第七十三話 思い出す頁
リゼットの帳面がただの帳面でなくなったのは、雨の午後だった。
処分場の屋根を雨が叩いていた。炉の火は湿気のせいで弱く、灰の匂いがいつもより重かった。リゼットは倉庫の隅で、処分を待つ品の話を聞いていた。
その日持ち込まれたのは、薄い錫でできた鳥だった。
子どもの手のひらに乗るほどの小さな鳥。羽は動かない。足もない。ただ、嘴だけが少し開いている。持ち主は、歳を取った女だった。彼女は鳥を包む布を何度も撫でながら、言った。
「これは、弟が作ったものです」
弟は小さい頃、飛べない鳥をよく作ったという。木の枝や紙や錫の切れ端で、不器用な鳥を作り、姉に渡した。どれも飛ばなかった。けれど弟は、いつか飛ぶものを作ると言っていた。
その弟は、若くして亡くなった。
女は錫の鳥を長く持っていた。ある夜から、鳥は微かに鳴くようになった。声ではない。金属の薄い震え。けれど女には、弟が笑う時に息を吸う音に似て聞こえた。
最初は嬉しかった。
やがて、耐えられなくなった。
「弟の声に似ているのに、弟ではないのです」
女はそう言った。
「聞こえるたびに、私はあの子を思い出すのではなく、思い出せないところばかり探してしまう」
だから壊してほしい。
リゼットは帳面に書いた。
錫の鳥。弟の作った飛べない鳥。弟が笑う前に息を吸う音。似ているが、本人ではない。思い出したいのに、思い出せないところばかり探してしまう。
鳥は壊された。
薄い錫は折り曲げられ、嘴は閉じられた。金属の小さな震えは止まった。
それから数日後、女が処分場へ戻ってきた。
顔色は悪くなかった。だが、目に迷いがあった。
「弟のことを、だいぶ楽に思えるようになりました」
彼女は言った。
「よかったですね」と処分場の者が答えようとした時、女は続けた。
「でも、あの子がどんな声で笑っていたのか、分からなくなったのです」
リゼットは手を止めた。
女は困ったように笑った。
「苦しかったから、壊してもらったのに。今度は、苦しかった頃の方がまだ近かった気がして」
その言葉に、処分場の大人たちは返す言葉を持たなかった。処分は済んでいる。願具は壊された。返りは、起きた。それ以上、処分場にできることはない。
だがリゼットは、自分の帳面を持ってきた。
「読んでみますか」
女は驚いた。
「何を?」
「壊す前に、伺ったことです」
帳面を開く。錫の鳥の頁。
リゼットはそれを女へ差し出した。
女は最初、戸惑いながら読んだ。やがて、指が文字の上で止まった。
弟が笑う前に息を吸う音。
その一文を、女は何度も読んだ。
そして、泣いた。
激しい涙ではなかった。むしろ静かで、長い間しまわれていた水が少しずつ滲むような涙だった。
「そう」
女は言った。
「そうだった。あの子は、笑う前に息を吸うの。話し始める前にも、少しだけ」
完全に戻ったわけではない。
リゼットにも分かった。帳面を読んだからといって、失われた記憶がすべて鮮やかになるわけではない。鳥の震えは戻らない。弟の声も、完全には戻らない。
けれど、女はその一文で、少しだけ思い出した。
願具を壊すことで薄れたものが、紙の上に置かれた言葉から、ほんの少しだけ息を取り戻した。
その日から、処分場の人々はリゼットの帳面を気味悪がるようになった。
ただの記録なら、誰も気にしなかっただろう。だが、その帳面は、壊された願いを少しだけ思い出させた。
それは便利なことではない。
思い出せば、痛みも戻る。
忘れたかった苦しみも、捨てたかった未練も、閉じたはずの戸の隙間から戻ってくる。
持ち主の中には怒る者もいた。
「せっかく楽になったのに」
そう言って、帳面を読むのを拒んだ者もいる。
それでよかった。
リゼットは無理に読ませなかった。忘れたい人に思い出せとは言わなかった。処分を選んだことを責めもしなかった。
ただ、求められた時に、開ける頁があること。
それだけを大切にした。
やがて、帳面は少しずつ変わっていった。
古い紙の匂いが濃くなった。書いた文字が乾いているはずなのに、時々まだ湿っているように見えた。リゼットが開いていない頁が、持ち主の名前に合わせて勝手に開くこともあった。
処分場の者は言った。
「願具になりかけている」
その声には、嫌悪と恐れが混じっていた。
願具を処分する家の娘が、願具を作っている。
それは笑い話では済まなかった。
リゼットは帳面を隠すようになった。隠しても、書くことはやめなかった。
なぜなら、錫の鳥の女が、最後にこう言ったからだ。
「痛いです」
彼女は帳面を胸に抱くようにして返した。
「でも、忘れきるより、よかった」
リゼットはその言葉を、長く覚えている。
現代の満願堂で、納願帳の古い頁が一枚、ひとりでに開いた。
