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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第二章 奥の棚に眠るもの

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第六十八話 月環の堂

月環の堂が、初めから堂として建てられていたわけではない。


そのことをリゼットが言った時、ココは不思議そうな顔をした。


「堂なのに?」


「ええ」


「じゃあ、何だったんですか」


「家であり、金庫であり、戸口であり、置き場でした」


「たくさんですね」


「まだ、名前が定まっていなかったのです」


その日の満願堂には、古い地図が広げられていた。


逓便局の保管庫から見つかった写しで、今の月環街とは道の形が違う。大通りは細く、現在の市場は空白で、北門近くにはまだ停留所がない。


そのかわり、街の端に小さな丸印があった。


月環に似た輪。そばに、読みにくい字でこう書かれている。


願い物を置くところ。


「月環の堂とは書いていないんですね」


ロイが言った。


「この地図の時点では、まだそう呼ばれていなかったのでしょう」


ヴェルナーは眼鏡を直す。


「少し後の記録では、月環の堂とある。呼び名が定着するまで、時間があったのだろう」


ココは地図を覗き込む。


「ここ、今の満願堂の場所ですか?」


「近い」


ヴェルナーが答える。


「ただし、完全には重ならない。古い道は今と違う」


モルが地図の端を嗅ぐ。


「ここ」


「分かるんですか?」


「におい」


「地図にも匂いがあるんですね」


「ある」


モルは当然のように言った。


リゼットは地図の丸印に指を置いた。


「母の金庫、父の扉と鍵、子どもの目。それらが揃ったことで、願い物を納める場所が生まれました」


「そこが、月環の堂」


ロイが言う。


「後に、そう呼ばれるようになります」


過去の家は、もう普通の家ではなかった。


母の金庫は、子どもの大切なものを守る場所になった。父の扉と鍵は、通してよいものと通してはいけないものを選ぼうとした。子どもの目は、鍵の中心で願いの行き先を見定めようとした。


やがて、人々はその家をただの家として見られなくなった。


人形を借りたい者、鈴を鳴らしたい者、声を残したい者。誰もが戸口まで来た。だが、すべてが通されたわけではない。


ある者は戸の前で泣き、帰った。


ある者は願い物を置き、受け取られなかった。


ある者は、何も言わずに帰った翌日、自分が本当は何を願っていたのかに気づいた。


「受け取られなかったものは、どうなったんですか」


ココが聞く。


「持ち帰ったのでしょう」


リゼットは答える。


「記録には、無理に置き去りにしてはならないとあります」


「置き去りにしたら?」


「迷います」


その声は静かだった。


モルが地図の上で小さく頷く。


「迷う」


人々は、願い物を置くための台を作った。


最初は家の入口にあった小さな台だった。誰かが持ち込んだ箱や鈴や布を、一時的に置く場所。そこに置かれたものは、通されるものなら金庫の奥へ消えた。通されないものは、そのまま残った。


誰が判断しているのか、人々には分からなかった。


母なのか、父なのか、子どもなのか。金庫なのか、扉なのか、鍵なのか。


あるいは、願い物そのものが行き先を選んでいるのか。


分からないから、人々は恐れた。


恐れながらも、必要とした。


雨を求める人がいる。声を残したい人がいる。笑いを取り戻したい人がいる。誰にも言えない願いを持つ人がいる。


願い物は増えた。


子どもの周りだけではなく、別の家、別の村、別の人の手元にも、願いを宿した物が生まれるようになっていった。


それらを壊すには惜しい。持ち続けるには重い。誰かへ渡すには危うい。


だから、人々はその台へ持ってくるようになった。


「月環の堂は、願い物を集めたんですか」


ロイが尋ねる。


「集めたのではございません」


リゼットは即座に答えた。


その早さに、ロイは少しだけ驚いた。


リゼットは自分でも強く言いすぎたと思ったのか、少しだけ目を伏せる。


「失礼しました」


「いえ」


「月環の堂は、願い物を買い集めたり、奪ったりした場所ではございません。行き先のない願い物が、持ち込まれるようになった場所です」


「戻ってきた?」


ココが言った。


「戻る場所があった、という方が近いかもしれません」


リゼットは地図を見る。


「まだ、満願堂ではありませんでした。ただ、願いが置かれる場所でした」


月環の堂という呼び名が生まれたのは、いつだったのか。


はっきりした記録はない。


ただ、納め台のそばに月環の印が刻まれた頃から、そう呼ばれるようになったらしい。月の輪のように閉じているが、完全な円ではない。どこかに小さな切れ目があり、そこが扉にも見える。


