第七十一話 処分場の娘
満願堂に、灰の匂いが届いた。
黒い紐で括られた包みではない。納め札も下がっていない。逓便局の普通便として届けられた、薄い木箱だった。差出人は、月環街の外れにある古物整理商。中には割れた陶片と、古い鉄の釘と、焦げた布切れが少し入っていた。
「処分場の跡地から出たそうです」
ロイは伝票を確認しながら言った。
「願具かどうか分からないので、満願堂へ見てもらいたいと」
ココは横から箱を覗き込み、すぐに鼻をしかめた。
「焦げた匂いがしますね」
モルはカウンターの上へ乗り、箱の縁に鼻を近づけた。ふわふわの白い毛が、ほんの少し逆立つ。
「こわいにおい」
それから、リゼットを見た。
「リゼットの、むかし」
店内の音が、少しだけ遠くなった。
リゼットはしばらく箱を見ていた。いつものように微笑んでいたが、指先だけが止まっている。ロイはその小さな変化に気づいた。ココは気づかず、モルの毛をそっと撫でようとして、今はやめた。
「処分場の跡地ですか」
リゼットの声は穏やかだった。
「ええ。古い焼却炉の下から出たそうです」
「そうですか」
リゼットは陶片を一つ、黒布の上へ置いた。
それは何かの器の欠片だった。絵柄はほとんど残っていない。端は黒く焦げ、土の中で長く眠っていたせいか、指で触れると細かな粉が落ちた。
モルが短く言う。
「壊したあと」
「ええ」
リゼットは頷いた。
「これは、壊されたものの欠片です」
願具を壊す場所は、昔からあった。
人が願いを物に宿すようになれば、それを持て余す人も現れる。叶いすぎた願い。返りを恐れた願い。誰かに見られたくない願い。持ち主が亡くなり、遺族が扱いに困った願い。捨てるには怖く、持ち続けるには重い品々。
そうしたものを処分する家があった。
リゼットは、その家に生まれた。
幼い頃のリゼットにとって、処分場は日常だった。
広い石敷きの庭。雨の日でも消えない灰の匂い。高い壁。鍵のかかる倉庫。炉の前に積まれる木箱や布包み。大人たちは手袋をはめ、ひとつずつ品を確かめ、壊すものと壊さないものを分ける。
壊す、と言っても、ただ力任せに砕くのではない。
木なら割る。布なら裂く。金属なら曲げ、火にかける。陶器なら布に包んで槌を落とす。ひとつひとつの品が願いを離すまで、処分役は手順を守る。
その仕事は必要とされた。
だが、好かれてはいなかった。
街の人々は、処分役の家を頼る。けれど、帰り道には少し足を速める。礼は言うが、食卓には招かない。祭りの日に声をかけられることはあっても、中心には置かれない。
願具を壊す者は、願いを壊す者だ。
そう思われていた。
リゼットはそれを、子どもの頃から知っていた。
けれど、願具を壊したからといって、処分役に呪いが返るわけではなかった。
炉の煙に黒い手が伸びることもない。割れた皿の持ち主が夜ごと夢に立つこともない。処分役はただ、壊す。壊して、欠片を分け、灰を掃き、帳面に印をつける。
悪いことが起きるのは、別の場所だった。
ある日、若い女が小さな銀の鈴を持ち込んだ。亡くなった妹の笑い声が聞こえる鈴だという。女は最初、壊してくださいと強く言った。聞こえるたびに苦しい。眠れない。もう忘れたい。
大人たちは手順通りに鈴を壊した。
鈴は割れた。音は止まった。
翌週、その女は処分場へ戻ってきた。妹の笑い方が思い出せない、と言った。
泣いているのに、何を失ったのかをうまく言えない顔だった。
リゼットはその顔を覚えている。
別の日、老いた男が古い杖を持ち込んだ。妻が歩く時に使っていた杖だ。杖は夜になると、廊下をこつり、こつりと鳴らした。男は恐ろしくなり、壊してほしいと言った。
杖は処分された。
その後、男は妻がどんな歩き方をしていたのか思い出せなくなった。
処分場の大人たちは言った。
「願具とはそういうものだ」
壊せば、宿っていた願いはほどける。ほどければ、願いに結ばれていた記憶や感情も薄れる。だから、本人や家族は壊したがらない。だから、処分役がいる。
リゼットは聞いた。
「では、壊した願いはどこへ行くのですか」
大人は答えなかった。
灰になる、とも言わなかった。消える、とも言わなかった。ただ、次の品を運びなさい、と言った。
子どものリゼットは、処分場の隅に置かれた欠片を見るのが苦手だった。
壊されたものは、形を失う。だが、欠片には時々、まだ何かが残っている。銀の鈴の破片。焦げた布。折れた木の歯車。砕けた人形の腕。どれももう願具ではない。けれど、完全なただの物にも戻っていないように見えた。
それは、行き場を失った願いの残り香だったのかもしれない。
今、満願堂のカウンターに置かれた陶片にも、同じ匂いがあった。
リゼットは黒布の上で欠片を並べた。
器の形には戻らない。どれほど丁寧に合わせても、失われた部分は多すぎる。だが、破片の縁を見れば分かる。これは乱暴に割られたものではない。処分場の手順で、壊されたものだ。
「リゼットさん」
ロイは慎重に声をかけた。
「これは、納めるものですか」
リゼットは少しだけ考えた。
「納める、というより、記録するものです」
「記録」
「壊された願いは、戻りません。けれど、壊されたことまで忘れてしまえば、本当にどこにも行けなくなります」
モルが陶片のそばで丸くなった。
「かけら、まだいる」
