れていたが、好きではなかった。


 やがて、クラリスは物語を書くようになった。


 最初は、自分だけのためだった。誰にも見せないノート。誰にも読ませない短い物語。そこでは、誰も彼女を見なかった。誰も彼女の笑顔を評価しなかった。


 書いている間だけ、彼女は少し自由だった。


 だが、その物語は世に出た。


 出てしまった。


 親しい者に見せた一編が評判になり、古書店に写しが並び、劇場の脚本家が褒め、やがて貴族の娘が書いた繊細な物語として街に広まった。


 クラリスは称賛された。


 あなたの次の物語を待っています。


 あなたの言葉に救われました。


 もっと書いてください。


 なぜ最近書かないのですか。


 この結末は失望しました。


 あなたなら、もっとできるはずです。


 手紙が届く。


 招待状が届く。


 感想が届く。


 批判が届く。


 期待が届く。


 クラリスは、自分の名前が嫌いになった。


 名前を呼ばれるたび、誰かの手が自分を見つける。


 逃げても、名前が追いかけてくる。


 満願堂に来た時、彼女はひどく疲れていた。


 雨のない曇りの日だった。月環街の路地裏は薄暗く、文字のない看板だけが静かに揺れていた。ティーポットと古書と鍵の紋章。古書茶房だと聞いていた。願いに応える品を扱っているとも聞いていた。


 扉を開けると、鈴が鳴った。


 紅茶の香り。古い紙の匂い。ステンドグラスの淡い光。窓際の席には、白い服の美しい女性が静かに本を読んでいる。


 カウンターの奥で、黒髪の管理人が顔を上げた。


「いらっしゃいませ」


 クラリスは帽子を取った。


「少しだけ、一人になれる品はありますか」


 リゼットは、少しも不思議そうにしなかった。


「ございます」


 表の棚から出されたのは、薄い青色の栞だった。


「静読の栞です。本に挟んでいる間、周囲の音が少し小さくなります。表の棚の願具です」


「誰にも話しかけられなくなるわけではないのですね」


「はい。少し、静かになるだけです」


「返りは?」


「栞を外した時、音が少し強く戻ることがございます」


 クラリスは栞を見た。


 これでは足りない。


 そう思った。


 けれど、その日に必要なのは、少しだけ静かになれる時間だった。


「いただきます」


「お名前を伺ってもよろしいですか」


「クラリスです」


「では、クラリスさん。こちらをお包みしますね」


 クラリスは栞を買った。


 それは、最初はよく効いた。


 本を開き、栞を挟む。すると、屋敷の音が少しだけ遠くなった。廊下を歩く使用人の靴音。家族が自分を呼ぶ声。手紙を届けるベルの音。全部が、薄い布の向こう側へ行く。


 クラリスは久しぶりに、ひとりで呼吸できた。


 だが、少しだけでは足りなかった。


 栞を外せば、音は戻る。


 本を閉じれば、名前が戻る。


 部屋を出れば、期待が戻る。


 クラリスは満願堂へ戻った。


「もっと、誰にも気づかれなくなるものはありますか」


 リゼットは、カウンター奥の棚へ視線を向けた。


「ございます。ただし、そちらは奥の棚の品です」


「奥の棚」


「表の願具より効き目が強く、返りもはっきり現れます。魔願具にあたります」


 出されたのは、薄い灰色の外套だった。


 地味な布だ。特別な刺繍もない。けれど目を離すと、どこに置かれていたのか分からなくなりそうだった。


「気配を薄くする外套です。着ている間、人に気づかれにくくなります」


「返りは?」


「名前を呼ばれる機会が減ります。周囲との関わりも、少しずつ薄くなるでしょう」


「素晴らしいわ」


 クラリスは思わず言った。


 リゼットは責めなかった。


 納願帳を開く。


「願いを、こちらへお納めください」


 クラリスは書いた。


 誰にも邪魔されず、一人でいたい。


 モルが帳面に鼻を近づけた。


「しずかなにおい」


 それから、クラリスを見上げる。


「でも、まだ声がある」


 クラリスには意味が分からなかった。


「クラリスさん」


 リゼットは外套を黒布に包みながら言った。


「扱いにはお気をつけください」


「ええ」


 クラリスは外套を受け取った。


 外套は、よく効いた。


 屋敷の中で、誰もクラリスに声をかけなかった。廊下を歩いても、使用人は横を通り過ぎた。家族は彼女の部屋の前を通っても、扉を叩かなかった。街を歩けば、人々の視線がするりと滑っていく。


