第六十九話 抜け落ちたもの
願いが納められると、必ず何かが残る。
それは満願堂で長く繰り返されてきた事実だった。願いそのものが行き着いても、願いへ向かう途中で落ちたものは、すぐには消えない。
痛み。迷い。怒り。食欲。名前。眠り。帰る場所。誰かの声。誰かを選びたい気持ち。
返りで落ちたものは、罰ではない。
願いに不要になったものが、持ち主から離れただけ。
けれど、離れたものにも行き場があるとは限らない。
その日、満願堂の奥の棚が、朝から少し騒がしかった。
音がするわけではない。物が動くわけでもない。だが、棚の前を通るたび、空気の中に細い糸が絡むような感じがあった。
モルは落ち着かなかった。
カウンターの上から棚へ行き、棚から黒鉄の扉の前へ行き、またカウンターへ戻る。白い毛がいつもよりふくらんでいる。
「モル、どうした」
オルスが聞いた。今日は修理した椅子の小さな部品を届けに来ていた。
「いっぱい」
「何が」
「ないもの」
オルスはリゼットを見た。
「通訳してくれ」
「モルは、抜け落ちたものの気配を感じているのだと思います」
「抜け落ちたもの」
「願いが進む時に、その方から離れたものです」
オルスは顔をしかめる。
「また面倒な話だ」
「ええ」
モルは奥の棚の前で鼻をひくつかせた。
「痛い、ない。怒る、ない。名前、ない。帰る、ない」
言葉は短いが、ロイにはそれぞれに心当たりがあった。
痛みを移した包帯。正しさの天秤。名前を売る名刺。君を待つ時計。誰にも見つからない部屋。
満願堂には、たくさんの願いが納められてきた。仕上がった願いも、納められた魔願具も、願具になりかけた品もある。
それらは棚で静かにしている。
けれど、その周りには、願いから落ちたものが薄く残っているのかもしれない。
「それらは、どうなるんですか」
ロイが尋ねた。
「多くは時間とともに薄れていきます」
リゼットは答える。
「ですが、迷うものもございます」
「迷う」
「ええ。持ち主のもとへは戻れない。願いと一緒に納まることもできない。そういうものが」
モルが言う。
「ひとりになる」
その言葉で、店内が少し静かになった。
抜け落ちたものがひとりになる。
奇妙な言い方だった。けれど、満願堂ではその方が正確なのかもしれない。
リゼットは黒鉄の扉を見た。
「月環の堂の古い記録にも、それらしき記述があります」
昔、願い物が納められるようになると、納め台の周りには見えないものが集まるようになった。
人々はそれを怖がった。
願い物が消えた後に、なぜか涙だけが残る。誰もいないのに、小さなため息が聞こえる。納め台の下に、誰のものでもない名前が落ちているような気がする。
そういう記録がある。
実際に何が残っていたのかは、分からない。
だが、願いが行き着く時、願いに不要になったものが、すべてきれいに消えるわけではなかった。
それらは、戻れない。
けれど、消えきれない。
だから納め台の周りを漂った。
ある夜、納め台のそばに白い影が現れた。
動物のようにも見えた。煙のようにも見えた。布の塊のようにも見えた。はっきりした形はない。
人々は最初、それを怖がった。
だが、白い影は願い物を奪わなかった。人を襲わなかった。何かを叶えるわけでもなかった。
ただ、納め台のそばで丸くなっていた。
迷っているもののそばに、黙っている。
それだけだった。
「それが、モルさんですか」
ロイが聞いた。
モルは知らん顔をした。
「モルはモル」
「そうですね」
リゼットは微笑んだ。
「今のモルは、モルです」
オルスが鼻を鳴らす。
「昔の話は嫌いか」
「しらない」
モルは尻尾を揺らした。
「でも、においは知ってる」
「便利だな」
「便利?」
「いや、なんでもない」
白い影は、願いを叶えなかった。
それは大事なことだった。
願いを叶えるのは願い物であり、のちの願具であり、魔願具であり、満願具だ。白い影はそこに介入しない。
落ちたものを持ち主へ返すこともしなかった。
痛みを返せば、願いは変わってしまう。名前を返せば、仕上がりが崩れる。怒りを戻せば、納めたはずの願いがまた動き出すかもしれない。
白い影は、返さない。
ただ、迷っているものが完全に迷子にならないように、そばにいる。
「それは、何のためなんですか」
ココがいつの間にか来ていた。普通便を届けたあと、話の途中だと分かって静かにしていたらしい。
「何かをしてあげるわけじゃないんですよね」
「そうですね」
リゼットは考えた。
「ただ、そばにいることにも意味はございます」
「モルさん、すごいですね」
「すごい」
モルは頷いた。
「でも、何もしないんですよね」
「しない」
「それでもすごいです」
ココは真面目に言った。
モルは少しだけ目を丸くした。
褒められることには慣れている。はんこを押せばえらい。お茶を運べばえらい。けれど、何もしないことを褒められるのは珍しかったのかもしれない。
モルはカウンターの上で丸くなった。
「モル、しないの、すごい」
「はい、すごいです」
リゼットはそのやり取りを見て、少しだけ笑った。
だが、その笑みは長く続かなかった。