「ええ」
リゼットは納願帳を開いた。
そこに書く文字は、いつもより少し遅かった。
処分場跡より出土。器の欠片。願いの詳細不明。壊された願具の残滓あり。
ロイはその手元を見ていた。
リゼットがなぜ、どんな願いにも行き着く場所を与えようとするのか。まだ全部は分からない。けれど、少しだけ見えた気がした。
この人は、願いが叶う瞬間だけを見てきたのではない。
壊され、忘れられ、持ち主の中から薄れていくものも、見てきたのだ。
ココが静かに言った。
「壊した人が、悪いんですか」
リゼットは首を横へ振った。
「そうとは限りません。壊さなければ、生きていけなかった方もいらっしゃいます」
「でも、忘れちゃうんですよね」
「はい」
「難しいです」
「ええ」
リゼットは微笑んだ。
「たいへん」
その言葉は、いつもの穏やかな言い方だった。
けれどロイには、その奥に長い灰の匂いがあるように思えた。
その夜、満願堂の奥の棚に、器の欠片は納められなかった。
代わりに、納願帳の間へ薄い紙包みとして挟まれた。品として休むのではなく、記録として残る。壊された願いの小さな証として。
モルはしばらくその帳面の上に前足を置いていた。
「モル?」
リゼットが呼ぶ。
「ここ、あたたかくない」
「そうですね」
「でも、ないより、いい」
リゼットはその言葉を聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。
「ええ。ないよりは、きっと」
処分場の娘だった頃、リゼットにはまだ満願堂がなかった。
リゼットが幼い頃、処分場にはもう一つ決まりがあった。
持ち主の前では、なるべく早く壊すこと。
待たせれば、迷いが戻る。迷いが戻れば、持ち主は品を抱えて帰りたくなる。帰ったところで、また苦しむ。だから、処分場の者たちは手早かった。優しさではなく、手順として、迷う時間を与えない。
リゼットはその決まりを理解していた。
理解していても、炉の前で立ち尽くす人を見るのが苦手だった。
ある男は、妻の使っていた針山を持ち込んだ。針山は毎朝、まだ縫っていない布のそばへ勝手に移動した。男は最初、それを妻が家事を助けてくれているように思った。だが、やがて針山は、妻が生前に仕上げられなかった子どもの服の前で止まるようになった。
男は泣きながら壊してほしいと言った。
処分後、男はその子どもの服をどこへしまったのか思い出せなくなった。子どもの顔を忘れたわけではない。妻を愛していたことも忘れない。ただ、妻がどんな手つきで布を撫でていたかだけが、霧のように薄くなった。
処分場の大人は言った。
「それでいい。思い出せない方が眠れる」
そうなのだろう、とリゼットも思おうとした。
けれど、男が帰った後に残った壊れた針山の布片を見た時、胸の奥で何かが小さく引っかかった。眠れるようになることと、願ったことが消えることは同じではない。けれど処分場には、その違いを置く棚がなかった。
その時の引っかかりが、ずっと残っていた。
灰の中で形を失った願いは、どこへ行くのか。
誰も答えなかった問いが、リゼットの中で少しずつ深くなっていった。
リゼットがそれを「処分」と呼ぶ大人たちを責められなかったのは、処分場にも確かに救われた人がいたからだった。
持ち主の中には、壊された後に眠れるようになった者もいる。泣かなくなった者もいる。毎晩聞こえていた声が止まり、初めて朝の光を見られたという者もいた。
だから、壊すことはいつも悪ではなかった。
問題は、壊した後に残るものを、誰も見ようとしなかったことだ。
処分場では、壊された品の欠片は分けられた。燃やせるもの、埋めるもの、溶かすもの、二度と同じ形にならないよう砕くもの。作業としては丁寧だった。だが、願いそのものの行き先は、作業の外に置かれていた。
リゼットは時々、灰捨て場の前にしゃがんだ。
灰の中には何も見えない。けれど、そこにかつて誰かの願いがあったことだけは分かった。
その感覚を口にすると、大人たちは嫌な顔をした。
「見すぎるな」
そう言われた。
見すぎれば、壊せなくなる。壊せなければ、処分場の仕事は成り立たない。
それも、リゼットには分かっていた。
分かっていたから、余計に苦しかった。
現在の満願堂で、ロイはその話を聞きながら、処分場という場所をうまく想像できずにいた。
逓便局にも仕分け場がある。届くものと戻るものを分け、壊れた荷を報告し、行き先不明の荷を保管する。けれど、それはあくまで荷物の話だ。中身に宿った誰かの願いまで仕分けるわけではない。
「怖い仕事ですね」
ロイが言うと、リゼットは少しだけ首を傾けた。
「怖いだけでは、続けられません」
「では、何だったんですか」
「必要な仕事でした」
その答えに、ロイは黙った。
リゼットは処分場を悪として語らない。そこで生まれた自分の痛みさえ、誰かを責めるためには使わない。その姿勢が、かえって処分場の重さを伝えていた。
必要な場所であっても、自分の行き着く場所ではないことがある。
ロイはそのことを、まだうまく言葉にできなかった。
納める場所も、奥の棚も、黒鉄の扉も、紅茶の香りもなかった。
ただ、灰の中に残った欠片と、それを忘れたくないと思う自分だけがいた。
その思いが、やがて一冊の帳面へ向かっていく。