 名前を呼ばれない。


 それだけで、こんなに体が軽くなるとは思わなかった。


 だが、外套を脱げば戻る。


 声が戻る。名前が戻る。期待が戻る。


 やがてクラリスは、外套を脱ぐ時間が嫌になった。


 食事の席に呼ばれるのが嫌だった。


 手紙の封を切るのが嫌だった。


 次の物語を待っています、という言葉が嫌だった。


 褒められることも、責められることも、同じくらい嫌だった。


 少しだけ一人になりたいのではない。


 誰にも見つからなくていい。


 覚えられなくていい。


 そこにいると知られなくていい。


 ただ、静かにいたい。


 満願堂でそう告げると、リゼットは静かに目を伏せた。


「それは、おすすめ致しません」


「なぜ?」


「見つからないということは、探されないということでもございます」


「それでいい」


「名前を呼ばれなくなります」


「構わないわ」


「忘れられることもございます」


「望むところよ」


 クラリスは迷わなかった。


「私は、誰かの中にいたいわけではないの」


 リゼットはクラリスを見る。


「では、どこにいたいのでしょう」


 クラリスは答えた。


「誰にも見つからない場所に」


 リゼットは、そこで少しだけ微笑んだ。


 ひどく静かな微笑みだった。


「たいへん澄んでいますね」


 モルは何も言わなかった。


モルは黙ったままカウンターを降り、奥の通路へ先に歩いていった。首元の鍵が、足音よりも静かに揺れた。


 リゼットはそれを見て、静かに頷いた。


「こちらへどうぞ」


 奥の部屋の扉は、クラリスには軽かった。


 リゼットが鍵をかざし、ガチャリと重い音がしたあと、クラリスは黒鉄の扉の前に立った。


 リゼットは一歩退く。


「開けるのは、貴方様です」


 クラリスは両手で扉を押した。


 力を込めるまでもなかった。扉は、彼女を待っていたように静かに開いた。


 地下へ続く石階段を降りる。


黒鉄と石の空間には、いくつもの満願具が眠っていた。布に包まれたもの、箱に入ったもの、形さえ曖昧なもの。その中で、一脚の椅子だけがクラリスを待っているように見えた。


 その中で、クラリスが見つけたのは一脚の椅子だった。


 飾り気のない椅子。


 柔らかそうでも、豪華でもない。


 けれど、見た瞬間に分かった。


 ここに座れば、もう誰にも見つからない。


「誰にも見つからない椅子です」


 リゼットは言った。


「満願具は、願いを根付かせます。根付いた願いは、品を離しても仕上がりまで止まりません」


「ええ」


「それでも、お望みですか」


「望みます」


 クラリスは納願帳へ書いた。


 誰にも見つからない場所が欲しい。


 椅子に触れる。


 木の表面は滑らかだった。古いのに、ささくれひとつない。手を置くと、長く探していた部屋の扉に触れたような気がした。


「クラリス様の願いには、こちらの品がよく合うかと」


 クラリスは椅子に座った。


 最初は、自室の中で誰にも気づかれなくなった。


 使用人が入ってきても、クラリスを見ない。父が部屋を訪ねても、空の机と閉じた窓を見て、首を傾げるだけだった。母は、何か言い忘れたような顔をして部屋を出ていった。


 手紙は減った。


 招待状も減った。


 原稿を催促する声も、彼女の部屋には届かなくなった。


 クラリスは静かだった。


 それが、こんなにも安らかなことだとは知らなかった。


 次に、名前が薄れた。


 家族は食卓で何かを言いかけて、やめるようになった。書棚にクラリスの本はあるのに、作者名を見ても首を傾げる。逓便局の名簿では、彼女宛ての欄がぼやけたように読みにくくなった。


 友人からの手紙は、宛先不明で戻った。


 読者からの手紙は、別の作家へ届くようになった。


 クラリスはそれを、遠くの雨音のように聞いていた。


 悲しくはなかった。


 誰にも呼ばれない。


 誰にも期待されない。


 誰にも見つからない。


 満願堂の片隅に、その椅子は置かれた。


 いつからそこにあったのか、客には分からない。


 普通の客には見えない。見えても、空席だと思う。窓際でもなく、カウンターのそばでもない。本棚の影に、ただ一脚の椅子があるだけだ。


 リゼットは時々、その席へ紅茶を置く。


 カップは少しずつ軽くなる。飲まれているのか、冷めて消えているのかは分からない。


 ある日、ロイが普通のお届け物を持って来た。


 茶葉の包みを渡し、ふと本棚の影を見る。


「今、誰か……」


 リゼットは微笑んだ。


「どうなさいましたか」


「いえ。席が、あるなと」


「喫茶店ですので」


「そう、ですね」


 ロイはそれ以上聞かなかった。


 聞いてはいけないような気がした。


 モルはその椅子の足元で丸くなることがある。


「あれ、今日もしずか」


「ええ」


 リゼットは紅茶を注ぐ。


「ようやく、見つからない場所に落ち着かれました」


 誰もいない席で、カップの水面がほんの少し揺れた。


 それが返事なのかどうかは、誰にも分からなかった。


 分からないままでいいのだと、リゼットは思った。


 少なくとも、クラリス様の願いには。


 その日の閉店後、リゼットは椅子の前に立った。


「おかわりはいかがですか、クラリス様」


 返事はない。


 ただ、カップの縁に残った紅茶が、少しだけ減っている。


 モルが椅子の下から顔を出した。


「いる?」


「ええ」


「いない?」


「ええ」


 モルは少し考えた。


「あれ、むずかしい」


「そうですね」


 リゼットは静かに笑った。


「ですが、とても静かな仕上がりです」


 満願堂の明かりが一つ、また一つと落ちていく。


 最後まで灯っていたステンドグラスの色も、夜の中へ沈んだ。


 誰にも見つからない椅子は、暗がりの中で、ただ静かにそこにあった。


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