第七十話 モルの名前
白い影に、名前はなかった。
それは最初、納め台のそばにいるだけのものだった。人々はそれを見たり見なかったりした。見た者も、何だったのかは説明できなかった。
猫に似ていたと言う者がいた。
犬ほどではないと言う者もいた。
煙のようだったと言う者も、白い布が丸まっているだけだったと言う者もいた。
誰も正確には言えなかった。
白い影は、願い物を選ばない。願いを叶えない。通すものを決めるわけでもない。ただ、納め台のそばにいて、抜け落ちたものが迷いすぎないようにしていた。
それには名前が必要なかった。
名前を呼ぶ人がいなかったからだ。
「名前、なかったんですか」
ココは少しショックを受けたようだった。
「モルさんなのに」
「昔の話です」
リゼットは微笑んだ。
「今はモルです」
「モルはモル」
モルは当然のように言った。
「でも、昔は?」
「しらない」
「モルさん、自分の昔なのに」
「しらないものは、しらない」
ココは納得したような、していないような顔で頷いた。
その日、満願堂には古い首輪が届いていた。
首輪と呼ぶには細く、リボンと呼ぶには硬い。白い布に、色褪せた小さな飾り紐がついている。今のモルが首に結んでいるリボンとは違うが、どこか似ていた。
納め札には、ただ一言。
白いものに結ばれていた布。
「モルさんのですか?」
ココが聞く。
モルは布を嗅いだ。
「ちがう」
「違うんですか」
「でも、近い」
リゼットはその布を黒布の上へ置いた。
「白い影が、モルと呼ばれるようになる前のものかもしれません」
ロイはカウンターの端で聞いていた。
以前、リゼットが月環街へ向かう旅の途中に白いものに導かれた話を、ロイは聞いていた。けれど、その白いものが今のモルになった経緯は、まだ曖昧なままだった。
リゼットは古い布を見つめる。
「名前は、願いほど強いものではないかもしれません」
「そうなんですか?」
ココが意外そうに言う。
「ですが、呼ぶためには必要です」
リゼットの声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
月環の堂に辿り着いたばかりの頃、リゼットはまだ管理人ではなかった。
処分場の娘であり、願いを壊したくない者であり、帳面を抱えた旅人だった。
古い金庫。納め台。鍵穴のない扉。閉じた目の気配。そこには確かに、壊さずに納める場所があった。
だが、今の満願堂ではなかった。
紅茶もない。古書もない。カウンターもない。モルが受け取り印を押すこともない。
ただ、願い物を置く場所があった。
そして、そのそばに白いものがいた。
白いものは喋らなかった。
リゼットが近づいても逃げない。触れようとすると、するりと離れる。納め台の下で丸くなり、時々、何もない場所へ鼻を向ける。
リゼットには、それが何をしているのか分からなかった。
ただ、願い物を納めた後、空気の中に残るものへ寄り添っているように見えた。
最初の数日、リゼットは白いものに話しかけなかった。
相手が生き物なのかどうかも分からない。こちらの声が届くのかも分からない。
だが、月環の堂で過ごすうち、沈黙は少しずつ不便になった。
納め台のそばにいる白いものへ、場所を空けてほしい時。願い物を置く時。夜になって灯りを落とす時。
呼ぶ言葉がなかった。
「そこにいるもの」では長い。
「白いもの」では、少し遠い。
ある夜、リゼットは帳面を書きながら、白いものが自分の足元で丸くなっていることに気づいた。
その日は、古い鈴が納められた日だった。鈴は鳴らない。だが、鈴から落ちた笑いの気配だけが、納め台の下に薄く残っていた。
白いものは、そのそばで丸まっていた。
小さく、丸く、そこにいる。
リゼットは何気なく言った。
「モル」
白いものが顔を上げた。
それが返事だったのか、ただ音に反応しただけなのかは分からない。
けれどリゼットは、その時もう一度呼んだ。
「モル」
