第七十二話 壊す前に
リゼットが最初に書き留めた願いは、小さな糸巻きのことだった。
青い木製の糸巻き。端が少し欠け、指で撫でると何度も使われた跡が分かる。持ち主は、町外れで繕い物をして暮らす女だった。彼女は糸巻きを布に包み、処分場へ持ってきた。
「これを壊してください」
女はそう言った。
糸巻きは、夜になると勝手に転がった。転がって、古い服のほつれた場所で止まる。最初は便利だった。直すべき場所を教えてくれるのだから。だが、やがて糸巻きは、人の服だけではなく、家族の手紙や、閉じた戸や、言いかけて飲み込んだ言葉のそばでも止まるようになった。
何を繕えと言うのか分からない。
そう言って、女は疲れた顔で笑った。
処分場の大人たちは、いつものように帳面へ品名と日付を書いた。
青い糸巻き。自動転動あり。処分希望。
それで終わりだった。
だが、リゼットは女の手を見ていた。指先は荒れていた。爪は短く切られ、糸で擦れた跡がある。女は糸巻きを手放したがっている。けれど、包みを差し出す時、ほんの少しだけ指が布に残った。
リゼットは聞いた。
「この糸巻きは、どなたのものだったのですか」
大人の一人が眉をひそめた。
余計なことを聞くな、という目だった。
しかし女は答えた。
「母のものです」
声は小さかった。
「母は、何でも繕う人でした。服も、袋も、破れた布も。喧嘩したあとでも、まず服を直すような人で」
女は糸巻きを見た。
「母が死んでから、これが動くようになりました。最初は、母がまだ私の仕事を見てくれているようで、嬉しかったんです」
リゼットは黙って聞いた。
「でも、今は疲れました。何もかも繕えと言われている気がする。母が残したものまで、嫌いになりそうで」
女は目を伏せた。
「だから、壊してください」
その時、リゼットは初めて、処分場の帳面に足りないものを見た。
品名と日付だけでは足りない。
自動転動あり、処分希望。そんな言葉では、この糸巻きが何だったのか分からない。母の手。繕われた服。嬉しかった夜。疲れた朝。嫌いになる前に手放したいという願い。
それらを書かないまま壊せば、糸巻きは本当にただの処分品になってしまう。
リゼットは、処分場の隅に置いていた自分の小さな帳面を取り出した。
大人たちは気づかなかった。気づいても、子どもの落書きだと思っただろう。
彼女は書いた。
青い糸巻き。母のもの。何でも繕おうとした母の記憶。嬉しさと疲れ。嫌いになる前に手放したい。
字はまだ少し硬かった。けれど、リゼットは最後まで書いた。
糸巻きはその日のうちに壊された。
木は割られ、中に残っていた細い糸は燃やされた。返りとして、女は母の手つきを少し思い出しにくくなったという。だが、完全には忘れなかった。後日、彼女は処分場へ礼を言いに来た。
「全部思い出せるわけではないけれど、嫌いになる前に手放せました」
その言葉を聞いて、リゼットは帳面を強く抱いた。
それから、彼女は壊す前に聞くようになった。
誰が持っていたのか。
何を願ったのか。
どうして手放すのか。
最初は、持ち主たちも戸惑った。処分場は話を聞く場所ではない。早く壊してほしい、早く忘れたい、早く怖さを遠ざけたい。そういう顔で来る人が多かった。
それでも、問われると話す人はいた。
娘の声を閉じ込めた貝殻。
亡くなった夫の靴音を覚えた敷石。
嘘をつくたびに少し重くなる指輪。
子どもが帰ってくる日だけ温かくなる毛布。
それぞれに、願いがあった。
愚かな願いもあった。優しい願いもあった。自分勝手な願いも、誰かを守ろうとして歪んだ願いもあった。
リゼットはそれらを、できるだけそのまま書いた。
良い願い、悪い願い、と簡単には分けなかった。持ち主が言葉に詰まれば待った。怒っていれば、その怒りも書いた。泣いているなら、涙の跡が紙に落ちないよう少しだけ帳面を引いた。
家の者たちはやがて気づいた。
「リゼット」
ある日の夕方、処分場の長が彼女を呼んだ。
灰色の手袋を外し、炉の前で彼女の帳面を見下ろす。
「何を書いている」
「持ち込まれた願具のことです」
「処分記録ならこちらにある」
「これは、処分記録ではありません」
「では何だ」
リゼットは答えに迷った。
願いの記録。そう言えば簡単だった。だが、それでは足りない気がした。
「壊す前に、忘れないためのものです」
大人の顔が険しくなった。
「忘れるために持ち込まれる品もある」
「はい」
「手放すために壊す品もある」
「はい」
「なら、忘れさせてやるのも仕事だ」
それは間違っていなかった。
リゼットも分かっていた。壊さなければ前へ進めない人がいる。思い出し続けることが苦しみになる人がいる。処分場は、そういう人たちのために必要だった。
だからこそ、彼女は小さく言った。
「願ったことまで、壊さなくてもいいはずです」
炉の火が、ぱちりと鳴った。
その言葉は、処分場ではあまりにも不向きだった。
大人は長く黙り、それから言った。
「情を移すな」
「情ではありません」
「では何だ」