カウンターの上には、誰もいない。店は閉店後で、灯りは少し落とされている。モルは椅子の上で丸くなっていたが、頁の音で顔を上げた。
「リゼット」
「はい」
「帳面、よんでる」
リゼットは頁を見た。
そこには、昔の筆跡で短い記録が残っていた。
錫の鳥。弟が笑う前に息を吸う音。
その文字は、もう誰のために残っているのか分からない。女はとうにこの世にいないだろう。弟の名も、残っていない。
それでも、文字はまだ消えていなかった。
ロイがその場にいたなら、きっと尋ねただろう。
それは救いなのか、と。
リゼットは答えられなかったかもしれない。
思い出すことは、必ずしも人を救わない。忘れることで歩ける日もある。壊すことが必要な夜もある。
それでも、願ったことが完全になかったことになるよりは、ほんの少しだけましだと、リゼットは今も思っている。
「モル」
「なに」
「痛い記憶は、いらないと思いますか」
モルはしばらく考えた。
「いる人と、いらない人、いる」
「そうですね」
「でも、捨てる前に、聞く」
リゼットは微笑んだ。
「ええ」
それは、彼女が処分場で最初に覚えたことだった。
壊す前に、聞く。
帳面の変化は、リゼット自身にも怖かった。
ある夜、彼女が眠っていると、机の上の帳面がひとりでに開いた。窓は閉じている。蝋燭も消えている。けれど、頁は音もなくめくられ、青い糸巻きの記録で止まった。
翌日、その糸巻きの持ち主だった女が処分場へ来た。
偶然だと思いたかった。
だが、その後も似たことが続いた。誰かが自分の壊した願具を思い出したいと願う夜、帳面はその頁を開いた。まだ来ていない人の名が、薄く浮かぶこともあった。
リゼットは帳面を縛った。
紐で結び、布に包み、引き出しへ入れた。それでも、朝になると布はほどけていた。頁は開いていた。
処分場の者たちは、ますます嫌がった。
「願具を壊す家で、願具を育てるな」
そう言われた。
リゼットは何も言えなかった。
本当にその通りだったからだ。帳面は彼女の願いを覚えている。壊された願いを忘れたくないという思いを、紙が少しずつ吸い上げている。
けれど、燃やせなかった。
帳面は持ち主を無理やり呼び戻すわけではない。失われた記憶を完全に返すわけでもない。ただ、思い出したいと願った時に、少しだけ頁を開く。
それは危うい。
危ういからこそ、処分場では嫌われた。
リゼットはその危うさを知りながら、帳面を抱え続けた。願いは、危ういからといって、すべて壊せばいいものではない。
この考えは、まだ彼女の中で言葉になっていなかった。
だが、帳面の頁はすでにその方へ向かっていた。
それでも、帳面を読んでよかったと言う人ばかりではない。
ある男は、妻を嫌っていたことを思い出して怒った。忘れたままなら、亡き妻を美しい人として語れたのに、と言った。ある娘は、父を待っていた自分の幼さを思い出し、こんなものを残さないでほしかったとリゼットを責めた。
リゼットは謝った。
帳面を見せたことを、後悔した日もある。
だが、そのたびに思った。
思い出すかどうかを、誰が決めるのか。
処分場が決めるのか。リゼットが決めるのか。壊された品が決めるのか。持ち主自身でさえ、その時々で答えが変わる。
だから、帳面は扉のようなものなのかもしれないと、リゼットは考えるようになった。
開けることもできる。
閉じておくこともできる。
無理に押しつけるものではない。
ただ、開けたいと思った時に、完全な壁しかなければ人はどこにも行けなくなる。
その考えは、後の黒鉄の扉へも、満願堂の入口へも、細くつながっていく。
この頃のリゼットは、まだそれを知らなかった。
帳面の頁を読む人の手つきにも、違いがあった。
すぐに閉じる人。何度も同じ行を読む人。声に出して読む人。読んだ後で、何も言わずに礼だけして帰る人。
リゼットは、そのすべてを見た。
中には、頁を破ってほしいと言った人もいた。
「ここに残っていると思うと、かえって離れられない」
その人は、昔愛した人からもらった指輪を処分していた。指輪はもうない。けれど帳面には、その人が何を願ったのか残っている。
リゼットは頁を破らなかった。
代わりに、紙を一枚挟んで、その記録がすぐには見えないようにした。
「消すのではなく、今は閉じておきましょう」
そう言った。
その人は納得したのかどうか分からない顔で帰った。
閉じることと、消すことは違う。
この考えも、後の満願堂へ残っていく。
願いはいつも開かれていなくてよい。見たくない時には黒布をかける。奥の棚に休ませる。扉を閉じる。
けれど、完全になかったことにはしない。
そのための帳面だった。
忘れる前に、書く。
戻せないとしても、行き場をなくさないように。
帳面の頁は、静かに閉じた。