白いものは逃げなかった。
それから、ほんの少しだけ近づいた。
「それが名前の始まりですか」
ロイが聞いた。
リゼットは頷いた。
「はい」
「意味は?」
ココが尋ねる。
「大きな意味はございません」
「ないんですか」
「ええ。小さく、丸く、そこにいたから」
モルは胸を張った。
「モル、小さい?」
「昔は、もう少し小さかったかもしれません」
「今は?」
「ふわふわです」
「ふわふわ」
モルは満足した。
名前をもらったからといって、白いものがすぐに喋るようになったわけではない。
最初は、リゼットの声に反応するだけだった。
モル。
そう呼ぶと、顔を上げる。時々近づく。納め台の下から出てくる。願い物を置く時、少し場所を空ける。
長い時間をかけて、白いものはリゼットのそばにいるようになった。
リゼットも、モルと呼ぶことに慣れていった。
名前があると、そこにいることを確かめやすくなる。
モルは、まだ喋らない。
けれど、願い物の匂いに反応して、短く鳴くような音を出すことがあった。リゼットはそれを言葉の前のものとして聞いた。
あたたかい願い。冷たい願い。重い願い。まだ手放せない願い。
モルは鼻で分けた。
リゼットは帳面に書いた。
やがて、リゼットが満願堂を作り始めた頃、モルは少しずつ言葉を覚えた。
最初に覚えたのは、名前だった。
「モル」
自分を指す言葉としてではなく、呼ばれた時に返す音として。
次に覚えたのは、「におい」。
願いを説明するための、モルにとって一番近い言葉だった。
それから、「まだ」「ない」「ある」「奥」「表」。
リゼットが分類を作るより前から、モルは匂いでそれを分けていたのかもしれない。
「モルさん、昔からはんこ押せたんですか?」
ココが聞いた。
リゼットは笑った。
「それは、かなり後です」
「じゃあ、僕が教えたわけじゃないですけど、僕も上達を見守ってますね」
「ココ、せんぱい?」
モルが言う。
「はい。はんこに関しては、僕が先輩かもしれません」
「モルも、せんぱい」
「満願堂ではモルさんが先輩です」
二人は真面目に頷き合った。
ロイは少し笑い、リゼットはその様子を静かに見ていた。
古い白い影が、今はココに撫でられ、受け取り印を押し、クッキーを欲しがり、店番をする。
それは変化なのか、仕上がりなのか。
リゼットには、どちらとも言い切れなかった。
ただ、名前を呼べることは大きかった。
「モル」
そう呼べば、白いものは顔を上げる。
満願堂の中で、迷ったもののそばにいる存在へ、こちらから声をかけられる。
それは、リゼットにとって小さな救いだった。
夕方、エリアスがいつもの席で本を閉じた。
「名前を呼ぶと、変わるものね」
「そうですね」
リゼットは答える。
「エリアス様も、そう思われますか」
「ええ」
エリアスは少しだけ考えた。
「私も、名前を呼ばれるから、まだ私なのかもしれないわ」
その言葉に、リゼットは少しだけ目を伏せた。
エリアスは仕上がり済みの常連だ。変わらない願いの中で、満願堂に通い続けている。けれど、リゼットが彼女をエリアス様と呼ぶたびに、その名前は確かにこの店の中へ置かれている。
モルがエリアスを見た。
「エリアス、いつもの人」
「ええ」
エリアスは微笑む。
「モルは、モルね」
「うん」
モルは得意げだった。
古い布は、モルのものではなかった。
けれど、白い影に名がなかった頃の気配を残していた。リゼットはそれを奥の棚へ納めることにした。
「モルさんの首につけないんですか?」
ココが聞く。
「これは、今のモルのものではございませんから」
「そうなんですね」
「モルには、今のリボンと鍵があります」
モルは自分の首元を見下ろした。
「これ、モルの」
「はい」
「名前も、モルの」
「ええ」
リゼットは黒布を用意した。
その時、モルがふと尋ねた。
「リゼットは、だれが名前つけた?」
空気が少し止まった。
ロイは思わずリゼットを見た。
