第七十四話 壊せない処分場
リゼットの帳面が願具になりかけた時、処分場は少しずつ壊れ始めた。
建物が崩れたわけではない。炉の火が消えたわけでもない。仕事の依頼はむしろ増えていた。人々は相変わらず、扱いきれない願具を持ち込んだ。
けれど、処分が進まなくなった。
理由は単純だった。
壊す前に、迷う人が増えたからだ。
最初に手を止めたのは、処分場で一番手際の良い男だった。彼は長年、願具の壊し方を誰よりもよく知っていた。木、陶器、布、金属、骨、硝子。願具がどこに願いを溜めるのか、どうすれば返りを最小限にして力をほどけるのか。彼の手は迷わなかった。
その彼が、ある日、小さな木馬の前で槌を下ろせなくなった。
木馬は、亡くなった子どもが遊んでいたものだった。夜になると、床の上を少しだけ揺れる。母親はそれを怖がり、処分を頼んだ。
手順通りなら、木馬の脚を外し、胴を割り、目の部分を火にくべる。
しかし男は、槌を持ったまま止まった。
「どうしたのですか」
リゼットが聞くと、男は不機嫌そうに答えた。
「読んだ」
「何を」
「お前の帳面だ」
そこには、木馬の持ち主だった子どものことが書かれていた。
雨の日だけ木馬に乗りたがったこと。母親が忙しい時、木馬の耳を撫でて待っていたこと。亡くなる少し前、もう一度だけ外へ行きたいと言ったこと。
男は舌打ちした。
「こんなものを読んだ後で、どうやって壊せというんだ」
それは叱責だった。
だがリゼットには、どこか安堵のようにも聞こえた。
木馬はその日、壊されなかった。母親は翌日もう一度来て、やはり壊してほしいと言った。けれど、三日目には持ち帰った。
「怖いのは変わりません」
母親は言った。
「でも、怖いまま少し置いてみます」
それが正解だったのかどうかは分からない。
数か月後、その木馬がどうなったのか、リゼットは知らない。家の奥にしまわれたのかもしれない。やはり壊されたのかもしれない。誰かの手で直されたのかもしれない。
処分場の仕事としては、失敗だった。
リゼットの帳面は、そういう失敗を増やした。
壊す前に迷う。持ち主が泣き出す。処分役が手を止める。品を預かる期間が長くなる。倉庫がいっぱいになる。依頼人が怒る。家の者が頭を下げる。
処分場は、願具を置き続ける場所ではない。壊すための場所だ。持ち込まれた願具を長く置けば、返りが周囲へ滲むこともある。危険な品もある。迷っている間に持ち主の生活が壊れることもある。
だから、処分場の大人たちがリゼットを叱ったのは、すべてが間違いだったわけではない。
「お前は、壊す仕事を分かっていない」
長は言った。
「壊さなければ救われない者もいる」
「分かっています」
「分かっていない。分かっていたら、そんな帳面を見せたりしない」
リゼットは帳面を抱いた。
「見せてはいません。求められた方にだけ」
「求められるようにしているのだ」
その言葉に、リゼットは返せなかった。
確かに、彼女の帳面はただの記録ではなくなっていた。読んだ者に思い出させる。忘れかけた願いを、もう一度手元へ戻す。強制ではない。けれど、読めば迷う。迷えば、壊せなくなる。
それは処分場にとって、危うい魔願具だった。
「燃やしなさい」
長は言った。
リゼットは息を止めた。
「その帳面を燃やせば、仕事は戻る」
帳面を燃やす。
それは、リゼットが書き留めてきた願いを、もう一度壊すことだった。
青い糸巻き。錫の鳥。木馬。鈴。貝殻。靴音を覚えた敷石。手紙をしまった箱。名前を忘れた人形。
それらを、今度はリゼット自身の手で灰にする。
「できません」
「なら、お前はこの家にいられない」
長の声は冷たかった。
しかし、そこに怒りだけがあったわけではない。疲れもあった。処分場を守る者の苦しさもあった。リゼットはそれを理解していた。
理解しても、帳面は渡せなかった。
その夜、リゼットは処分場の倉庫へ入った。
壊される予定の願具が並んでいる。布をかけられた鏡。欠けた皿。金具の壊れた箱。赤い糸が絡んだ指輪。どれも、誰かが手放したものだ。誰かがもう持てないと決めたものだ。
彼女はそれらを全部救いたいわけではなかった。
救えないことも分かっていた。
壊さなければ、持ち主を傷つけ続ける願具もある。納めるべきではない願いもある。持ち帰らせることが残酷になる品もある。
それでも、壊す前に願ったことをなかったことにするのは、どうしても違うと思った。
倉庫の奥で、小さな札が一枚落ちていた。
願具の処分依頼票だった。古いもので、端が擦り切れている。そこには、持ち主の名も品名も半分消えかけていた。
ただ一つ、読める言葉があった。
月環。
リゼットはそれを拾い上げた。
以前から、処分場では噂だけがあった。
遠い月環街には、願具を壊さずに納める場所がある。そこでは、願いが勝手に消えることも、壊されることもなく、どこかへ行き着くらしい。
誰も本気にはしていなかった。
ただの迷信だと言う者もいた。壊したくない者が作った逃げ道だと言う者もいた。月環の堂など、古い名前だけが残った廃墟だと言う者もいた。