リゼットは答えられなかった。
その頃の彼女には、まだ自分の願いの名前が分からなかった。
満願堂もない。納願帳もない。モルも、まだ彼女のそばにはいない。
ただ、壊されたものが、完全に消えてしまうことだけが嫌だった。
その夜、リゼットは自室で帳面を開いた。
青い糸巻きの頁を読み返す。
母のもの。何でも繕おうとした母の記憶。嬉しさと疲れ。嫌いになる前に手放したい。
その文字を見ていると、壊された糸巻きがほんの少しだけそこに残っているように思えた。
品はない。
願具としての力もない。
それでも、願ったことが、紙の上に置かれている。
リゼットはまた新しい頁を開いた。
処分場へ持ち込まれる品は、明日も来る。彼女の帳面はすぐに足りなくなるだろう。大人たちには叱られるだろう。持ち主にも嫌がられるかもしれない。
それでも、書こうと思った。
壊す前に。
願いが、どこにも行けなくなる前に。
現代の満願堂で、リゼットは古い納願帳を閉じた。
「リゼット」
モルが足元から見上げる。
「昔も、書いてた?」
「ええ」
「いっぱい?」
「はい。足りないくらい」
モルは少し考えた。
「今も、足りない?」
リゼットは棚を見た。
表の願具。奥の魔願具。黒鉄の扉。納願帳。紅茶の香り。
「今も、きっと足りません」
「じゃあ、もっと書く」
リゼットの問いは、持ち主たちを救うためだけのものではなかった。
時には、持ち主を怒らせた。
「聞かないでください」
そう言った男もいた。男が持ち込んだのは、妻に渡せなかった首飾りだった。首飾りは、誰かが嘘をつくと少しだけ冷たくなる。男はそれを恋人への贈り物にするつもりだったが、渡す前に二人は別れた。長く持っているうちに、首飾りは男自身の嘘にばかり反応するようになった。
リゼットは、なぜ処分したいのか聞いた。
男は怒った。
「処分場は、裁く場所ではないでしょう」
「裁くつもりはありません」
「なら、聞かないでください」
その時、リゼットは帳面を閉じた。
聞くことがいつも正しいわけではないと知ったからだ。
願いを言葉にできる人ばかりではない。言葉にすれば、かえって傷が開く人もいる。問いが優しさになるとは限らない。沈黙を尊重することもまた、願いの形を守ることだった。
その日、リゼットは帳面にこう書いた。
首飾り。持ち主、語らず。語りたくない願いもある。
それでも、完全な空白にはしなかった。
語らなかったこともまた、その人が残した形だった。
この頃から、リゼットの帳面には事実だけでなく、言葉にならなかったものも増え始めた。ためらい。怒り。沈黙。包みを手放す前の指の硬さ。壊すと決めているのに、最後にもう一度だけ撫でる手。
大人たちは、そんなものは記録ではないと言った。
けれどリゼットには、それこそが壊す前に残すべきものに思えた。
リゼットは、聞いたことを美しく直さないようにした。
それは彼女なりの決まりだった。
持ち主が醜いことを言えば、醜いまま書く。願いが自分勝手なら、自分勝手なまま残す。怒りが混じっていれば、その怒りも削らない。
最初の頃、彼女は少しだけ綺麗に書こうとしたことがある。
母を憎んでいた娘の願いを、「母への複雑な思い」と書いた。すると、読み返した時に違うものになっていた。娘は複雑だったのではない。憎んでいた。憎んでいたのに、母の使った手鏡を壊す時に泣いた。
その矛盾を、綺麗な言葉で丸めてはいけないと思った。
願いは、整っているから願いなのではない。
整っていないまま、その人の生きる理由になることがある。
だからリゼットの帳面には、時々ひどい言葉も残った。
「戻ってくるなと思っていた」
「忘れたいのに、忘れたくない」
「愛していたことにしたい」
「許したくない。けれど、許した人として見られたい」
処分場の記録としては不適切だった。
けれど、願いの記録としては、たぶん必要だった。
帳面を書くリゼットの姿を、年下の子どもたちは少し怖がった。
処分場には、家の者だけでなく、見習いや使い走りの子どももいた。彼らは炉の掃除を手伝い、包みを運び、壊された後の欠片を分ける。願具そのものに深く触れることは許されていない。
その子どもたちの一人が、ある日リゼットに言った。
「書いたら、残っちゃうんでしょう」
「何がですか」
「怖いもの」
リゼットは答えに迷った。
確かに、書けば残る。忘れたい人にとっては、残ることそのものが怖いかもしれない。
「残したくないものは、書きません」
リゼットはそう答えた。
けれど、子どもは首を横に振った。
「残したいかどうかも、分からない時は?」
その問いは、長くリゼットの中に残った。
願いは、持ち主自身にも分からないことがある。残したいのか、捨てたいのか。愛していたのか、恨んでいたのか。忘れたいのか、忘れたくないのか。
だから、帳面には断定できない余白も必要だった。
リゼットはその日から、分からないことを分からないまま書くようになった。
「ええ」
リゼットは微笑んだ。
「壊す前に、ではなく。納めるために」




