表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第三章 奥の部屋で待つもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

72/78

第七十二話 壊す前に

リゼットが最初に書き留めた願いは、小さな糸巻きのことだった。


青い木製の糸巻き。端が少し欠け、指で撫でると何度も使われた跡が分かる。持ち主は、町外れで繕い物をして暮らす女だった。彼女は糸巻きを布に包み、処分場へ持ってきた。


「これを壊してください」


女はそう言った。


糸巻きは、夜になると勝手に転がった。転がって、古い服のほつれた場所で止まる。最初は便利だった。直すべき場所を教えてくれるのだから。だが、やがて糸巻きは、人の服だけではなく、家族の手紙や、閉じた戸や、言いかけて飲み込んだ言葉のそばでも止まるようになった。


何を繕えと言うのか分からない。


そう言って、女は疲れた顔で笑った。


処分場の大人たちは、いつものように帳面へ品名と日付を書いた。


青い糸巻き。自動転動あり。処分希望。


それで終わりだった。


だが、リゼットは女の手を見ていた。指先は荒れていた。爪は短く切られ、糸で擦れた跡がある。女は糸巻きを手放したがっている。けれど、包みを差し出す時、ほんの少しだけ指が布に残った。


リゼットは聞いた。


「この糸巻きは、どなたのものだったのですか」


大人の一人が眉をひそめた。


余計なことを聞くな、という目だった。


しかし女は答えた。


「母のものです」


声は小さかった。


「母は、何でも繕う人でした。服も、袋も、破れた布も。喧嘩したあとでも、まず服を直すような人で」


女は糸巻きを見た。


「母が死んでから、これが動くようになりました。最初は、母がまだ私の仕事を見てくれているようで、嬉しかったんです」


リゼットは黙って聞いた。


「でも、今は疲れました。何もかも繕えと言われている気がする。母が残したものまで、嫌いになりそうで」


女は目を伏せた。


「だから、壊してください」


その時、リゼットは初めて、処分場の帳面に足りないものを見た。


品名と日付だけでは足りない。


自動転動あり、処分希望。そんな言葉では、この糸巻きが何だったのか分からない。母の手。繕われた服。嬉しかった夜。疲れた朝。嫌いになる前に手放したいという願い。


それらを書かないまま壊せば、糸巻きは本当にただの処分品になってしまう。


リゼットは、処分場の隅に置いていた自分の小さな帳面を取り出した。


大人たちは気づかなかった。気づいても、子どもの落書きだと思っただろう。


彼女は書いた。


青い糸巻き。母のもの。何でも繕おうとした母の記憶。嬉しさと疲れ。嫌いになる前に手放したい。


字はまだ少し硬かった。けれど、リゼットは最後まで書いた。


糸巻きはその日のうちに壊された。


木は割られ、中に残っていた細い糸は燃やされた。返りとして、女は母の手つきを少し思い出しにくくなったという。だが、完全には忘れなかった。後日、彼女は処分場へ礼を言いに来た。


「全部思い出せるわけではないけれど、嫌いになる前に手放せました」


その言葉を聞いて、リゼットは帳面を強く抱いた。


それから、彼女は壊す前に聞くようになった。


誰が持っていたのか。


何を願ったのか。


どうして手放すのか。


最初は、持ち主たちも戸惑った。処分場は話を聞く場所ではない。早く壊してほしい、早く忘れたい、早く怖さを遠ざけたい。そういう顔で来る人が多かった。


それでも、問われると話す人はいた。


娘の声を閉じ込めた貝殻。


亡くなった夫の靴音を覚えた敷石。


嘘をつくたびに少し重くなる指輪。


子どもが帰ってくる日だけ温かくなる毛布。


それぞれに、願いがあった。


愚かな願いもあった。優しい願いもあった。自分勝手な願いも、誰かを守ろうとして歪んだ願いもあった。


リゼットはそれらを、できるだけそのまま書いた。


良い願い、悪い願い、と簡単には分けなかった。持ち主が言葉に詰まれば待った。怒っていれば、その怒りも書いた。泣いているなら、涙の跡が紙に落ちないよう少しだけ帳面を引いた。