リゼットは、それまでその噂を強く追おうとはしていなかった。
処分場で書き続けることが、自分にできることだと思っていたからだ。
しかし、帳面を燃やせと言われた夜、彼女は初めて思った。
ここでは、足りない。
壊すか、持ち帰るか。忘れるか、苦しみ続けるか。処分場には、その間の場所がない。
納める場所が本当にあるなら。
壊さず、捨てず、願ったことをなかったことにしない場所があるなら。
リゼットは帳面を抱き、夜明け前の空を見た。
処分場の煙突から、まだ灰色の煙が細く上がっている。
そこは彼女の生まれた場所だった。必要な仕事をする場所だった。間違っているだけの場所ではなかった。
それでも、彼女はそこにいられなくなった。
現代の満願堂で、ロイは古い納願帳の頁を閉じるリゼットを見ていた。
「リゼットさん」
「はい」
「処分場のことを、嫌っているんですか」
リゼットは少しだけ目を伏せた。
「いいえ」
その答えは意外だった。
「必要な場所でした。今でも、必要な場所はあるでしょう」
「でも、出たんですね」
「ええ」
リゼットはカウンターの奥に置かれた黒布を整えた。
「私が必要とした場所は、そこではなかったのです」
ロイはそれ以上聞かなかった。
リゼットが処分場を恨んでいないこと。けれど、そこにいられなかったこと。その両方が、満願堂の静けさの底に沈んでいるのだと分かったからだ。
モルが足元で言った。
「壊さない手、リゼットのにおい」
リゼットは微笑んだ。
「壊せない手だったのかもしれません」
「ちがう」
モルは短く言った。
処分場が壊れ始めたことを、リゼットは自分のせいだと思った。
実際、その一部は彼女のせいだった。
帳面がなければ、木馬はその日に壊されていたかもしれない。錫の鳥の持ち主は弟の息遣いを思い出さずに済んだかもしれない。壊す手は迷わず、処分場はいつも通り動いたかもしれない。
けれど、リゼットは別のものも見ていた。
処分場の者たちの中にも、もともと迷いはあったのだ。
長く壊してきた人ほど、品に触れた時に分かることがある。これは本当に壊してよいのか。これは持ち主が苦しさから一時的に逃げたいだけではないか。これは壊せば、その人を支えていたものまでほどいてしまうのではないか。
処分場の手順は、その迷いを見ないためのものでもあった。
リゼットの帳面は、迷いを作ったのではない。
隠していた迷いを、見えるところへ戻したのだ。
そのせいで、人は動けなくなった。
迷いを見えるところへ戻すことが、いつも良いとは限らない。リゼットはそれも知った。
ある少女は、母の夢を見る枕を処分しに来た。帳面を読んで母を思い出し、処分をやめた。けれど数日後、眠れなくなって戻ってきた。今度こそ壊してください、と言った。
リゼットはその時、何も言えなかった。
壊さないことが正しいわけではない。
壊すことが悪いわけでもない。
それでも、壊す前に願いを一度見つめる場所が必要だと思った。
処分場には、その場所がなかった。
リゼットが処分場を出ると決めた日の朝、倉庫の前にはいつも通り依頼品が並んでいた。
誰かの夢を吸いすぎた枕。勝手に返事を書く羽根ペン。亡くなった人の姿だけを映す鏡。子どもの泣き声を閉じ込めた小瓶。
どれも、誰かがもう持てないと決めたものだった。
リゼットは一つずつ見た。
自分がここを出れば、これらは手順通りに処分される。迷いは減る。仕事は進む。持ち主は早く帰れる。
その方がよいのかもしれない。
本気でそう思った。
それでも、帳面を置いていくことはできなかった。
帳面は、処分場を責めるためのものではない。リゼット自身が正しいと証明するためのものでもない。ただ、願ったことをなかったことにしないためのものだった。
その願いだけは、処分場の炉へくべられなかった。
だから、彼女は出ていく。
勝ったからではない。
正しいからでもない。
ここでは、自分の願いが行き着かないと分かったからだった。
処分場を出る前、リゼットは一人だけに別れを告げた。
炉の番をしていた老女だった。彼女はリゼットを強く叱ったことも、帳面を燃やせと言ったこともない。ただ、いつも炉の火を見ていた。
「行くのかい」
老女は聞いた。
「はい」
「戻らないつもりかい」
リゼットは答えられなかった。
老女は灰を掻きながら言った。
「壊す仕事にも、手を合わせる日があるんだよ」
「知っています」
「なら、壊す者を嫌いになるな」
リゼットは顔を上げた。
老女はリゼットを見ずに続けた。
「嫌いになれば、楽だ。自分が正しいと思える。けれど、それではお前の帳面も細くなる」
その言葉は、リゼットの中に深く残った。
処分場を出た後も、彼女が壊す仕事を憎みきれなかったのは、そのせいかもしれない。
壊すことにも、行き着く形はある。
ただ、リゼットは別の場所を探しに行く。
それだけだった。
「壊す前に、止まる手」
その言葉に、リゼットは少しだけ黙った。
処分場を出る前の自分には、まだその違いが分からなかった。