リゼットは微笑んだ。けれど、その微笑みにはいつもの柔らかさと、少し違うものが混じっていた。
「私の名前は、生まれた時にいただいたものです」
「だれ?」
「家族です」
「リゼットの家族」
モルはその言葉を繰り返した。
リゼットは布を整える手を止めなかった。
「ええ」
それ以上は言わない。
ロイは、また気づいた。
リゼットは知っている。覚えている。けれど、そこへまだ踏み込ませない。
モルは少しだけ鼻をひくつかせた。
「リゼット、むかしのにおい」
「そうかもしれませんね」
「かなしい?」
「いいえ」
少し間があった。
「まだ、そこまでではありません」
それは否定ではなかった。
今はまだ語らない、という言葉だった。
古い布は奥の棚へ納められた。
棚を閉じる時、モルはじっと見ていた。自分のものではない。けれど、自分に近いもの。名前を持つ前の白い影に触れていたかもしれない布。
棚が閉じると、モルはリゼットの足元へ来た。
「リゼット」
「はい」
「呼んで」
リゼットは少しだけ驚き、それから微笑んだ。
「モル」
モルは満足そうに目を閉じた。
「うん」
それだけだった。
だがロイには、その短いやり取りが、満願堂の奥にあるどんな満願具よりも大切なものに見えた。
名前を呼ぶ。
返事をする。
そこにいることを、確かめる。
願いを納める場所に、それがどれほど必要だったのか。今なら少し分かる気がした。
夜、リゼットは納願帳の端に短く書いた。
白い影に名をつける。
モル。
迷うもののそばにいるもの。
名を呼ぶと、顔を上げる。
そこまで書いて、筆を止める。
自分の名前のことを、モルに聞かれた。
家族。
処分場。
壊される願具。
まだ、そこへ戻るには少し早い。
けれど、満願堂は少しずつ古い場所へ近づいている。月環の堂。納め台。白い影。願いの多い子。そして、そこへ辿り着いた自分。
次に開く頁は、きっとリゼット自身の過去へ向かう。
モルはカウンターの上で眠っている。
リゼットは灯りを落とす前に、もう一度だけ名前を呼んだ。
「モル」
「ん」
眠そうな返事があった。
それだけで、満願堂の夜は少しだけ迷わずに済んだ。
古い布を納めた後、リゼットはしばらく自分の名を考えていた。
リゼット。
生まれた時に家族から与えられた名。処分場で呼ばれていた名。願具を壊す前に帳面へ文字を書いていた娘の名。月環の堂へ辿り着き、白い影をモルと呼んだ者の名。
同じ名前なのに、場所によって少しずつ響きが違う。
満願堂では、誰もが彼女をリゼットと呼ぶ。ロイはリゼットさん。エリアスは柔らかくリゼットさん。オルスは時々、管理人と呼びかける。モルはただ、リゼット。
そのどれも間違いではない。
けれど、名前があることと、行き先があることは同じではない。
リゼットはその考えを、まだ言葉にしなかった。
夜更け、モルが目を覚ました。
「リゼット、寝ない?」
「もう少しだけ」
「名前、書く?」
「ええ」
「モルの?」
「今日は、私の名前も」
モルは眠そうに瞬きをした。
「リゼットは、リゼット」
「はい」
「それでいい」
その単純さに、リゼットは少しだけ救われた。
だが同時に、その単純さだけでは届かない場所があることも知っている。
名前を持つこと。呼ばれること。返事をすること。
それは、存在を確かめるために大切だ。
けれど、どこへ行くのかまでは教えてくれない。
リゼットは納願帳の端に、そっと自分の名を書いた。
リゼット。
その文字は、納願帳の中で少しだけ浮いて見えた。客の名でも、納め物の名でも、満願具の記録でもない。管理人自身の名。
モルが近づき、鼻を寄せる。
「リゼットのにおい」
「そうですか」
「まだ、ある」
「はい」
リゼットは静かに微笑んだ。
まだ、ある。
その言葉を今は、ただ受け取るだけでよかった。
処分場の娘の話は、これから開く。
リゼットという名が、どこから満願堂へ来たのか。
それを語るには、もう少し頁が必要だった。