家の者たちはやがて気づいた。


「リゼット」


ある日の夕方、処分場の長が彼女を呼んだ。


灰色の手袋を外し、炉の前で彼女の帳面を見下ろす。


「何を書いている」


「持ち込まれた願具のことです」


「処分記録ならこちらにある」


「これは、処分記録ではありません」


「では何だ」


リゼットは答えに迷った。


願いの記録。そう言えば簡単だった。だが、それでは足りない気がした。


「壊す前に、忘れないためのものです」


大人の顔が険しくなった。


「忘れるために持ち込まれる品もある」


「はい」


「手放すために壊す品もある」


「はい」


「なら、忘れさせてやるのも仕事だ」


それは間違っていなかった。


リゼットも分かっていた。壊さなければ前へ進めない人がいる。思い出し続けることが苦しみになる人がいる。処分場は、そういう人たちのために必要だった。


だからこそ、彼女は小さく言った。


「願ったことまで、壊さなくてもいいはずです」


炉の火が、ぱちりと鳴った。


その言葉は、処分場ではあまりにも不向きだった。


大人は長く黙り、それから言った。


「情を移すな」


「情ではありません」


「では何だ」


リゼットは答えられなかった。


その頃の彼女には、まだ自分の願いの名前が分からなかった。


満願堂もない。納願帳もない。モルも、まだ彼女のそばにはいない。


ただ、壊されたものが、完全に消えてしまうことだけが嫌だった。


その夜、リゼットは自室で帳面を開いた。


青い糸巻きの頁を読み返す。


母のもの。何でも繕おうとした母の記憶。嬉しさと疲れ。嫌いになる前に手放したい。


その文字を見ていると、壊された糸巻きがほんの少しだけそこに残っているように思えた。


品はない。


願具としての力もない。


それでも、願ったことが、紙の上に置かれている。


リゼットはまた新しい頁を開いた。


処分場へ持ち込まれる品は、明日も来る。彼女の帳面はすぐに足りなくなるだろう。大人たちには叱られるだろう。持ち主にも嫌がられるかもしれない。


それでも、書こうと思った。


壊す前に。


願いが、どこにも行けなくなる前に。


現代の満願堂で、リゼットは古い納願帳を閉じた。


「リゼット」


モルが足元から見上げる。


「昔も、書いてた?」


「ええ」


「いっぱい?」


「はい。足りないくらい」


モルは少し考えた。


「今も、足りない?」


リゼットは棚を見た。


表の願具。奥の魔願具。黒鉄の扉。納願帳。紅茶の香り。


「今も、きっと足りません」


「じゃあ、もっと書く」


リゼットの問いは、持ち主たちを救うためだけのものではなかった。


時には、持ち主を怒らせた。


「聞かないでください」


そう言った男もいた。男が持ち込んだのは、妻に渡せなかった首飾りだった。首飾りは、誰かが嘘をつくと少しだけ冷たくなる。男はそれを恋人への贈り物にするつもりだったが、渡す前に二人は別れた。長く持っているうちに、首飾りは男自身の嘘にばかり反応するようになった。


リゼットは、なぜ処分したいのか聞いた。


男は怒った。


「処分場は、裁く場所ではないでしょう」


「裁くつもりはありません」


「なら、聞かないでください」


その時、リゼットは帳面を閉じた。


聞くことがいつも正しいわけではないと知ったからだ。


願いを言葉にできる人ばかりではない。言葉にすれば、かえって傷が開く人もいる。問いが優しさになるとは限らない。沈黙を尊重することもまた、願いの形を守ることだった。


その日、リゼットは帳面にこう書いた。


首飾り。持ち主、語らず。語りたくない願いもある。


それでも、完全な空白にはしなかった。


語らなかったこともまた、その人が残した形だった。


この頃から、リゼットの帳面には事実だけでなく、言葉にならなかったものも増え始めた。ためらい。怒り。沈黙。包みを手放す前の指の硬さ。壊すと決めているのに、最後にもう一度だけ撫でる手。


大人たちは、そんなものは記録ではないと言った。


けれどリゼットには、それこそが壊す前に残すべきものに思えた。


リゼットは、聞いたことを美しく直さないようにした。


それは彼女なりの決まりだった。


持ち主が醜いことを言えば、醜いまま書く。願いが自分勝手なら、自分勝手なまま残す。怒りが混じっていれば、その怒りも削らない。


最初の頃、彼女は少しだけ綺麗に書こうとしたことがある。


母を憎んでいた娘の願いを、「母への複雑な思い」と書いた。すると、読み返した時に違うものになっていた。娘は複雑だったのではない。憎んでいた。憎んでいたのに、母の使った手鏡を壊す時に泣いた。


その矛盾を、綺麗な言葉で丸めてはいけないと思った。


願いは、整っているから願いなのではない。


整っていないまま、その人の生きる理由になることがある。


だからリゼットの帳面には、時々ひどい言葉も残った。


「戻ってくるなと思っていた」


「忘れたいのに、忘れたくない」


「愛していたことにしたい」


「許したくない。けれど、許した人として見られたい」


処分場の記録としては不適切だった。


けれど、願いの記録としては、たぶん必要だった。


帳面を書くリゼットの姿を、年下の子どもたちは少し怖がった。


処分場には、家の者だけでなく、見習いや使い走りの子どももいた。彼らは炉の掃除を手伝い、包みを運び、壊された後の欠片を分ける。願具そのものに深く触れることは許されていない。


その子どもたちの一人が、ある日リゼットに言った。


「書いたら、残っちゃうんでしょう」


「何がですか」


「怖いもの」


リゼットは答えに迷った。


確かに、書けば残る。忘れたい人にとっては、残ることそのものが怖いかもしれない。


「残したくないものは、書きません」


リゼットはそう答えた。


けれど、子どもは首を横に振った。


「残したいかどうかも、分からない時は?」


その問いは、長くリゼットの中に残った。


願いは、持ち主自身にも分からないことがある。残したいのか、捨てたいのか。愛していたのか、恨んでいたのか。忘れたいのか、忘れたくないのか。


だから、帳面には断定できない余白も必要だった。


リゼットはその日から、分からないことを分からないまま書くようになった。


「ええ」


リゼットは微笑んだ。


「壊す前に、ではなく。納めるために」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