閉じるもの。通すもの。見定めるもの。


人々はそれを月環の堂と呼んだ。


ヴェルナーは古い地図を畳みながら言った。


「逓便局の前身となる納め番は、この頃から関わっている」


「もう?」


ココが耳を立てる。


「ああ。願い物を持ち込めない者の代わりに運ぶ人間がいた。最初は家族や隣人だったのだろう。やがて、それを専門にする者が出た」


「それが納め番」


「そうだ」


ロイは地図を見た。


願い物を置くところ。


今なら満願堂と呼ばれる場所。だが、その始まりには紅茶も古書もない。店でもない。ただ、願い物が行き着くかどうかを待つ台があるだけだった。


「怖い場所だったんでしょうか」


ココがぽつりと言った。


リゼットは少しだけ考える。


「怖かったと思います」


「今の満願堂も、怖いって言う人はいますけど」


「ええ」


「でも、僕は紅茶がおいしいと思います」


ココの声は素直だった。


リゼットは微笑んだ。


「ありがとうございます」


「昔も紅茶があれば、怖くなかったかもしれませんね」


その言葉に、リゼットはすぐには答えなかった。


ロイは彼女の手元を見た。


リゼットの指が、ほんの少しだけカップの縁に触れて止まっている。


紅茶は、後から加わったものだ。


願いを持つ人が、いきなり奥へ行かなくて済むように。少し座って、自分が何を願っているのかを確かめられるように。


それをロイはまだ知らない。だが、リゼットの沈黙から、何かがそこにあると感じた。


「そうかもしれません」


リゼットはようやく答えた。


「温かいものがあるだけで、人は少しだけ待てますから」


エリアスが窓際で本を閉じた。


「私は、紅茶がある今の方がいいわ」


皆がそちらを見る。


エリアスは穏やかに微笑んだ。


「昔の堂も大切なのでしょうけれど、私は満願堂しか知らないもの」


「エリアス様らしいお言葉ですね」


リゼットが言う。


「そう?」


「ええ」


モルが言った。


「エリアス、いつもの人」


「ええ。いつもの人よ」


エリアスはまた本を開いた。


その自然さに、少しだけ空気が和らいだ。


月環の堂。


願い物を置くところ。


古い地図の小さな丸印は、今の満願堂とは違う場所のようでありながら、確かに繋がっていた。


その夜、リゼットは一人で黒鉄の扉の前に立った。


モルはカウンターで眠っている。店の灯りは落とされ、ステンドグラスも暗い。


扉の中央には、閉じた一つ目の意匠がある。


「月環の堂」


リゼットは小さく呟いた。


その名を声にすると、店の奥が少しだけ古くなる気がした。


今の満願堂は、古書と紅茶と願具の店だ。客は席に座り、カップを持ち、時には何も買わずに帰る。モルは受け取り印を押し、ココに撫でられ、ロイはカウンターの前で緊張する。


だが、その下には願い物を置く台があった。


受け取られるかどうか分からないまま、人々が願いを置いた場所。


リゼットは扉へ触れなかった。


ただ、少しだけ頭を下げた。


昔の堂へではない。今の満願堂へでもない。


その間にある、長い時間へ。


翌朝、ココがまた普通便を届けに来た。


「リゼットさん、昨日の地図、写しを作ってもらえるそうです」


「ありがとうございます」


「あと、局長補佐が、古い地図は絶対なくすなって五回言ってました」


「五回」


「はい。たぶん六回目も言うと思います」


モルが言う。


「ヴェルナー、しんぱい」


「そうですね」


リゼットは笑った。


ココはカウンターに荷物を置き、店内を見回した。


「ここ、昔は怖い場所だったかもしれないんですよね」


「そうかもしれません」


「でも、今は満願堂です」


「はい」


「じゃあ、よかったです」


ココはそれだけ言って、受け取り帳を出した。


リゼットは印を押し、モルはその上から前足で軽く押した。


少しだけ斜めだった。


ココは何も言わず、にこにこと撫でた。


「今日もえらいです、モルさん」


「モル、えらい」


満願堂の朝が始まる。


月環の堂の上に、新しい店がある。


けれど新しい店は、月環の堂を消していない。ただ、そこに紅茶の香りと、頁をめくる音と、少し斜めの受け取り印を重ねている。


その重なりが、今の満願堂だった。


古い地図の写しは、満願堂の奥の棚ではなく、カウンター下の引き出しへしまわれた。


納め物ではない。願い物でもない。けれど、満願堂の今を知るために必要な記録だった。


リゼットが引き出しを閉じると、モルが床を嗅ぎ始めた。


「ここ?」


「何がですか」


「台」


リゼットは少しだけ手を止めた。


満願堂のカウンターは、月環の堂の納め台と同じ場所にあるわけではない。道も建物も変わっている。何度も改修され、床板も張り替えられている。


それでも、モルはカウンターの前の床を嗅いでいた。


「ここ、近い」


「そうですか」


「昔、置いた」


その言葉は、誰に向けたものでもないようだった。


リゼットはカウンターの前に立つ。


今ここには、客が紅茶を置き、納願帳に願いを書き、逓便局の受け取り帳が置かれる。モルがはんこを押し、ココが撫で、ロイが緊張し、エリアスがいつもの紅茶を受け取る。


昔は、ここに願い物を置いたのかもしれない。


受け取られるかどうかも分からないまま、誰かがそっと置いたのかもしれない。


リゼットは床へ手を伸ばさなかった。


ただ、カウンターを軽く拭いた。


「今は、ここでお茶を出します」


「うん」


モルは頷く。


「今は、紅茶」


「ええ」


「昔は、台」


「はい」


「どっちも、置く」


リゼットは微笑んだ。


紅茶を置くこと。願い物を置くこと。言葉を置くこと。沈黙を置くこと。


形は変わっても、何かを置ける場所であることは変わっていないのかもしれない。


その日の午後、ロイが来た時、カウンターはいつもより丁寧に磨かれていた。


「何かありましたか」


「少し、昔の掃除をしていました」


「昔の掃除?」


「ええ。今の埃ではなく」


ロイはよく分からなかったが、なぜかそれ以上聞かなかった。


満願堂には、今の布巾では拭えないものがある。


それでもリゼットは、今日もカウンターを磨く。


月環の堂の上に新しい店を重ねるとは、きっとそういうことなのだろう。


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