奥の棚の前に戻ると、リゼットは一つ一つの品を見た。
忘れものの櫛。後悔を届ける靴。眠りを買う枕。選ばれる赤い靴。嘘を飾る口紅。君を待つ時計。願いを量る秤。
それらの周りには、きっと今も、落ちたものの薄い気配がある。
持ち主に戻らないもの。願いと一緒には納まらないもの。
満願堂は、それらを無視してきたわけではない。
モルがいる。
モルは匂いを嗅ぎ、あるものとないものを見分ける。
「リゼット」
モルが呼んだ。
「はい」
「ないもの、たまる?」
「少しずつ」
「いっぱい?」
「満願堂は長く続いていますから」
「リゼット、こまる?」
リゼットは答えようとして、言葉を止めた。
困る、という感覚は少し違う。満願堂にとって、それは仕事の一部だった。願いを納めるなら、抜け落ちたものにも目を向けなければならない。
けれど、ずっとそれを見続けることが、何も削らないわけではない。
ロイは、リゼットの沈黙を見た。
彼女が何を言わないのか、少しずつ気づけるようになってきた。今日もそうだ。リゼットは困っていないと言いたかったのかもしれない。けれど、すぐに言えなかった。
「満願堂には、モルさんが必要なんですね」
ロイが言うと、リゼットは彼を見た。
「ええ」
今度は迷わなかった。
「モルは、満願堂にとってたいへん大切です」
モルが胸を張る。
「たいへん大切」
「はい」
ココが撫でようとして、今日は少し遠慮した。
モルはそれに気づき、自分から頭を差し出した。
「なでる?」
「いいんですか?」
「今日は、いい」
ココはそっと撫でた。いつものようにわしゃわしゃではなく、少しだけ丁寧に。
モルは目を細めた。
「ないもの、迷わない?」
ココが小声で聞く。
モルは短く答えた。
「ぜんぶは無理」
「全部は無理」
「でも、そば」
それで十分なのかどうか、ココには分からなかった。
けれど、何もしないでそばにいることが、時には一番難しいのかもしれないと思った。
その夜、満願堂の灯りが落ちた後、リゼットは納願帳を開いた。
今日の頁には、納め物の記録ではなく、短い覚え書きだけを書いた。
願いから抜け落ちたもの。
返らないもの。
迷うもの。
白い影。
そこまで書いて、筆を止める。
白い影は、いつからモルになったのか。
正確には、まだ書けない。
リゼットが名を呼ぶ前から、そこにいた。けれど、モルという名前を持ったのは、もっと後だった。
「リゼット、書く?」
「はい」
「モルのこと?」
「少しだけ」
「かっこよく?」
リゼットは笑った。
「できるだけ」
「できるだけ、かっこよく」
「ええ」
モルは満足そうに丸くなった。
リゼットはもう一度、筆を取る。
白い影は、願いを叶えない。
抜け落ちたものを戻さない。
ただ、迷うもののそばにいる。
その一文を書いた時、満願堂の奥の空気が少しだけ軽くなった。
奥の棚で、いくつかの品が静かに眠っている。
抜け落ちたものは、戻らない。
けれど、完全に迷子にならない場所がある。
それが、モルのいる満願堂だった。
その夜、ロイは満願堂の奥の棚を思い出して眠れなかった。
抜け落ちたもの。
自分にも、何か抜け落ちたものがあるのだろうか。満願具を使ったわけではない。魔願具も買っていない。けれど、満願堂へ通ううちに、以前の自分から少し変わったものはある。
ただの仕事先ではなくなった。リゼットを見る目も、モルを見る目も、納め物を見る手つきも変わった。
変わったことは、何かを得たことでもある。だが、同時に何かを落としたことでもあるのかもしれない。
翌日、ロイは満願堂でモルに聞いた。
「俺にも、ないものがあるのか」
モルは彼を見上げた。
「ある」
ロイは少し身構えた。
「何が」
「ねぼけ」
「……寝不足のことか」
「うん。ねむいにおい」
リゼットが小さく笑った。
ロイは真面目に聞いた自分が少し恥ずかしくなった。
だが、モルは続けた。
「でも、ロイ、まだ持ってる」
「何を?」
「帰るところ」
その言葉に、ロイは黙った。
逓便局。自分の部屋。日々の配達。ココの軽口。ヴェルナーの叱責。満願堂だけが、自分の場所ではない。
リゼットはカップを置く手を止めなかった。
けれどロイには、その言葉が彼女にも届いたように感じた。
帰るところ。
満願堂の管理人であるリゼットには、満願堂がある。けれど、それは帰るところなのか。それとも、ずっといるところなのか。
まだ聞けない。
聞くには早い。
モルは欠伸をした。
「ロイ、寝る」
「仕事中だ」
「じゃあ、あとで」
その軽いやり取りの下で、ロイはずっと考えていた。
持っているもの。ないもの。抜け落ちるもの。
満願堂の謎は、月環の堂の奥だけではなく、今ここにいる人たちの中にも少しずつ影を落としている。
モルはその日の夜、いつもより長くリゼットのそばにいた。
何かを返すわけではない。問いに答えるわけでもない。ただ、カウンターの上で丸くなり、時々リゼットの手元を見ている。
リゼットは納願帳を閉じ、モルの背をそっと撫でた。
「何もしないでいるのは、難しいですね」
「うん」
モルは目を閉じた。
「でも、いる」
その短い言葉は、満願堂のどの説明よりも、モルをよく表していた。




